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第8話 楔

 ヴェルノの朝は早い。


 荷馬車の車輪の音が路地に響き始めるのは、まだ空が白む前だ。石畳を転がる車輪の音と、御者が馬を宥める声と、どこかの店の鉄格子が上がる音。商業都市の朝は、複数の音が同時に動き始める。


 エリスは明け方に目が覚めた。


 ノートが机の上にある。昨夜書いた一行が目に入った。「明日:再度市場。オークモス再確認。」——書いたことを覚えていた。筆圧が少し強い。急いで書いた証拠だ。


 道具袋を確かめる。トンカビーンの小瓶。表層はこれで決まっていた。問題は奥だ。昨夜四軒回って、決め手が見つからなかった。乾いて、閉じて——表の温かさとまったく繋がらない、別の意図を仕舞い込んだ人間の香りだ。その香りに合う素材が、昨夜の四軒にはなかった。


 身なりを整える。道具袋を肩に掛け部屋を出た。


---


 市場は宿から歩いてすぐだ。


 昨夜も来た路地を、朝の光の中で歩く。夜は灯りの丸みが目立ったが、朝は石畳の細かい凹凸がはっきり見える。香料屋の軒先に並んだ籠の中身も、夜より色がわかりやすかった。


 昨夜入った三軒を素通りした。全部確かめた後だ。今日別の角度から探すなら、昨夜入れなかった奥の区画だ。


 路地が少し狭くなった。軒が低くなる。人通りが減る。商業都市の市場でも、奥に入るほど観光客向けの品揃えは薄くなり、専門的な素材を扱う店が増える。


 一軒目の扉をくぐった。棚が天井まで詰まっている。小瓶、乾燥した草の束、樹脂の欠片を並べた皿。奥が暗い。エリスは棚を端から順に確かめた。


 アンバーグリスがあった。手に取って栓を外した。深く温かい。長い年月の蓄積がある。次の層はこれだ。温かみの次に乗る、実績と信頼の重さ。迷わなかった。


 だがまだ足りない。問題の、奥の層。


 向かいの店に入った。こちらはさらに小さい。棚が二つしかなく、奥の席に白髪の老人が腰を下ろしていた。六十がらみ、白髪を後ろに束ねた男だ。


 棚を端から確かめた。一本取って嗅いだ。違う。また一本。違う。棚を一周して、エリスは立ち尽くした。


 「どうした。気に入るものがないか」


 老人が声をかけてきた。


 「……探しているものが、わからなくて」


 「わからない?」


 声を上げて笑う。


 「わからないものを見つけようってことか?変わったお嬢ちゃんだ。まあ、どうせ暇だから付き合ってやろう」


 老人は座っている番台から身を乗り出す。


 「どんな感じだ。軽い?重い?」


 「重い……と思います」


 「ミルラか。古さと重さがある」


 受け取って栓を外した。深い。だが重すぎる。「いえ、それはちょっと重すぎて……」


 「え、じゃあカストリウムかな」


 嗅いだ。方向は近い。だが違う。「近いんですが、なにか……違っていて」


 「なにか、ね」老人が首を傾けた。


 「明るい?暗い?」


 「暗い、です。でももっと静かな感じで」


 「静か。乾いてるか、湿ってるか」


 「乾いてます」


 「うーん。わかった!オポポナックスだな。きっとそうだ」


 嗅いだ。


 「ごめんなさい。これも、ちょっと違ってて」


 老人は口をあんぐり開けた。


 「……わからん」


 「すみません……」


 老人がしばらく黙った。それから立ち上がって、棚の一番奥へ手を伸ばした。


 「じゃあ、あれだ。わからんから俺が買ってほしいものを持ってくる」


 埃を被った小瓶を一本引っ張り出した。


 「シベットだ。飛び切り珍しいが、高いし使い方も難しくてな」


 受け取った。栓を外した。


 手が止まった。


 動物系の、暗く乾いた重さだ。トンカビーンともアンバーグリスとも、まったく繋がらない。温かく積み上げてきた二層の下に、これが潜んでいる。表の顔とは断絶した、別の意図の香りだ。


 「こ、これです」


 老人が少し目を丸くした。


 「え」


 「ありがとうございます。きっと、これです」


 「そうか……こちらこそ。じゃあ、これが会計だ」


 金額を聞いた。エリスは一瞬、動きが止まった。


 「……高」


 「珍しいんだから仕方ない」


 老人は笑った。


---


 宿に戻って、部屋に入った。道具袋を机に置いた。トンカビーン、アンバーグリス、シベット。三本を机の上に並べた。


 この香りは……。


 昨夜からずっと、奥の層の輪郭がつかめないと思っていた。四軒回っても見つからないのは、それが深く閉じているからだ、とだけ考えていた。でも今、三本が揃って並んでいる。トンカビーンとアンバーグリスの温かい積み重ねの下に、シベットの暗さが潜んでいる。


