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第7話 肖像

翌朝、廊下に出るとカルが待っていた。


 壁に背を預けて腕を組んでいる。エリスが部屋の扉を開けた音で、こちらへ顔を向けた。


 「おはようございます。書類をお渡しします」


 折り畳んだ紙束を差し出した。エリスは受け取った。


 マルコ。商会会頭。四十代。香辛料と香料を扱う大商人——昨夜ノートに書いた名前の持ち主のことが、数枚に渡って細かく書かれていた。交易路の盗賊被害が増えている。商人ギルド側が護衛の増派と関所の整備を、長く求めてきた案件だ。


 「今日の昼下がりに殿下が顔合わせをします。同席するようにとのことです」


 「わかりました」


 カルが少し間を置いた。廊下の静かさが際立つ。


 「——マルコは、この街で長く力を持っている人間です。多くのカネと人が動くこの街で」


 それだけ言った。


 カルが踵を返す前に、廊下の突き当たりから朝の光が差し込んでいた。


---


 昼下がり、宿の応接間に通された。


 部屋の奥にアルドがいた。高椅子に座り、書類を一枚手に持っている。カルが脇に立っていた。エリスは少し離れた壁際の椅子に案内された。


 待った。


 扉が開いた。


 最初に届いたのは香りだった。


 温かく、甘く、丸い。人を安心させる温かみだ。ゆっくりと広がってきて、部屋の空気を穏やかに満たす。商人として長年場数を踏んできた人間の、よく馴染んだ香りだ。


 そうエリスが感じた瞬間、男が入ってきた。


 四十代、中背だが肩と背中にがっしりとした厚みがある。服は実用的で上質だ。縫い目が丁寧で、生地に皺一本ない。部屋に入った瞬間に場の空気が締まった——そういう質の人物だった。


 アルドと視線が合った瞬間、マルコが笑った。温かく、誠実そうな笑顔だった。目の周りに細かい皺が寄る。 表層の温かみはわかった。しかし


 その奥に——何かある。


 エリスは無意識に息を少し深くした。奥を探った。


 乾いた感触だ。閉じている。冷たさがある。だが、暗くはない。深く仕舞い込まれた何か——だが何と呼べばいいのか。


 つかめない。


 今まで依頼人の香りで、ここまで読めなかったことはなかった。表層の温かさが邪魔をしているのか。それとも奥のものが、読まれまいと深く沈んでいるのか——判断がつかないまま、マルコの視線がエリスに来た。


 「調香師、ですか」


 アルドに向かって言った。確認する声だった。アルドが「同行させている」と答えた。マルコが頷いた。それ以上聞かなかった。


 会談が始まった。


 マルコはよく笑い、言葉の選び方が巧みで、聞き手を心地よくさせる話し方をした。交易路の現状を丁寧に語り、ギルド側の損害を具体的な数字で示した。護衛の増派を求める根拠は明確で、説得力があった。話の筋道が整然としていて、余計な言葉を挟まない。


 アルドは静かに聞いていた。頷くタイミング、質問の間合い、相槌の深さ——完璧な応接だった。


 エリスは壁際の椅子に座って、その応接を見ていた。自分が発言する場面はない。ただそこにいる、という席だった。


 二人の間の空気は終始穏やかだった。マルコの表層の温かさと、アルドの完璧な仮面が、互いに滑らかに噛み合っていた。摩擦がない。


 その滑らかさの中で、エリスはもう一度マルコの奥を探ろうとした。


 ——やはり、つかめない。


 話が終盤に差しかかったとき、マルコが地図を取り出した。交易路の問題箇所が赤い線で記されていた。


 「この区間が最も被害を受けやすい。ここに監視を置く砦を建てようと思っております。人手は私兵を出しますので、殿下に置かれましては援助をいただきたく」


 指先が地図の一か所に当たる。


 アルドが静かに言った。


 「お申し出は熟慮いたします。正規軍の配備を含め」


 穏やかな一言だった。でも、それだけで話の流れが一歩止まった。


 マルコが笑った。少しだけ、目の端が細くなった。


 「熟慮いただければ」


 「では次の会談で」とアルドが言った。それで空気が区切られた。


 エリスは壁際の椅子から、そのやりとりを聞いていた。どちらも穏やかだった。声音に刺はない。ただ、マルコの表層の温かさが、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。確認のしようがなかった。


 会談が終わった。マルコが立ち上がり、丁寧な礼をして部屋を出た。従者が後に続いた。扉が閉まった。


---


 カルが廊下へ出た。エリスも続こうとした。


 「——待て」


 アルドが言った。カルが扉の外に出て、扉が閉まった。


 応接間に二人だけになった。アルドがエリスに向いた。


 「贈り物の調香について、指示を変える」


 「はい」


 「マルコのために香りを作るな」


 エリスは一拍置いた。


 「——どういうことでしょうか」


 「言葉の通りだ」


 「では、商会のため、あるいはこの往訪を祝うような——」


 「いや」


 アルドが少し間を置いた。


 「マルコという男を、香りで表現してくれ」


 エリスは言葉を探した。


 「——マルコ様を、香りで」


 「そうだ」


 それ以上の説明はなかった。アルドの顔には何もなかった。会談の間と同じ、完璧な仮面のままだった。


 でも——シダーウッドの香りが、ほんの一瞬だけ重くなった気がした。


 気のせいかもしれない。空気の動きが変わっただけかもしれない。


 エリスは「わかりました」と言って部屋を出た。


 廊下の石畳の感触が足の裏に来た。エリスは一歩一歩、宿の廊下を歩いた。


 マルコを香りで表現する。


 あの奥の感触が、まだわからない。アルドの指示の意味も、わからない。なぜマルコの「ために」作る香りではなく、マルコ「という男」を表現する香りなのか。用途が違う。贈り物なら受け取る相手を喜ばせる香りでいい。だがマルコを「表現」するならば——それはマルコの内側を写す香りだ。


