第9話 宴にて
この街での仕事は、終わった。
朝の自室で、エリスはしばらく小瓶を並べたまま机を見ていた。次の予定は何も聞いていない。次の街がどこかも、いつ発つかも。何も言われていない。今日は何をすればいいのか。
窓の外でヴェルノの朝が動いている。荷馬車の音。石畳を急ぐ足音。商業都市の朝だ。
トンカビーン。アンバーグリス。シベット。この三本は昨日の仕事で使った分だけ減っている。香りが渡されたときの、昨日のマルコの顔がよぎった。
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昼前にリディアが来た。
「今夜、マルコ様が宴を催されます。殿下のご同席に際し、調香師にも列席するよう仰せです」
「……宴に。私が?」
「はい。そうアルド様から仰せつかっております」
エリスは自分の服を見た。旅装だ。どの街でも浮かない格好を選んで着てきた。清潔には保っているが、これで宴の広間に入るのはためらわれた。
リディアがエリスの視線の先を静かに追った。一拍置いた。
「——お時間をいただけますか」
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リディアの部屋は整然としていた。宿先の部屋でも、余分なものが一つもないようだった。
「こちらを」
リディアが差し出したのは、深い緑色のドレスだった。宴席としては控えめな部類に入るのかもしれないが、充分に上等で品が良いものだった。
「リディアさんの……?」
「あまり着る機会のないものですが」
着替えを手伝いながら、リディアが短く言った。
「髪を、少し整えてもよいですか」
「お願いします」
リディアの指先が髪に触れた。丁寧だった。エリスの旅の荒れた毛先を、急かさずに扱った。街道で風にさらされ、宿の水で何度も洗ってきた髪だ。整えようとするなら相応の手間がかかる。それをリディアは黙って、淡々とこなした。
「殿下は」とリディアが言った。少し間があった。
「必要だとお思いになったから、連れていかれるのです」
補足しなかった。エリスも返す言葉がなかった。
リディアが一歩引いてエリスを見た。何かを確かめるように、一拍置いた。
「お似合いです」
感情の込もった言葉ではなかった。でもお世辞でもない。リディアは思ってもいないことを言う人間ではないことは、エリスもこれまでの時間で十分わかっていた。
廊下に出たとき、カルがいた。廊下を歩いていたはずの男が、二人を見た瞬間に足を止めた。リディアとエリスを交互に見て、少し目を細めた。そうして軽く、「いいですね」とだけ言った。
「参りましょう」
リディアはカルを遮るように歩き出す。カルが肩をすくめた。
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夜になった。
広間は明るかった。燭台の光が天井まで届いている。香水と食事と酒の香りが混ざり合い、人の熱気が加わっている。入った瞬間に嗅覚が黙った。多くの人間の香りが重なりすぎて、読めない空間だ。
アルドはすでに広間の中ほどにいた。エリスが入ると、すぐに視線が来た。少し間があって、「こちらへ」と短く言った。
壁際を目指していたエリスの足が止まった。アルドの側まで歩いた。
「此度同行している調香師だ。腕が立つ」
傍らにいた人物に向けて、アルドが言った。エリスは頭を下げた。
そこから先は、矢継ぎ早だった。
「ギルド長のハーバンだ」「よろしく」。「東の商会のセドリック殿だ」「ご無沙汰しております」。「クラヴェス伯だ」「どうぞよろしく」。アルドのもとには次々と人が訪れる。エリスは頭を下げ続けた。名前と顔と、短い挨拶の言葉が続いた。
その流れの中で——一人だけ、何かが引っかかったような感覚があった。誰の香りだったか、その場ではすぐわからなくなった。香りが混ざりすぎていて特定できない。ただ何かがあった。その感覚だけが残った。
紹介が一段落した頃、アルドが年配の要人と話し込み始めた。カルもその場にいる。エリスは自然に壁際へ下がった。柱の陰に落ち着いた。ここが定位置だ、と思った。
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宴が進むにつれて、人の動きが活発になってきた。酒が入り、声が大きくなり、笑い声が増えた。話題が飛び交い、グラスがぶつかる音が広間のあちこちで鳴る。
アルドは広間の奥の方で、別の要人と話し込んでいた。カルもその場にいる。エリスは柱の陰に一人だった。
人が傍らを通った。
ぶつかったと気づいたのと、冷たさが肩から背中に広がったのが同時だった。
「——失礼!」
酔った中年の男が、杯を手に持ったままエリスを見ていた。エリスの肩から背中にかけて、酒が広がっている。リディアに借りたドレスだ。
「大丈夫か」
「はい」
男はエリスの「はい」を聞いた瞬間、それで充分だと思ったらしく、すぐに人の流れに戻っていった。
エリスは柱の陰に戻った。背中が濡れて冷たい。一度広間を出たいと思ったが、勝手に動いていい場面かどうかわからなかった。アルドはまだ話し込んでいる。カルも今は見当たらない。
広間の出口を見た。廊下に出れば、少し乾かせる。でも誰かに断りを入れずに動いていい立場かどうか、場慣れしていないエリスには判断できなかった。
