第5話 ベルガモット
目が覚めたとき、まだ暗かった。
窓の外、空の端がかすかに白み始めている。山の稜線が闇の中にうっすら浮かび上がっているが、まだ夜の色だ。眠ったかどうかの境目がはっきりしない夜だった。
頭に最初に浮かんだのは、香りのことだった。
シスタスが土台にある。ジュニパーの透明さが中層に広がり、マジョラムが全体をゆっくりと包む。昨夜、調香瓶に蝋を垂らして封をするまで三度確かめた。狂いはない。
布に包んだ香瓶は、道具袋の口のすぐそばに置いてある。手を伸ばせば触れる場所だ。
「仕上がったら知らせてほしい」という指示だった。
エリスは暗い天井を少しの間見ていた。空がもう少し明るくなったら行こう、と思った。
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空が徐々に白み、透明な日差しが差し込み始めた。
起き上がって、身なりを整える。香瓶を道具袋に入れ、廊下に出た。宿の中はまだ静かで、使用人たちの姿もない。
アルドの部屋の前まで来て、足が止まった。
扉の向こうから音はしない。廊下の向こう側はまだ暗く、他の部屋の気配もない。
早すぎたかもしれない。
もう少し待って、リディアさんに託そうか。
——そのとき、扉が内側から開いた。
アルドがいた。
外出の支度が整っている。上着を着込み、外套の留め具まで留めてある。エリスを見て、一瞬だけ動きが止まった。廊下で向かい合う形になった。
「——仕上がりました」
布に包んだ香瓶を、両手で差し出した。
アルドがそれを受け取った。重さを確かめるように、手の中で一度だけ傾ける。布の上から親指で押さえるようにして、瓶の形を確かめた。
「うん。行ってくる」
一言そういうと、外套の裾が一度翻り、足音が遠くなった。
エリスはしばらくその場に立っていた。廊下が元の静けさに戻った。渡したものが、自分の手から完全に離れた——そういう感覚だけが残った。
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階段の方へ歩き出したとき、リディアとすれ違った。
「おはようございます」
「おはようございます」と穏やかに返ってきた。リディアは今朝も足を止めない——と思ったとき、珍しく少しだけ歩調が緩んだ。
「殿下はいつも、この刻には起きていらっしゃいます」
エリスが黙っていると、リディアが続けた。
「どれほど小さな公務でも人任せにされないので、いつも時間に追われておいでです」
それだけ言って、リディアは歩いていった。
感情の込もった言葉ではなかった。あくまで事実を告げただけ。でもリディアの目には、一瞬だけ何かが浮かんでいた。ずっとそばで見てきた者の、静かな敬意だった。
エリスはアルドが消えた廊下の方向を、少しの間だけ振り返った。
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部屋に戻って、道具袋を置いた。
香料の残量を確かめる。小瓶を一本ずつ取り出して、並べて、戻す。ベルガモットが減っている。この街の香料屋で補充しておく必要がある。ネロリも少ない。次の街が商業都市と聞いていたから、そこで揃えてもいい。でも今日時間があるなら今日がいい。いつ何があるかわからないのが旅だ。
作業が終わると、部屋が静かになった。
窓の外、北の岩山が朝の光を受け始めている。あの山の向こうにギルバート伯爵の城がある。今日、アルドはその城に向かった。エリスが仕上げた香りを持って。
旅の調香師として各地を巡り、依頼を受けて香りを作る——それがエリスの仕事だ。相手が商人でも農夫でも、やることは変わらない。香りを渡したら、それで終わりだ。届けた香りがどう使われるかは、作り手の知る話ではない。
「作り手の仕事は渡すまでで終わる。そのあとは自分を信じなさい」師匠はそう言っていた。
自分が昨夜作った香りが、今日、東の国境を三十年守ってきた軍事貴族への贈り物として、正式な外交の礼の場に持ち込まれている。
昨夜は無我夢中だった。シスタスを選んだとき、老人の「あの人は、誰かに守ってもらうことを知らない人間だったから」という言葉を芯にして組み立てたとき、ムエットで三度確かめたとき——仕事のことしか考えていなかった。一人になって初めて、その香りが置かれる場所の重さが降りてきた。
