幸せの時計塔
狭いな──と、ラヴィーネは思う。
セインとジェイセンに挟まれて、馬車の座席に座っている。セインがこちらにと、ラヴィーネを隣に呼び、抱き寄せられたと思ったらジェイセンがどかりと横に座ったのだ。
正面の席が空いているので移動しようとしたら、セインに腰を抱かれ、ジェイセンに腕を掴まれた。
*
「おはよう、私のラヴィ。出かける支度をしようか」
目覚めたラヴィーネに、開口一番セインが言った。
銀のカートには朝の支度セットがのっている。視線を巡らせると、テレーズたちが彼の背後で「ラヴィーネ様のお支度は私たちが!」とわたわたしながら主張している。
「では君たちは朝食の支度を。果物の盛り合わせ、野菜のスープ、昨日煮ておいたラズベリーのジャムとスコーンがいい。部屋に運んでくれるか? 私がラヴィに食べさせる」
「は、はい……!」
セインの指示でテレーズたちは部屋から出て行った。
ジェイセンはまだ、ラヴィーネの腰を抱いて眠っている。幼い子供のような寝顔だと感じて、ラヴィーネは彼の髪を撫でた。
セインに促されて、彼の眠りを妨げないようにしながらゆっくりと体を起こす。
ベッドに座ったセインは、あたたかいタオルでラヴィーネの顔を拭いた。
慣れた手つきで肌に保湿のオイルを塗り、唇をゆっくり撫でる。
徐々に覚醒してきたラヴィーネは、触れる手の心地よさと恥ずかしさに軽く眉を寄せた。
ぱちぱち瞬きをして、セインを見つめる。すでに身嗜みを整えている彼は、今日は長い髪を几帳面に整えて細いリボンで結んでいた。
ブラシでラヴィーネの髪を丁寧にとかしながら、彼は口を開く。
「王都に時計塔があるだろう。この国の中で一番高いといわれている建物だ。上るのは少々大変だが、そこから見える景色はとても美しい。見晴らし台にある鐘を鳴らすと、幸福が訪れると言われている」
「ええ、知っています。上ったことはないですが……」
「今日はそこに行こうと思っている」
「……それは未来の私の、好きな場所、ですか?」
「いいや。私が助けられなかったラヴィは、怪我をしてしまった。時計塔には上ることができなかった。だから……というわけではないが、ほら、あの場所はデートスポットなんだ。君を案内したい」
時計塔に上れないほどの怪我を──と、ラヴィーネは考える。
セインが現れなければ、ラヴィーネも同じように怪我をしていた。時計塔に上れなくなってしまったのは、後遺症だろう。
もしかしたら、セインは未来のラヴィーネがしたくてもできなかった望みを、叶えようとしてくれているのかもしれない。
時計塔には──上ってみたかった。
鐘を鳴らすと幸せになれるなんて信じているわけではないが、ほんの少しの期待はあった。
だが行かなかった。そんな機会がなかったのもあるが、鐘を鳴らしたところで何一つ変わらなければ、その微かな希望さえ打ち砕かれてしまうことをわかっていたからだ。
セインは髪を梳かして、丁寧に編んでくれる。彼の無骨な手は思いのほか器用で、彼のラヴィーネを甲斐甲斐しく世話していたことがよくわかる。
指先から伝わる優しさは、気怠い甘さを孕んでいる。
こんな毎日を続けていたら、心臓が蕩けてしまって、彼がいない毎日には物寂しさを感じるようになってしまうかもしれない。
私はきっと──とても幸せなのだろうと、ラヴィーネは思う。
髪が編み終わるころに、テレーズが食事がのったトレイを運んでくる。
「セイン様、ベッドの上で食べるのは、お行儀が悪いです」
「君はなにも心配しなくていい。今日の私は、君を甘やかしたい気分なんだ」
「それは、いつもではないですか?」
「あぁ。常に甘やかしたい。これでもまだ足りないぐらいだ」
セインはラヴィーネの首にナプキンをかけると、スープを口に運んでくれる。
慣れとは怖いもので、ラヴィーネは口を開いて素直にそれを受け入れた。
抵抗も拒否も、する気さえ起きない。口を開けば美味しいものが運ばれてくるという状況を、甘んじて受け入れてしまっている。
だって──おそろしいぐらいに、美味しい。
昨日のセインが作ってくれた料理も、今朝のスープやセインの手製のジャムも、スコーンも。
瞳を潤ませて「美味しいです」と、感動を伝えると、セインは愛おしそうに目を細めた。
傍に控えているテレーズは、瞳をきらきらさせている。はっとしてラヴィーネが彼女に視線を向けると、「私は壁です、お気になさらず」と、にっこり笑った。
壁──にはとても見えないが、気にしないほうがいいのだろう。
テレーズや侍女たちはセインの存在を快く思っている。
時折セインは不思議な話をする。近くで聞いているテレーズは、もしかしたらセインがジェイセンの兄ではないことを、薄々感づいているのかもしれない。
食事を終えてから、着替えのためにセインが服を脱がせようとするので、それはさすがにテレーズたちに変わってもらった。
せっかくのお出かけなので綺麗にしましょうとはりきるテレーズは、白いブラウスと群青色のロングスカートを持ってきてくれる。華美過ぎず、地味過ぎない清楚な服装に着替えさせてもらい、薄く化粧をした。
「美しいです、ラヴィーネ様!」
テレーズや侍女たちに褒められて、鏡の中の自分を見る。
以前はやつれた印象があったが──今は、肌も髪も潤っていて、確かに年相応の瑞々しさがある。
これが自分かと、ラヴィーネは鏡の中の己の姿をまじまじと眺めた。
夜会に出た時もドレスを着たが、ドレスに着られているような感覚があった。
今は、それもない。
支度部屋から出ると、セインが廊下の壁に背を凭れさせて待っていた。
「綺麗だ、ラヴィ。馬車を準備してある。時計塔に上って、それからレストランで食事をしようか。宿に泊まって夜景を見るのもいいな。テレーズ、今日は戻らないかもしれない」
「はい。お気をつけていってらっしゃいませ」
「──待て、どこに行く気だ」
よく眠っているので、そのまま寝かしておいてあげようと、ラヴィーネはジェイセンに声をかけなかった。
彼はとても疲れているようだったから、と。
出かけようとしているラヴィーネとセインを、慌てて追ってきたのだろう。
寝起きで乱れた姿のままのジェイセンが現れて、不機嫌と焦りの混じる低い声音で尋ねてくる。
「お前は寝ていろ」
「ジェイセン様はお疲れのようですから、ゆっくり寝ていてください」
「ラヴィーネのおかげでよく眠ることが出来た。疲れも取れた。三分で支度を終える、俺も行く、待っていろ」
──というわけで、三人で出かけることになった。
ラヴィーネは広いはずなのにやけに狭い馬車の中で、この状況はなんなのかしらと、困り顔で考えていた。