 何のために。


 答えが出なかった。今夜、市場に出る必要があった。


---


 ヴェルノは商業都市だ。


 夜でも市場の一角は灯りがついている。通りに沿って香料屋が何軒か店を開けていて、籠の中の乾燥した草や樹脂の欠片が、ランプの光に照らされている。エリスは道具袋を持ち直して、一軒目の軒先をくぐった。


 棚を見渡した。


 トンカビーンが目に入った。手に取って栓を外すと、温かく甘い丸みが来た。人を包み込む柔らかさがある。


 ——これだ。表層はこれだ。


 迷わなかった。マルコが部屋に入った瞬間の、あの広がり方——トンカビーンがそれに近い。確信があった。


 買った。


 次の香料屋に入った。棚を端から確かめた。奥の層に使えるものを探した。


 ミルラを手に取った。栓を外した。樹脂の冷たさ。古さ。悪くない。でも何かが違う気がした。マルコの奥はもっと——平たい。垂直に深いのではなく、水平に広がっている感じだ。ミルラは縦の深さがある。違う。


 戻した。


 別の棚でオークモスを見つけた。嗅いだ。古い森の苔のような重さ。年月の蓄積がある。これも候補になるかもしれない。だが何かひとつ足りない。決め手にはならない。


 買わずに店を出た。


 三軒目に向かいながら、顔合わせの場でマルコの香りに触れた瞬間を思い出した。あの乾いた閉じた感触。


 ——やはり輪郭がつかめない。


 三軒目の香料屋は小さな店だった。棚の隅々まで確かめた。


 「何をお探しで」


 店主が声をかけた。六十がらみ、白髪をきっちりと後ろに束ねた女だった。


 「閉じた感触のもの。冷たさがあって、でも暗くはない。長い年月が——」


 うまく言えなかった。香りを言葉で説明するのは難しい。感覚をそのまま乗せようとするほど、言葉が歪む。


 「ベンゾインはいかがですか」と店主が言った。「樹脂ですが、ミルラより甘みがある。古さと温かさが混じったような香りです」


 手に取った。嗅いだ。


 甘い樹脂の重さ。温かさと古さが混じっている——確かにそうだ。だがマルコの奥にあったものは、もっと乾いていた。湿っていない。ベンゾインは少し湿り気がある。


 「ありがとうございます」


 買わずに店を出た。


 四軒目はもう閉まっていた。扉の隙間から灯りが漏れていない。


 諦めて宿に戻ることにした。


---


 食堂は夜の半ばを過ぎていたが、まだ数人の客が残っていた。


 エリスは端の卓に座って、夕食を頼んだ。パンとスープだ。安い宿の食堂の、何の飾りもない食事だ。香りが単純で、鼻に優しい。それでいい。


 温かいスープを一口飲んだとき、隣の卓の話し声が届いた。


 南の方から来たらしい行商人が二人、連れ立って食事をしている。荷物の話をしていたが、やがて声が少し低くなった。


 「——三年前の内乱の話、あの後どうなったか知ってるか」


 「王家の血族が身内を処刑したやつだろう」


 「宮廷の話だから詳しくはわからんが、どうやら今でも尾を引いているらしいぞ」


 「血塗られた王子、か」


 エリスは自分の食事に目を落としたまま、その会話を聞いた。


 三年前の内乱。王家の血族が身内を処刑した。——知らない話ではなかった。旅をしていれば、どこかの街でそういう話が流れてくる。ここからだいぶ離れた街でも、似たような話を耳にしたことがある。


 でも自分には遠い話だった。宮廷の話は宮廷で動く。旅する人間には関わりのない場所の話だ。そう思って、今まではそのつど聞き流してきた。


 スープをもう一口飲んだ。


 でも今日は、聞き流せなかった。


 三年前の内乱。あの人も、その中にいたのだろうか。


 考えが広がりかけた。止めた。自分には関係のない場所の話だ。


 食事を終えて立ち上がった。「血塗られた王子」という言葉が、頭の端に薄く残った。


 部屋に戻って、携帯オルガンを広げた。


 今日買ったトンカビーンを棚に置いた。表層はこれで決まっている。間違いない。


 師匠のノートを開いた。「依頼人:マルコ(ヴェルノ)」の項目の下に書いた。


 表層:トンカビーン(温かく丸い、人を安心させる)。奥:?——乾いた、閉じた、冷たさ。輪郭がつかめない。暗くはない。


 ペンを置いた。


 今夜四軒回って、奥の香料が見つからなかった。


 ミルラは垂直すぎた。縦の深さがある。マルコの奥は水平だ。ベンゾインは湿っていた。マルコの奥は乾いている。オークモスは——近いかもしれない。だが決め手がなかった。何かがもう一声、足りない。


 明日もう一度、別の角度から探す必要がある。


 あるいは——もう一度マルコに会えれば、もう少しはっきり読めるかもしれない。本格会談は明後日だ。今日の顔合わせは短かった。次は時間がある。


 ノートに書いた。明日:再度市場。オークモス再確認。


 ペンのインクが乾く前に、窓の外からヴェルノの夜の音が聞こえた。荷馬車の車輪の音。遠くで誰かが笑う声。商業都市の夜は、宿の二階にいても動いている。


 「血塗られた王子」という言葉が、またかすかに浮かんだ。すぐ沈んだ。


 トンカビーンの小瓶を手に取った。栓を少し緩めると、温かい甘みが来た。マルコの表層だ。これは間違いない。


 問題は奥だ。


 コルクを押し込んで、棚に戻した。灯りを落とした。


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