おそらくそれは秘密の楽しみ
猫足のバスタブに湯をたっぷり張って、体を沈める。タイル張りの広い浴室の中心にあるバスタブの湯には薔薇の花弁が浮かんでいて、心を華やかせてくれる。
香りつきの蝋燭や近頃王都で人気のシャワージェルからも、よい香りがふんわりと空気の中に溶けていた。
「セイン様がいらしてから、ジェイセン様はようやくラヴィーネ様の魅力に気づいたのですね」
髪を洗いながら、テレーズが弾んだ声で言った。
「あの女……こほん。ではなくて、アメリさんの言葉を鵜呑みにする困った主ではなくなってくれて、よかったです」
アメリはすでに実家に送り返されている。詳しいことは聞いていない。セインは、そんなことは気にしなくていいと言っていた。実家に戻し、アーバン家に与えた損害を請求する。
その後のことはアメリの両親に任せるという。懸命な親であれば、罪の重大さに気づきそれなりの対応をするだろうと、セインは言う。セインだったら、家から追い出すそうだ。
だが追い出したところで、貴族の令嬢は普通一人で生きていくことなどできない。
路頭に迷い魔物に食われるだろうと言って、不安に揺れるラヴィーネの瞳を覗き込み、あくまで自分だったらそうするというだけだと困ったように笑った。
セインはラヴィーネに優しいが、他者に対しては冷酷な瞬間がある。
あくまでも、誰かを加害した者に対する冷酷さだ。罪を犯したものを、どこまでも憎んでいる。
それはジェイセンがこれからの十年、公爵として領地や国を守った故に、元々あった冷静な判断力がより顕著に研ぎ澄まされた結果なのかもしれない。
ラヴィーネの知らない人生を、セインは別の──大階段から落ちて怪我をしたラヴィーネと歩んでいる。
とても、不思議だ。
もう一人のラヴィーネは、セインの手料理が好きだった。
花が好きで、本が好きだった。
そしてセインに……ジェイセンに、深く愛されていた。
怪我をしたラヴィーネは、セインがいなくなってしまって不安ではないのだろうか。十年後ということだから、きっと子供もいるだろう。たとえば十歳には届かない年齢だとして、きっと可愛い盛りだ。
セインは、会いたくないのだろうか。ラヴィーネを怪我から救ったのだから、彼はもう元の未来に帰ってもいいはずなのに。
もしかしたら、ジェイセンとラヴィーネの仲を円滑にするために、ここにいてくれているという可能性もある。
セインのおかげで、ジェイセンはラヴィーネを嫌わなくなった。
そんな奇跡が起こるなんて、馬鹿げた妄想でしかないと、今までのラヴィーネなら自嘲するだけだっただろう。
「こうしてラヴィーネ様のお世話をしたかったのです。ラヴィーネ様が私たちを守ろうとしてくださっていたのを知っています。アーバン家の侍女なんて早々に辞めてしまおうって本当は皆で話していたんですよ。それでもお金は欲しいですから、悩んでいたのですけどね」
「もし何かあったら、言ってね。今のジェイセン様なら、私の話を聞いてくれると思うから」
「ありがとうございます! でも、ラヴィーネ様。もっと、私たちにもジェイセン様にも怒っていいのですよ。半年もの間、辛い思いをしたのですから」
心配そうにテレーズに言われて、ラヴィーネは軽く首を振った。
湯が揺れて、波紋が広がる。揺れる薔薇の花弁は、波間に揺蕩う小舟のようだ。
「怒ったりは、しないわ。私が不甲斐なかったから、何かを変えることができなかったの。でも、これからは……できる限り、話をするわね。嫌われても傷ついても、黙ったままでいるよりずっと、いいから」
セインが来た日、勇気を出してジェイセンに連絡してよかった。
疑われて、冷たいことは言われたけれど、ジェイセンは来てくれた。何も言わないままでいたら、ジェイセンとの関係はもっと最悪なものに変わっていたはずだ。
「ラヴィーネ様が、辛い時や苦しい時、困っている時は、私たちがお力になります。どうか遠慮せずになんでもおっしゃってくださいね」
「ありがとう。心強い」
「はい、任せてください。セイン様には負けると思いますけれどね。優しくて情熱的で料理上手だなんて、完璧すぎます。ラヴィーネ様に対する愛情を見ていると、ドキドキしてしまって」
「ジェイセン様の、お兄様だから……過剰に、家族愛を向けてくださっているのね、きっと」
「ときどき、ジェイセン様もセイン様も、あなたは私、というようなことをおっしゃいますね。同じ血が流れているという意味でしょうか? だから好きな女性のタイプも似ている? ラヴィーネ様を巡って、対立する二人……兄弟に取り合いをされるラヴィーネ様。侍女というのは、特等席でそれを見ることができる非常によい仕事です」
「テレーズ……?」
「あっ、しまった、つい本音が……! ともかく、私どもはいつでもラヴィーネ様の味方です」
テレーズも侍女たちも、やけに熱心にラヴィーネの体を磨いてくれる。
なんらかの感情がそこにはあるような気がしたが、ラヴィーネは聞かなかった。
せっかく綺麗にしてもらっているのだから、疑問に思う必要はないだろう、多分。
「あの、少し気になっていたのだけど、アメリさんはジェイセン様の服を盗んだと言っていたわね。あれは一体何に使うのかしら」
「あぁ〜……」
ずっと気になっていた疑問を口にすると、テレーズと侍女たちはため息のような声をあげて、顔を見合わせる。
「ええと、ですね。その……アメリさんは、ジェイセン様が好きだったようです。あんなに性格の悪い人でも、恋をするものですね。恋は人を美しくすると言いますが、醜くなることもあるのです。それは、ともかく」
「ジェイセン様が好きだったというのは、わかるわ。私が、邪魔だったのね、きっと」
「全く、烏滸がましいことです。報われない恋心を、ジェイセン様の私物にぶつけていたのですよ。トルソーに服を着せて、ジェイセン様に見立てていたのですね。時には、抱いて寝ることで、ジェイセン様に愛されているような感覚を味わったり、など、です」
「服を抱いて、寝るの……?」
「はい。ラヴィーネ様がもしそんなことをなさったら、ジェイセン様は、たいそうお喜びになるのではないでしょうか。好きな女性にされたら嬉しいことでも、全くもってどうでもいい相手にされると、嫌悪があるものです」
テレーズは、やけに男女のことについて詳しい。
湯浴みを終えてドレスを着せてもらいながら話を聞くと、彼女が勤める貴族の家は、これで三軒目だという。
テレーズは貧乏な男爵家の娘で、十三歳から奉公という形で貴族の邸宅で働いているそうだ。
給金をあげるために、経験を積んで新しい就職先を探すことを繰り返し、破格の待遇だというアーバン家に辿り着いた。そこでアメリにいじめられたというわけである。
こんなにひどい家は初めてだったとテレーズが憤慨すると、他の侍女たちも同意する。
二度と、そんなふうに思わせないようにしなくてはいけないと、ラヴィーネは心に決めたのだった。




