ジェイセン・アーバン、努力をする
──きゃあああ、ジェイセン様……!
という声が遠くの雷鳴のように響いた。
いつの間にか、ラヴィーネにとってひどく珍しいことに、午睡をしていたらしい。
眠れない日が多かったのに、やわらかい綿に包まれるような安心で心地よい眠りだった。
「悲鳴が、今……っ」
ベッドから起きあがるラヴィーネを、隣にいたセインが抱き寄せる。
「気のせいだろう。無粋な声だな。眠り姫の心地よい眠りをさましてしまうとは」
「せ、セイン様、おはようございます……私、いつの間にか眠ってしまって、そんなことよりもジェイセン様になにかあったのでは……!」
「気にする必要はない」
「そういうわけにはいきません」
午睡の前、ジェイセンはどこかに出かけたと使用人たちが言っていた。
なにか大変な事件が起こっていたのではないか。そんなことにも気づかずに呑気に眠っていた。
ラヴィーネはセインの胸を押して彼から離れると、ベッドから降りる。
ぱたぱたと声の方向に向かうラヴィーネの後ろを、ゆっくりセインがついてくる。
なんだかとても焦げ臭い。廊下に白い靄が漂っている気がする。
声が近づいてくる。テレーズや次女たちが、「窓を開けて」「換気!」「ジェイセン様、ご乱心を!」と騒いでいる。乱心──という言葉に、ラヴィーネは青ざめた。
屋敷に火をつけたのでは、と、一瞬思ったのである。
いや、そんなことをする理由が彼にはないのだが。
「ジェイセン様、皆、何かあったのですか……!?」
調理場を覗くと、料理人たちやテレーズたちが窓を開いてバタバタと布などであおぎ、調理場に充満した煙を逃している。
煙をあげているのは、天板に置かれた炭状の物体である。
その前でジェイセンが、世界が滅びたような顔をしている。魔物を消し炭にしたような、もしくは大切なものを魔物に消し炭にされたような表情である。
セインがラヴィーネの肩に手をおき、そんなジェイセンと消し炭を見比べた。
「これはひどい」
「ジェイセン様、もしかしてパンを焼こうとしたのですか」
「……タルトを」
「料理もしたことがないくせに、菓子を?」
消し炭は、タルト生地のなれのはてだ。確かになんとなく円形を保っているような気がする。
「本を見た。その通りに」
「見ればできるというものでもあるまい」
「いや、しかし」
「ジェイセン様、料理人たちに教わらなかったのですか?」
明らかに嘲っているセインの腕を引っ張り、ラヴィーネはジェイセンに尋ねる。
菓子というのは作るのがとても難しい。消し炭の置かれたテーブルには、果物が山のように積まれている。
果物のタルトを作ろうとしていたようだ。
不在というのは、もしかして買い物に行っていたのだろうか。ジェイセン直々に行くこともないような気がするがと、ラヴィーネは首を傾げた。
「皆には、口も手も出すなと言った。この部屋から出て行け、と」
「横暴です」
「セイン様、叱ってください」
「理由も言わずに出て行けなどと、料理人たちも困っていました」
テレーズを筆頭に、若い侍女たちがセインを頼る。この家の主人はジェイセンなのだが、まるでセインが家長のようだ。年齢的には違和感がないものの、まるでジェイセンの父のような扱われ方をしている。
「まぁ、そう言うな。ジェイセンはラヴィーネのために料理がしたかったのだろう。今までの詫びのつもりだ。食材も自分で全て買いに行き、果物のタルトを作ろうとするとは……本当に、嫌になる程、同じだな」
やれやれと、セインはため息をつく。ということは、セインも同じことをしたのだ。
そして失敗した。その経験があるから、咎めることができないのだろう。呆れた顔をしているものの、どことなく同情的でもある。
「余計なことを言うな」
「その通りだろう。素直に言えばいい」
「恩を売るようなことはしたくない。ラヴィーネ、なんでもない。お前は休んでいろ」
なんでもないと言われても、と、ラヴィーネはジェイセンに近づいていく。
薪オーブンからも煙が出ている。しばらく使えそうない。
「ジェイセン様、ありがとうございます。私のために頑張ってくださったのですね」
「違う、俺は」
「恩を売られたとは思いません。とても嬉しいです。私のために、こんなふうに頑張ってくださる人は、はじめてで……」
思わず涙ぐんでしまう。潤んだ瞳でジェイセンを見あげると、彼は息を呑んだ。
行動力のある人だとは、知っていた。決断が早いのだ。魔物の被害を知らせる報告があれば、深夜でも出立する。
だからラヴィーネについての誤解も、セインのこともすぐに受け入れて、謝罪のために買い出しに行ってくれた。
慣れない料理まで──ラヴィーネがデザートを喜んで食べていたから、作ってくれようとした。
不機嫌そうな強面の裏側にある優しさは、ラヴィーネが感じていた通りだ。
「ラヴィーネ、俺は……まだなにも、できていない。失敗ばかりだ」
「タルト生地は難しいですから。私も上手く作れません。果物は剥いただけでとても美味しいと思います。一緒に剥きませんか?」
「……あぁ」
「ラヴィーネ。そういえば夕食を用意すると言っていた。私に任せておくといい」
ラヴィーネの背中を軽くセインが叩く。彼は鍋に湯を沸かし、パスタを茹で、隣のフライパンでは肉を焼き始める。その手際のよさにラヴィーネは感心して、ジェイセンはなんとも言えない顔をした。
「セイン様、お料理もできるのですね。すごい」
「君は私の作ったボロネーゼが好きだった。それから薄切りにしたローストビーフ。桃とクリームチーズのデザート」
「き、聞いただけでも、美味しそうで……っ」
ラヴィーネはセインの元にちょこちょこ近づいていくと、手元を覗き込む。
セインは手を止めて、ラヴィーネの耳に顔を近づけた。
「油が飛ぶ、いい子で見ていなさい」
「は、はい……」
侍女たちの黄色い声と共に、ラヴィーネの頬も染まった。料理が得意な男性の背中とは、こうも頼りになるように見えるものかと感心した。
「あれが、未来の俺なのか。俺がやりそうなことではあるが、クソ腹立たしいな……」
「ジェイセン様?」
「いや、なんでもない」
ジェイセンの元に戻り、一緒に果物を切る。
彼はどうやら不器用らしい。ほとんどの果物が潰されそうになり、ラヴィーネは可食部が減ることについて、ずっとはらはらしていた。




