愛妻家の食卓
ラヴィーネの黒髪には、どんな色でも映える。テレーズが嬉しそうに褒めながら、髪を結い小花の髪飾りで飾ってくれる。
ラヴィーネは少し考えて、十一本のガーベラをもう少し摘んで十六本に増やした。
八本ずつの花束にして、食堂に持っていく。
「ようこそ、私のラヴィ。準備ができている。こちらにどうぞ」
扉を潜ると、セインがラヴィーネの腰に触れて奥に案内してくれる。
食堂の長テーブルには白いクロスがかけられていて、セインが作ったボロネーゼやローストビーフ、桃とクリームチーズに蜂蜜と黒コショウのかかったデザートなどが並んでいる。
果物の盛り合わせも、ラヴィーネが剥いたものと、ジェイセンの剥いた不格好なものが皿に盛りつけられている。その前でジェイセンはやや居心地が悪そうにしている。
「花を持ってきてくれたのか?」
「はい。こちらは、セイン様に。そしてこちらは、ジェイセン様に」
ラヴィーネは花束を二人に渡した。八本のガーベラを受け取って、セインは穏やかに微笑む。
「ありがとう、ラヴィ」
「……俺にも?」
「はい。ジェイセン様は、お花はお嫌いではないでしょうか。八本のガーベラには、思いやりに感謝を、という意味があります。あなたに、感謝を」
「俺は、何もしていない。お前にまだ、何も」
「そんなことはありません。私の話を聞いてくださいました。私を心配して、ここまで来てくださいました。ありがとうございます、ジェイセン様」
ジェイセンはラヴィーネからガーベラの花束を受け取る。その無骨な手は、僅かに震えている。
「お嫌いでしたか、ガーベラ。庭に、綺麗に咲いていたものですから。希望に満ちた意味を持つ、愛らしい花で、私は好きですが……もしご気分を害されたのなら、ごめんなさい」
「違う」
「そうではない、ラヴィ」
ジェイセンの言葉を、セインが継いだ。彼はガーベラに顔を近づける。昔を懐かしむように、目を伏せた。
「私から話すか、それともジェイセン、お前が話したいか?」
「──隠している、わけではない。話せないというわけでもない。余計な気づかいは無用だ。お前もそれを、お前のラヴィーネに話したのだろう」
「あぁ」
「庭の花は、母が手入れをしていたものだ。花が好きな人で、よく植えていた。この花も、よく部屋に飾っていた。俺は名を知らない。ガーベラ、というのだな、これは」
彼の母は、不貞を働いていたという。
ジェイセンが女性を拒絶するようになった原因にあたる人だ。
「母は、評判のよい人間だった。夫の留守をよく守る、清楚で品行方正な理想の妻。俺にも優しかった。……だが、八歳のころだ。俺は母が護衛騎士に抱かれている姿を見た」
「……っ」
ラヴィーネは息を呑む。不貞を見た──という言葉以上に、残酷な事実がそこにはあった。
母親というのは、幼い子供にとって世界の全てだ。ラヴィーネもそうだった。
全幅の信頼を寄せる相手に裏切られた。どれほどの傷になったのだろう。
ラヴィーネのようにはじめから愛されないほうが、まだいいのではないかと思うぐらいに、その記憶は痛いものだ。
「母は、それを忘れろと俺に言った。どういうつもりで母が護衛騎士と不貞を働いていたのかはわからない。父は俺と同じで、家を留守にすることが多かった。単純に、寂しかっただけなのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。母は俺に知られても、その男との関係を切ろうとはしなかった」
父が不在のときに、母は護衛騎士とよく二人で部屋に入って行った。
なにをしているのか幼いジェイセンにはわからなかったが、嫌悪感のみが、肌の上を無数の虫に這いまわられているようにジェイセンを苛んだ。
そして──。
「俺は、父に伝えた。母上が、護衛の男と裸で抱きあっていた。あれは、どういうことなのか、と」