 この組み合わせの香りはまるで——。


 考えたくない答えだった。もしかしたら、どこかでこの答えに至るのを避けていたのかもしれない。


 窓の外で荷馬車が通る音がする。遠くで誰かが笑う声がした。エリスは小瓶を見たまま、動かなかった。


---


 悩んでいる時間もなく、エリスは調香にとりかかっていた。


 受け渡しの時刻を考えると、立ち止まる余裕はない。


 扉を叩く音がした。


 アルドだった。カルはいない。廊下に一人で立っていた。


 「進んでいるか」


 「はい。でも」


 言葉が止まった。


 トンカビーン。アンバーグリス。シベット。この三本が並べば、マルコという男の肖像になる。しかし、そこに繋がらないシベット。


 トップノートからミドルノートまでの一貫した温かみに対し、ラストノートで初めて顔を覗かせる重さと暗さ。表面とは相反する内面。


 これの意味するところは——


 裏切りの香りだった。


 これを渡せば、マルコは読む。香料商だから、必ず読む。自分の裏側が知られていると、わかる。これをそのまま出すべきか。


 もし、自分が間違っていたら。


 アルドが少し間を置いた。


 「君の感じたままを作ってほしい」


 まっすぐにエリスを見る。


 「責任は俺がとる」


 そう言って、扉が閉まった。


 そうだ。私の仕事は、正直に作ることだ。


 道具袋から折り畳み式の携帯オルガンを取り出した。机の上で広げた。棚に三本の小瓶を並べた。ムエットを三枚取り出した。


 トンカビーンを一枚に一滴。アンバーグリスをもう一枚に一滴。シベットを最後の一枚に一滴。三枚を重ねて持った。


 嗅いだ。


 これでいい。


---


 翌日の会談は昼過ぎだった。


 エリスはカルと共に応接間に入った。マルコはすでに着いていた。扉が開いたとき、温かく丸い香りが廊下まで漏れてきた。昨日と同じだ。変わらない表層。


 席についた。エリスは壁際の椅子に座った。昨日と同じ位置だ。アルドは正面の高椅子に、カルがその脇に立っている。小瓶は道具袋の中にある。


 話が始まった。昨日の顔合わせより、今日は具体的な内容に踏み込んでいる。護衛の増派、関所の整備費用、砦の建設位置——マルコが一つずつ丁寧に案件を並べた。アルドが静かに聞き、ときに短く確認を挟んだ。場の空気は昨日と変わらなかった。マルコはよく笑い、言葉の選び方が巧みで、聞き手を心地よくさせた。アルドの仮面は完璧だった。摩擦がない。二人の間を言葉が滑らかに往き来した。


 エリスは壁際でその往き来を見ていた。


 そろそろ終わる、という気配になった。マルコが書類を丁寧に重ねて静かに手を膝の上に置いたとき、アルドが立ち上がった。


 「これを」


 アルドが道具袋から小瓶を取り出して、マルコに向けて差し出した。


 「此度の会談の印に。貴殿をイメージしたものです」


 マルコが受け取った。温かく誠実そうな笑顔のままだった。目の周りに細かい皺が寄る。栓を緩めた。


 手が止まった。


 笑顔は崩れなかった。だがエリスには見えた。マルコの奥の層が、一点に収束した。


 「この香りは——」


 その声だけが、今までと違った。滑らかな言葉遣いが、一瞬だけ止まった。


 沈黙がひとつ落ちた。マルコがアルドを見た。確かめた、という目だった。


 アルドが先に口を開いた。


 「隣国勢力の暗躍が激しくなっていると聞きます。今後とも続く、友好を」


 アルドが右手を差し出した。マルコが静かに握り返した。笑顔の形を保ちながら、マルコの顔に苦さが混じっていた。何かを飲み込んだ、という種類の苦さだ。


 握手が終わった。場が区切られた。


---


 退席後の廊下。アルドが先を歩いている。


 最後の握手。あれはただの友好の握手ではなかった。相手の策謀を封じ込めるための一手。アルドからのくさびだった。


 アルドから裏切りを暗に告発されたマルコは、これから当然その動きをとることはできなくなるだろう。


 廊下の窓の外、ヴェルノの夕空が橙色に染まっている。


 廊下の先でアルドが立ち止まった。振り返って、エリスを見た。


 「よくやった。礼を言う」


 それだけだった。アルドが歩き出し、カルが後に続いた。


 エリスは少しの間、廊下に立っていた。夕空の橙色が窓枠の中に収まっている。


---


 部屋に戻って、携帯オルガンを畳んだ。


 ノートを開いた。「依頼人:マルコ(ヴェルノ)」の項目の続きを書いた。使用香料を三つ書き留めた。最後の一本の名前を、少し迷ってから書いた。「断絶のある香り」——それだけ書いて、ペンを置いた。


 窓の外、ヴェルノの夜が始まっている。荷馬車の音はまだある。遠くで誰かが声を上げる音がする。この街はいつまでも動いている。


 エリスはノートを閉じた。灯りを落とした。


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