表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/11

第6話 街道にて

もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、


ページ下部の☆を押して評価をお願い致します。


励みになります。

 アルジュを出たのは、朝の七つを過ぎた頃だった。


 エリスの馬車は先頭から少し離れている。荷物は馬車の床に固定して、道具袋は膝の上だ。揺れがひどい道でも、これなら転がらない。


 窓の外、北の岩山が後ろへ遠ざかっていく。昨日まで、あの岩山の向こう側を考えていた。今日からは、また別のことを考えるのだろう。


 道具袋の口紐を引いて、小瓶の並びを指でなぞった。栓の緩みはないか、割れはないか。全部ある。問題ない。


 次の依頼人の名前を頭の中で繰り返した。マルコ。商会の会頭。四十代。昨日アルドの部屋でカルが広げた書類に、そう書いてあった。


 どんな人間かは、会ってみるまでわからない。


 馬車が揺れた。石畳の感触が消えた。街道の土道に出た合図だった。


---


 正午に差しかかる頃、馬車が止まった。


 街道の脇だ。窓から顔を出すと、先頭の馬車の周囲で護衛たちが馬を降りて話し合っている。声は距離があって聞き取れなかった。


 しばらくして、カルが後方へ歩いてきた。いつもの足取りで、いつもの笑顔だった。でも歩幅が少し速い。


 「前方に野盗の動きがあるらしい。農村から街道番に知らせが来たそうだ」


 「野盗。大丈夫なんでしょうか」


 「それを確認しに行くために、これからセバンが早馬で出ます」


 カルが少し周囲に目をやった。


 「俺はここに残ります。何かあったときのために」


 笑顔のままだった。でも声の低い部分が、いつもと一段違った。


 護衛の一人が馬を引き出した。あれがセバンという男だ。三十がらみ、体格がよく、馬の扱いに無駄がない。


 低く馬のいななく声が聞こえた後、蹄の音が遠くなって、やがて消えた。


 馬車隊が立ち往生した場所は、街道脇の農村の入り口だった。広い小麦畑が広がっていて、干し草と土の混じった空気が届いた。馬車から降りたエリスは、背伸びをした。


---


 しばらくして、カルが来た。


 「退屈でしょう」


 「慣れています」


 「旅の調香師はそういうものですか」


 カルが言って、エリスの横に並ぶ。


 「一人で馬車に乗って、何を考えてるんですか。ずっと」


 「次の仕事のことを」


 「ずっと仕事ですか」と笑う。


 「——そういえば」


 と言い、畑の向こうの山を見た。


 「この辺の北の山って、珍しい香料が採れるって聞いたことがありますか」


 「どの辺りですか」


 「北の稜線のちょっと上、岩場のあたり。この時期だけ採れる樹脂があって、焚くと煙が白くて重い、って昔聞いた覚えがあって」


 「白くて重い樹脂。」


 エリスは少し考えた。


 「ラブダナムか、エレミかもしれない」


 「そういう名前だったかな」


 「エレミなら、下地に使える。他の香りを長持ちさせてくれる。この季節のものなら少し青みが出るはずで——」


 言いかけて、エリスは少し口を閉じた。


 「続きを聞かせてください」


 カルが笑った。


 「急に黙る」


 「話してもしょうがないことなので」


 「調香師殿は、香料の話になると表情が変わりますね。さっきとだいぶ違う」


 エリスは少し黙った。


 「その感じ、いいと思いますよ」


 微笑んでカルが続けた。


 「俺も任務が立て込んで気晴らしがないときは、誰かとおしゃべりでもしたいんですけど、殿下は無口だし」


 アルドにおしゃべりを持ちかけるカルを想像して、エリスは思わずくすっとした。


 「せっかくなので、調香師殿に話し相手になってもらうっていうのも——」


 「カル」


 声が来た。


 アルドが背後に立っていた。いつからそこにいたか、エリスは気づかなかった。カルに目を向けている。


 「馬の確認をしろ」


 「承りました」


 カルが言って、笑顔を戻した。エリスに「また」と軽く会釈して、先頭の馬車の方へ歩いていった。


 アルドはそのまま、エリスに何も言わずに先へ行った。その間、ほんの一瞬だけ、シダーウッドの香りに別の何かが混じった。


 風の向きが変わった拍子に届いた香りで、そのまま消えた。


---


 エリスがなんとなく山の向こうを見ていると、向こうから女の子が近づいてきた。


 五つか六つか。裾が泥で汚れていて、藁の切れ端が袖についている。馬車と護衛の一行をずっと物珍しそうに眺めていたのだろうが、やがてエリスの腰のあたりの道具袋で視線が止まった。


 「それ、なに」


 「香りを作る道具だよ」


 「かおり?」


 「そう。いろんな香りを混ぜて、新しい香りを作る」


 女の子がエリスに近づいてきた。警戒する様子がない。まっすぐな好奇心だった。


 「見せて」


 エリスは携帯用の調香ケースを近くの切り株の上に広げた。師匠から受け継いだ革張りのケースを開くと、小さな棚に香油の小瓶が並ぶ。琥珀色、青色、透明。


 「色が違う」


 目が丸くなった。


 「きれい」


 「一本だけ、触ってみる?」


 女の子が小さな手を伸ばした。エリスが選んで差し出した小瓶を、両手でそっと受け取る。コルクの上から指でなぞって、「つめたい」と言った。


 しばらくそうしていてから、顔を上げた。


 「わたしも、香り、ほしい」


 「どんな香りが好き?」


 「わかんない。でも——誰かにあげたい」


 エリスはかがんで、女の子と目の高さを合わせた。その距離で香りが来た。干し草と土と、牛乳のような温かさ——農村の子どもの、素直な香りだ。その下に、何か心配の質がある。誰かのことを案じている。