「それは……でも、ジェイセン様は正しいことをしました。よくないことをなさっていたのは、お母上なのですから」
「あぁ。間違ってはいない。そう思う。……父はその男を斬った。母の目の前でな。母はそれから、より多くの花を植えるようになった。屋敷の中は飾られた花だらけになり、鼻が曲がるほどの甘い匂いが充満していた。それからしばらくして、母は病気になった」
それは流行病だった。病で命を落とす者は多い。よくある話といえば、そうだ。
ジェイセンは一度そこで言葉を区切る。
セインは静かにジェイセンの話を聞いている。彼にとっては古い記憶だ。その記憶の傷は、彼の中ではもう塞がり、通り過ぎたものなのだろう。だがジェイセンの傷はまだ開いている。
「父は、治療をしなかった。捨て置け、と。俺は父によって、教育を受けた。アーバン家の当主は人々を守る義務がある。私情を交えてはいけない。女は子を産むための道具だ。母は俺を産み、役目を果たした。それだけの存在だ。愛などは幻想。心を開く必要はない。心を、傾けてはいけない。合理的な判断を常に心がけろ、と」
ラヴィーネは思わず、ジェイセンの両手を握り締めていた。
彼が持つガーベラの花束が揺れる。嫌な記憶が詰まっている、甘い香りのする花を、彼はどういう気持ちで受け取ってくれたのだろうか。
それを考えるだけで、心が痛む。
「ジェイセン様……もう、それ以上は。何も知らなくてごめんなさい。この花は、受け取らなくていいです」
「もらう。セインの言う通りだ。もう成人を迎えて、いい年だというのに……母の記憶を引きずり、女は薄汚い、裏切るものだと嫌悪した。噂の真偽を確かめもせずお前を嫌い、アーバン家のために別の者に子を産ませることまで考えていた。本当に、最低だな」
「いいえ。心の傷は、大人になれば癒えるものではありません。家族を信用できなければ、他の誰も、信じられなくなってしまいます。私も、同じです」
でも、今は違う。ジェイセンはラヴィーネのために努力してくれている。
変わった先に、セインがいる。怪我をしたラヴィーネはきっと、彼を支えたのだろう。
「ジェイセン様のお母上が、なにを考えていたのかはわかりません。血が繋がった家族であっても、わからないことがたくさんあります。私も愛されませんでした。ずっと、苦しかった。それでも今、あなたと会えた。こうして一緒にいることができます。たとえあなたに嫌われていても……それだけで、私は少しだけ、楽になりました」
「嫌ってなどいない。ラヴィーネ……この花は、飾らせてもらう。花を美しいとはじめて思った。お前から贈られて、嬉しいと……今は思える。感謝する」
ラヴィーネは彼を励ますように微笑んだ。それから、何も言わないセインに視線を向ける。
少し寂しそうに見えた。だから、彼の手にもそっと触れる。
「ラヴィ、私は大丈夫だ。私にとってそれは、もう過ぎ去った記憶だ」
「それでも、思い出せば傷口が疼くでしょう。セイン様……未来の私を大切にしてくださって、それから、私を守ってくださって、ありがとうございます」
「あぁ。……抱きしめてもいいか」
「どうぞ」
なんだかセインは、今にも泣きだしそうに見えた。
ラヴィーネが両手を広げると、彼は優しくラヴィーネを包み込む。果てしない愛情を、全身に感じる。
彼の背に手を回して、広い背中を撫でる。
「……ずっとこうしていたいが、食事が冷めてしまう。食事の前に嫌な話になって、悪かったな」
「いいえ、大切な話です。私はジェイセン様を知ることができて嬉しかったです」
セインはラヴィーネから手を離して、椅子に座らせた。
彼のボロネーゼは、今まで食べたものの中で一番美味しいと思う。
ジェイセンの剥いた果物を、ジェイセンは下げようとした。ラヴィーネは潰れかけた桃を口にいれると、「美味しいです」と言って彼を見つめる。
ジェイセンは俯き、絞り出すような声で「ありがとう」と言った。




