夜の語らい
◇
いい子ね、ジェイセン。あなたは秘密を守れるわね──。
名も知らない、大輪の花の前で母が笑っている。小さなジェイセンと視線を合わせて、口元に指をあてる。しぃ、と、秘密を共有する仕草に、胸苦しさと吐き気に襲われた。
よくないことを、母はしている。それを父に隠そうとしているのだ。
「父上、母上が……」
父が長らく家を不在にしていたのは、辺境で大規模な魔物のスタンピードが起こったからだ。
辺境伯の有する私兵たちでは手に負えず、父に救援要請が来た。
皆のために戦う、頼りにされている父はジェイセンの憧れだった。
寡黙で愛想笑いもできないような人だったが、ジェイセンに剣を教えてくれる大きな手はいつでも優しかった。
父に隠しごとはできない。でも、母との約束を破るのはいけない。長い間悩み抜き、とうとうジェイセンは母と護衛騎士のよくない姿を見た日から半年後、帰還した父に伝えてしまった。
「そうか」
表情のあまり変わらない人だ。しかしその抑えた声や血走った目は、雄弁に父が激しい怒りを感じていることを告げていた。
「すぐに、あの男を連れてこい。ジェイセン、お前は見ていろ。罪には罰が与えられる」
父の部下たちにより、護衛騎士は母の大切にしている花が咲き乱れている庭園に連れてこられた。
『ジェイセン様、今日は寒いですよ。マントをお持ちしました』
『剣術の鍛練で、手の豆がつぶれていますね。薬をお持ちしましょう』
彼の声が、耳奥で木霊する。父よりもずっと若く、優しい男だった。年の離れた兄のように感じたこともある。
母が兵士に腕を拘束されている。真っ白になった顔はまるで死人のようだ。母は見開いた瞳で、ジェイセンを見つめていた。優しい、大好きな母だったはずなのに、無性に恐ろしかった。
護衛騎士の首が地面に押し付けられる。父は振り上げた剣で、その首を簡単に落とした。
地面に広がっていく赤が、ジェイセンの視界を染めた。
「……っ」
暗闇の中で、目を覚ます。何度も繰り返し見る悪夢に、またかと、眉を寄せた。
『父上、母上が苦しんでいます』
『構うな。あれの役目はもう終わった。罪には罰が与えられる。どんな形であっても、必ずだ。病気は、与えられた罰。多額の金を使い治療する必要などない』
『ですが』
『ジェイセン、お前は公爵家当主として、領地や民を守る義務がある。必要以上に他者に情をかけるな』
ジェイセンが十歳の時、母が死んだ。護衛騎士が私刑に処されてからおおよそ二年後のことだ。
寡黙な父はますます寡黙になり、公爵家に笑い声が響く日はなくなった。
幼い頃は、母がよく笑っていたように思う。最早失われてしまった、遠い日の幸せな記憶だ。
護衛騎士が死んでから母が家中に飾るようになった花も、誰も手入れをせずに枯れて捨てられた。
庭園だけは、多くの花がジェイセンを嘲笑うかのように咲き乱れていた。それは母の目を思い起こさせる。ジェイセンの罪を糾弾する目だ。
間違ったことは、していないはずだ。けれど母の目は、愛する人が殺されたのはジェイセンのせいだと──己の息子を責め続けていた。
もうその目で見られるようなことはない。
成長するにつれ母が行っていたことを理解できるようになったジェイセンは、女という存在に対して嫌悪を抱くようになった。
十七歳の時に父が死んだ。魔物討伐での怪我が原因で、帰らぬ人となった。
父は思えばずっと、死に場所を求めていた。母の裏切りで、父の心はとっくの昔に死んでいた。
公爵位を継ぐと、社交の場でよりいっそう貴族の女たちがすり寄ってくるようになった。その媚びるような声や表情に母が重なり、嫌悪感で気分が悪くなった。
誰かと結婚するなど考えたくもなかったが、血を繋ぐ必要はある。
このところの大規模な魔物による被害で作物の出来が悪くなり、食糧難に陥る可能性があった。
だから、エルーニャ家に打診をしたのだ。アイビーを妻に迎えさせてもらう。その代わり、エルーニャ家の小麦や食料品の優先的な交易権が欲しい、と。
──ラヴィーネにしてしまったことを、ジェイセンは後悔している。
未来から自分がくるという奇跡によって、目が覚めた。セインの言葉に横面を殴られて、本当にその通りだと感じた。
こんなに最低な男にも、ラヴィーネは優しくしてくれる。
ジェイセンは温もりを求めるように、ラヴィーネの腰に回した手に力を込める。
骨がすぐに折れてしまいそうなほどに華奢な体は、ジェイセンとは違ってどこまでも柔い。
胸に顔を寄せると、心臓の音がする。ラヴィーネは無意識の内に、ジェイセンの頭を抱き寄せた。規則正しく上下している膨らみが頬にあたり、ジェイセンは眉を寄せる。
罪には、罰が与えられる。
それなのに何故、彼女は最低なことをしたジェイセンに優しくしてくれるのだろう。
まるで、許しを与えられているように。
花をくれた。花には感謝という意味が込められていた。ジェイセンの剥いた不格好な果物を美味しいと言って食べてくれた。ジェイセンが人々のために戦っているのだと、認めてくれた。
抱きしめて、眠ってくれた。
『いい子にしてください』
母に、そう言われたときはおぞましさしか感じなかったのに──ラヴィーネの言葉は、穏やかな春風のようにジェイセンの心に響く。
彼女が──愛おしい。胸の奥に生まれた感情は、ジェイセンが否定し続けていたものだ。
誰かに心を傾けるなと教育され続けてきた。合理的な判断以外は必要ないと、自分を戒め続けていた。
この柔らかな温もりの中で、長年心を縛り続けていた父から受けた教育が、呆気なく崩されていく。
「ラヴィが、愛しい。もっと触れたい。可愛い、好きだ、俺のラヴィーネ──などと、思っているだろう」
暗闇の中で静かに響く声に、ジェイセンは目を伏せる。
セインが起きているのだ。もう一人の自分の声は、自分自身の心の声のように聞こえる。
「私はお前よりも先にラヴィに口づけて、お前よりも先にラヴィを抱く。それがお前への罰だ」
「……黙れ、クズが」
聞き捨てならない言葉に、低い声で返した。ラヴィーネを起こさないように声は抑えたが、本当は怒鳴りつけて殴りたかった。セインもまたラヴィーネを傷つけたはずだ。ならばお前への罰はどこにあるのだと。
「わかっているだろう。私はお前だ。お前と同じ、クズだからな。大切なものはラヴィだけ。他にはなにもいらない。他者の命も、国も、世界も……なにも」
「ラヴィーネには言うな」
「ラヴィを、悲しませたくはない」
義務だから、戦っている。公爵家の当主としての責任と、与えられた役割のために生きている。
本当に大切なものなど、何一つなかった。
ラヴィーネが大切だと気づいてしまった今、それ以外のなにもかもが、ジェイセンにとって色褪せて見れた。はじめから、色などついていなかったかのように。
セインが眠るラヴィーネの髪に口づけている。
はやく消えてしまえと、心の中で毒づいた。