 「誰かにあげたいんだね。——お父さん? お母さん?」


 女の子が首を少し傾けた。


 「お姉ちゃん?」


 顔がぱっと明るくなった。香りも揺れる。


 「うん、そう!なんでわかるの」


 「なんとなく」


 エリスは答えた。


 「お姉ちゃん、最近元気がない?」


 「うん。学校で友達とケンカして、ずっと部屋にいる」


 と言って、声が少し小さくなった。


 「そっか」


 エリスはムエットを一枚取り出した。スイートオレンジを一滴だけ落として、「嗅いでみて」と差し出した。


 女の子が顔を近づけた。一拍おいて、「あまい」と言った。


 「気持ちが落ちているとき、外から少し背中を押してくれる香りだよ。——あとふたつ、重ねる」


 カモミールを一滴、プチグレンを一滴。ムエットを束ねて、小さな手に渡した。


 「三枚まとめて、お姉ちゃんの枕元に置いてあげて。寝る前に嗅ぐと、少し楽になる」


 女の子は束を両手で受け取った。真剣な顔で、何度か頷いた。


 「ありがとう」と言って、向こうへ走っていった。


 エリスが調香ケースを畳んでいると、ふと視線を感じた。顔を上げると、離れたところにアルドがいた。近くの護衛と何か話しているようだった。目が合ったと思った瞬間、アルドは先に視線を切って馬の方へ歩いていった。


 エリスはケースを道具袋に戻した。


---


 馬の蹄の音が来た。セバンが戻ってきたのだ。


 馬を降りて、真っすぐアルドのところへ歩いていく。カルが地図を手に並んだ。エリスは少し離れた場所で、道具袋の口紐を締めながら耳を向けた。


 「前方、確認しました。野営の跡が街道脇に複数あります。少なくとも十人以上と見られます」


 アルドが短く問い返した。


 「今も街道上にいるか」


 「確認はできませんでした。ですが——」


 セバンが続けた。


 「念のため、迂回をお勧めします。東の農道を使えば、ヴェルノまで迂回できます。半日ほど余分にかかりますが、安全を取るなら」


 「迂回路の状態は」


 「問題ありません」


 カルが地図を広げた。セバンが迂回路を指で示した。報告の言葉は滑らかで、護衛としての所作も正確だ。おかしいところはない。


 と、風が変わった瞬間に、セバンの香りが来た。


 革と埃と、街道の土埃——その表層の下に、別の層がある。甘く焦げたような、重い香りだ。緊張を押し込めているときに滲み出てくる。旅の途中で何度も嗅いできた。依頼人が値段を誤魔化そうとしているとき。商館の番頭が取引の条件を隠しているとき。「よく眠れています」と答えながら目の下が落ちくぼんでいるとき。


 セバンは嘘をついている。


 でも何も言えなかった。「嘘の香りがします」とは言えない。言えば次の問いが来る——なぜわかるのか。説明できない。説明しようとすれば、自分が何を持っているかを明かすことになる。


 アルドは、まだ地図を見ていた。


 カルが「そうなると迂回か」と言いかける。


 そのとき、アルドが顔を上げた。地図の方ではなく、エリスの方を見た。


 一拍、間があった。


 「調香師」


 全員の視線がエリスに来た。カルが少し眉を上げる。セバンが静止した。


 「この道をどう思う」


 エリスは道具袋から手を離した。


 「——私は、迂回しない方がいいと思います」


 静かになった。


 「理由は」


 「迂回路の方が、危険だと感じます。それだけです」


 「感じる」という言葉だけが、嘘にならない言葉だった。根拠を聞かれたら答えられない。でも「感じる」は本当のことだ。


 カルが少しの間を置いて、地図を折り畳んだ。


 「俺も調香師殿の意見に乗ります。この季節は街道沿いの林が葉枯れしていて、十人が潜めるような場所はほとんどない。逃げ足の速い野盗どもが選ぶ場所には思えない」


 「——街道を進む」


 アルドが言った。


 セバンが一歩前に出た。


 「しかし!」


 「セバン」


 アルドの声は短く、低かった。それだけでセバンが口を閉じた。


 馬車の御者たちが動き出した。一行が動き始める。


 セバンが馬に乗りながら、一度だけエリスに視線を向けた。


 エリスは道具袋を持ち直して、自分の馬車に向かった。


---


 街道に、野盗はいなかった。


 野営の跡も、人影も、何もなかった。


 カルが「拍子抜けでしたね」と言った。アルドは何も言わなかった。


 夕方にはヴェルノの宿に着いた。


 エリスは部屋に荷物を置いて、師匠のノートを開いた。


 「依頼人:マルコ(ヴェルノ)。商会会頭。四十代」と書いた。


 ペンが止まった。


 もし迂回していたら、と思った。農道を通っていたら。セバンの香りのことを考えると、その先を想像してしまう。待ち伏せがあったのか。なかったのか。どちらも確かめようがない。感じただけだ。


 書くべきことが出てこないまま、ノートを閉じた。


 灯りを落とす前に、ベルガモットの小瓶を取り出した。昨日アルドの手首に一滴落とした小瓶だ。コルクを少し緩めると、柑橘の明るい香りが来た。今日の道のりで道具袋が揺れても、栓はしっかり閉まっていた。


 コルクを押し込んで、道具袋に戻した。


 窓の外、新しい街の夜の灯りが広がっている。ここがヴェルノ。次の目的地だ。


 マルコがどんな人間かは、明日会えばわかる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