第6話 街道にて
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アルジュを出たのは、朝の七つを過ぎた頃だった。
エリスの馬車は先頭から少し離れている。荷物は馬車の床に固定して、道具袋は膝の上だ。揺れがひどい道でも、これなら転がらない。
窓の外、北の岩山が後ろへ遠ざかっていく。昨日まで、あの岩山の向こう側を考えていた。今日からは、また別のことを考えるのだろう。
道具袋の口紐を引いて、小瓶の並びを指でなぞった。栓の緩みはないか、割れはないか。全部ある。問題ない。
次の依頼人の名前を頭の中で繰り返した。マルコ。商会の会頭。四十代。昨日アルドの部屋でカルが広げた書類に、そう書いてあった。
どんな人間かは、会ってみるまでわからない。
馬車が揺れた。石畳の感触が消えた。街道の土道に出た合図だった。
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正午に差しかかる頃、馬車が止まった。
街道の脇だ。窓から顔を出すと、先頭の馬車の周囲で護衛たちが馬を降りて話し合っている。声は距離があって聞き取れなかった。
しばらくして、カルが後方へ歩いてきた。いつもの足取りで、いつもの笑顔だった。でも歩幅が少し速い。
「前方に野盗の動きがあるらしい。農村から街道番に知らせが来たそうだ」
「野盗。大丈夫なんでしょうか」
「それを確認しに行くために、これからセバンが早馬で出ます」
カルが少し周囲に目をやった。
「俺はここに残ります。何かあったときのために」
笑顔のままだった。でも声の低い部分が、いつもと一段違った。
護衛の一人が馬を引き出した。あれがセバンという男だ。三十がらみ、体格がよく、馬の扱いに無駄がない。
低く馬のいななく声が聞こえた後、蹄の音が遠くなって、やがて消えた。
馬車隊が立ち往生した場所は、街道脇の農村の入り口だった。広い小麦畑が広がっていて、干し草と土の混じった空気が届いた。馬車から降りたエリスは、背伸びをした。
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しばらくして、カルが来た。
「退屈でしょう」
「慣れています」
「旅の調香師はそういうものですか」
カルが言って、エリスの横に並ぶ。
「一人で馬車に乗って、何を考えてるんですか。ずっと」
「次の仕事のことを」
「ずっと仕事ですか」と笑う。
「——そういえば」
と言い、畑の向こうの山を見た。
「この辺の北の山って、珍しい香料が採れるって聞いたことがありますか」
「どの辺りですか」
「北の稜線のちょっと上、岩場のあたり。この時期だけ採れる樹脂があって、焚くと煙が白くて重い、って昔聞いた覚えがあって」
「白くて重い樹脂。」
エリスは少し考えた。
「ラブダナムか、エレミかもしれない」
「そういう名前だったかな」
「エレミなら、下地に使える。他の香りを長持ちさせてくれる。この季節のものなら少し青みが出るはずで——」
言いかけて、エリスは少し口を閉じた。
「続きを聞かせてください」
カルが笑った。
「急に黙る」
「話してもしょうがないことなので」
「調香師殿は、香料の話になると表情が変わりますね。さっきとだいぶ違う」
エリスは少し黙った。
「その感じ、いいと思いますよ」
微笑んでカルが続けた。
「俺も任務が立て込んで気晴らしがないときは、誰かとおしゃべりでもしたいんですけど、殿下は無口だし」
アルドにおしゃべりを持ちかけるカルを想像して、エリスは思わずくすっとした。
「せっかくなので、調香師殿に話し相手になってもらうっていうのも——」
「カル」
声が来た。
アルドが背後に立っていた。いつからそこにいたか、エリスは気づかなかった。カルに目を向けている。
「馬の確認をしろ」
「承りました」
カルが言って、笑顔を戻した。エリスに「また」と軽く会釈して、先頭の馬車の方へ歩いていった。
アルドはそのまま、エリスに何も言わずに先へ行った。その間、ほんの一瞬だけ、シダーウッドの香りに別の何かが混じった。
風の向きが変わった拍子に届いた香りで、そのまま消えた。
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エリスがなんとなく山の向こうを見ていると、向こうから女の子が近づいてきた。
五つか六つか。裾が泥で汚れていて、藁の切れ端が袖についている。馬車と護衛の一行をずっと物珍しそうに眺めていたのだろうが、やがてエリスの腰のあたりの道具袋で視線が止まった。
「それ、なに」
「香りを作る道具だよ」
「かおり?」
「そう。いろんな香りを混ぜて、新しい香りを作る」
女の子がエリスに近づいてきた。警戒する様子がない。まっすぐな好奇心だった。
「見せて」
エリスは携帯用の調香ケースを近くの切り株の上に広げた。師匠から受け継いだ革張りのケースを開くと、小さな棚に香油の小瓶が並ぶ。琥珀色、青色、透明。
「色が違う」
目が丸くなった。
「きれい」
「一本だけ、触ってみる?」
女の子が小さな手を伸ばした。エリスが選んで差し出した小瓶を、両手でそっと受け取る。コルクの上から指でなぞって、「つめたい」と言った。
しばらくそうしていてから、顔を上げた。
「わたしも、香り、ほしい」
「どんな香りが好き?」
「わかんない。でも——誰かにあげたい」