逡巡した。
シダーウッドの香りが届いた。
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アルドだった。
広間の奥から、まっすぐこちらへ歩いてきていた。
「何があった」
声は低く、周囲には届かない音量だった。広間に向けていた顔つきとは違う。エリスだけに向けた、素の声だ。
「お酒がかかってしまって」
アルドがエリスの背中を一瞥した。それだけで状況を把握した、という顔をした。
「来い」
廊下に出た。宴席の喧騒が扉一枚で遠くなる。アルドは外套を脱ぎ、エリスの肩にかけた。重みがあるシダーウッドの香りが、より濃く届いた。
少し歩き、二人は人のいないテラスで足を止めた。
アルドは白いハンカチを取り出し、エリスに差し出す。
「ありがとうございます」
背中を押さえる。酒の甘い香りが鼻に来た。
「借り物か」
「はい。リディアさんに」
アルドが少し黙った。「後で言っておく」とだけ言った。
テラスは静かだった。燭台の灯りが低く揺れている。宴席の賑わいが扉の向こうで続いているのに、ここだけがまるで別の時間の中にあるようだった。
「慣れない場所でした」
気がついたら、そう言っていた。
「そうだろう」とアルドが言った。一拍の間があった。
「——俺も、好きではない」
広間での慣れた立ち居振る舞いが浮かんできた。
「意外です」
「そうか」
「流暢に話されていたので」
「仕事だからな」
「私は、こういう場だとどう動けばいいかわからなくて——」
旅の中で何度もそういう場面があった。村の祭りに巻き込まれたとき、依頼人に招待された宴席。
「壁際を探すか」とアルドが言った。
言い当てられて、エリスは思わず顔を上げた。
「はい。だいたい柱の陰を」
「——俺も、壁際が良いと思っている」
アルドが壁際にいる場面を、今夜一度も見ていなかった。エリスは思わず、柱の陰で仕事の顔をしているアルドを想像した。その像があまりに実際の様子と噛み合わなくて、少しだけ口元が動いた。
「今夜は壁際にいらっしゃいませんでした」
「いられなかった」とアルドは言った。
沈黙が一つ落ちた。嫌な沈黙ではなかった。宴席の音が扉の向こうで続いている。テラスだけが静かだった。
「少しは乾いたか」
「はい。これなら戻れそうです」
アルドが先に歩き出した。
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広間に戻ったとき、新しい人物が入ってきたところだった。
二十代前半の女性。薄い金色の髪を上品にまとめ、深い青の衣装をつけている。笑顔が自然で、緊張していない。この種の場に、生まれたときから慣れている人間の立ち方だった。歩幅が広くなく、視線が泳がない。
香りが届いた。ローズとムスクの重なり。上品で、押しつけがましくない。自分のための香りだ。選び方を知っている人間の香りだった。
その女性が、まっすぐアルドの方へ向かった。
「殿下。お久しぶりでございます」
「セリーヌ殿。まさかヴェルノで会えるとは」
「殿下はいつ見ても、お変わりなくお美しいですね」
「社交辞令と受け取っておきましょう」
アルドの笑顔が、わずかに変わった。完璧な社交の仮面のままだ——でも、今夜ここで会った他の人間に向けたものとは、質が少し違う。久しぶりの人間に向ける、ほんのわずかだけ自然な表情だった。
二人が話し始めた。
エリスは壁際の柱の陰から見ていた。廊下から戻って、元の場所に戻った。
セリーヌの声が澄んでいた。アルドの笑顔に対して、同じ質の笑顔で返している。言葉の選び方、距離の取り方、笑顔のタイミング——全部が噛み合っていた。
あの人の隣に、ふさわしい。
そう思った。
セリーヌがアルドの隣に自然に収まっていった。場が、その形に馴染んだ。
エリスはいつの間にか、さらに柱の奥へ下がっていた。意識してではない。自然に、元の場所より少し奥へ。
手の中に、まだアルドのハンカチがあった。返し忘れていた。
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人が引き始めた頃、カルが横に来た。
「楽しまれましたか」
エリスは少し間を置いた。答えが、すぐに出なかった。
「私がいて、邪魔ではなかったかと思って」
「そんなことはないですよ」とカルが言った。
「ご立派に任務を果たされました」
「任務」
「殿下のお隣で、輝いておいででしたよ」
それだけ言って、先へ歩いていった。
最後の一言の意味を、エリスはしばらく考えた。考えても、答えが出なかった。
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「ありがとうございました。とても助かりました」
リディアにドレスを返した。酒の染みのことを謝ると、「後で処置します」と淡々と言った。アルドからまだ聞いていないのか、あるいは聞いた上でそういう顔をしているのか、エリスには判断がつかなかった。
部屋に戻って、手の中のハンカチを机の端に置いた。
明日、返せるだろうか。
灯りを落とした。
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