エリスはかがんで、女の子と目の高さを合わせた。その距離で香りが来た。干し草と土と、牛乳のような温かさ——農村の子どもの、素直な香りだ。その下に、何か心配の質がある。誰かのことを案じている。
「誰かにあげたいんだね。——お父さん? お母さん?」
女の子が首を少し傾けた。
「お姉ちゃん?」
顔がぱっと明るくなった。香りも揺れる。
「うん、そう!なんでわかるの」
「なんとなく」
エリスは答えた。
「お姉ちゃん、最近元気がない?」
「うん。学校で友達とケンカして、ずっと部屋にいる」
と言って、声が少し小さくなった。
「そっか」
エリスはムエットを一枚取り出した。スイートオレンジを一滴だけ落として、「嗅いでみて」と差し出した。
女の子が顔を近づけた。一拍おいて、「あまい」と言った。
「気持ちが落ちているとき、外から少し背中を押してくれる香りだよ。——あとふたつ、重ねる」
カモミールを一滴、プチグレンを一滴。ムエットを束ねて、小さな手に渡した。
「三枚まとめて、お姉ちゃんの枕元に置いてあげて。寝る前に嗅ぐと、少し楽になる」
女の子は束を両手で受け取った。真剣な顔で、何度か頷いた。
「ありがとう」と言って、向こうへ走っていった。
エリスが調香ケースを畳んでいると、ふと視線を感じた。顔を上げると、離れたところにアルドがいた。近くの護衛と何か話しているようだった。目が合ったと思った瞬間、アルドは先に視線を切って馬の方へ歩いていった。
エリスはケースを道具袋に戻した。
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馬の蹄の音が来た。セバンが戻ってきたのだ。
馬を降りて、真っすぐアルドのところへ歩いていく。カルが地図を手に並んだ。エリスは少し離れた場所で、道具袋の口紐を締めながら耳を向けた。
「前方、確認しました。野営の跡が街道脇に複数あります。少なくとも十人以上と見られます」
アルドが短く問い返した。
「今も街道上にいるか」
「確認はできませんでした。ですが——」
セバンが続けた。
「念のため、迂回をお勧めします。東の農道を使えば、ヴェルノまで迂回できます。半日ほど余分にかかりますが、安全を取るなら」
「迂回路の状態は」
「問題ありません」
カルが地図を広げた。セバンが迂回路を指で示した。報告の言葉は滑らかで、護衛としての所作も正確だ。おかしいところはない。
と、風が変わった瞬間に、セバンの香りが来た。
革と埃と、街道の土埃——その表層の下に、別の層がある。甘く焦げたような、重い香りだ。緊張を押し込めているときに滲み出てくる。旅の途中で何度も嗅いできた。依頼人が値段を誤魔化そうとしているとき。商館の番頭が取引の条件を隠しているとき。「よく眠れています」と答えながら目の下が落ちくぼんでいるとき。
セバンは嘘をついている。
でも何も言えなかった。「嘘の香りがします」とは言えない。言えば次の問いが来る——なぜわかるのか。説明できない。説明しようとすれば、自分が何を持っているかを明かすことになる。
アルドは、まだ地図を見ていた。
カルが「そうなると迂回か」と言いかける。
そのとき、アルドが顔を上げた。地図の方ではなく、エリスの方を見た。
一拍、間があった。
「調香師」
全員の視線がエリスに来た。カルが少し眉を上げる。セバンが静止した。
「この道をどう思う」
エリスは道具袋から手を離した。
「——私は、迂回しない方がいいと思います」
静かになった。
「理由は」
「迂回路の方が、危険だと感じます。それだけです」
「感じる」という言葉だけが、嘘にならない言葉だった。根拠を聞かれたら答えられない。でも「感じる」は本当のことだ。
カルが少しの間を置いて、地図を折り畳んだ。
「俺も調香師殿の意見に乗ります。この季節は街道沿いの林が葉枯れしていて、十人が潜めるような場所はほとんどない。逃げ足の速い野盗どもが選ぶ場所には思えない」
「——街道を進む」
アルドが言った。
セバンが一歩前に出た。
「しかし!」
「セバン」
アルドの声は短く、低かった。それだけでセバンが口を閉じた。
馬車の御者たちが動き出した。一行が動き始める。
セバンが馬に乗りながら、一度だけエリスに視線を向けた。
エリスは道具袋を持ち直して、自分の馬車に向かった。
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街道に、野盗はいなかった。
野営の跡も、人影も、何もなかった。
カルが「拍子抜けでしたね」と言った。アルドは何も言わなかった。
夕方にはヴェルノの宿に着いた。
エリスは部屋に荷物を置いて、師匠のノートを開いた。
「依頼人:マルコ(ヴェルノ)。商会会頭。四十代」と書いた。
ペンが止まった。
もし迂回していたら、と思った。農道を通っていたら。セバンの香りのことを考えると、その先を想像してしまう。待ち伏せがあったのか。なかったのか。どちらも確かめようがない。感じただけだ。
書くべきことが出てこないまま、ノートを閉じた。
灯りを落とす前に、ベルガモットの小瓶を取り出した。昨日アルドの手首に一滴落とした小瓶だ。コルクを少し緩めると、柑橘の明るい香りが来た。今日の道のりで道具袋が揺れても、栓はしっかり閉まっていた。
コルクを押し込んで、道具袋に戻した。
窓の外、新しい街の夜の灯りが広がっている。ここがヴェルノ。次の目的地だ。
マルコがどんな人間かは、明日会えばわかる。