もし気に入られなければ。もし、場が白けるようなことになれば。もし、アルドの立場に傷がつくようなことになれば。
「自分を信じなさい」をもう一度繰り返した。それでも今日は、繰り返すたびに少し重かった。
昼を過ぎた。王族の宿泊で人払いをしているのか、他に宿に客はなく、食堂の声もほとんどしない。
アルドはまだ戻っていない。どういう会談になっているのか、そういうことを知る立場にない。自分の仕事は昨夜終わっている。
それでも、エリスは何かを待っていた。
自分でも気づかないうちに、廊下の音に耳を向けていた。宿の外から馬の音が聞こえるたびに、少しだけ意識が動いた。それがアルドの馬かどうかは、音だけでは判断できない。
判断できない——でも、聞いていた。
夕方になって、馬の蹄の音が来た。一頭ではない。複数の、整った音の並びだ。護衛を連れた帰還の音だろう。
しかし、結局この日は何もわからないままだった。
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翌朝、廊下に出るとカルがいた。
宿の廊下の中ほど、手すりに背を預けるような格好で立っている。こちらに気づいて、いつもの笑みをよこした。
「ちょうどよかった。さっき伯爵が礼に来ました。殿下も下に。——調香師も、と」
「私が、ですか」
「そうみたいで」
カルが手すりから背を離して、先に歩き始めた。エリスはその後を歩いた。
調香師が呼ばれる理由がわからなかった。
階段を降りた宿の一階、奥の応接間の方から声がした。
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戸口を入ると、アルドと伯爵が向かい合っていた。カルは部屋の端に控えた。
伯爵が振り向いた。大柄な体格。長年の戦場と夜明け前の城壁が、骨格の上に刻み込まれている。目の下に、眠れない夜の痕が刻まれている。昨日の老人の話の中にいた人物が、今ここに立っている。
その目線がエリスに来た。
アルドが言った。
「調香師です」
伯爵が一歩近づいたとき、エリスは香りを受け取った。
土と鉄——軍人の体の、長年の積み重なりの香りだ。でもその下に、自分が作ったものが混じっていた。
シスタスの、樹脂の重さ。
昨夜調香瓶の底に静かに沈めた、あの香りだ。自分が作ったものが、この人の体から香っている。昨夜、伯爵はこの香りの中で眠った。それだけのことが、鼻を通じてわかった。
「昨夜は、よく眠れた」
伯爵がアルドに向き直って言った。部屋が少しの間、静かになった。
「こんなによく眠れたのは……いつぶりだろう」
独り言のような言い方だった。誰かに向けて言おうとした言葉ではない——気がついたら口から出ていた、そういう声だった。
伯爵がエリスに向いた。
「君が作ったのか」
「はい」
「この香りは、何の」
「シスタスという樹脂の香りを土台に。城壁の風に似たジュニパーと、体をゆるめるマジョラムを重ねました」
「シスタス」
伯爵がその言葉を繰り返した。考えるように少し間を置いてから、
「——岩場に生える植物だ。北の山に、ある」
「はい」
伯爵が少し黙った。窓の外の、北の山の方向を一瞬だけ見た。
そのとき、昨日の老人の声が来た。
「あの人は、誰かに守ってもらうことを知らない人間だったから」
城壁の上で夜明けを待っていた若い頃の伯爵の姿を、エリスは思い描いた。暗い国境の方角を、ただ見続けている。夜が明けるまで、誰にも言わずに。眠れなかったのではなく、眠らなかったのだ。自分が見ていなければならないと、そう思っていた。
シスタスを選んだのは正しかった。何百年も同じ岩場に根を張り続けるものの香り——「今夜はそれが、静かにそばにある」と体が感じられる香り。眠りを引き込もうとするのではなく、ただそこにある。
「ありがとう」
伯爵が言った。落ち着いた声だった。感謝という言葉を、そのまま形にしたような声だった。飾りがない。
「よかったです」
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伯爵がアルドに一礼して、応接間を出た。馬の音が宿の外を遠ざかっていった。
カルが「では殿下、昼前の確認を」と言って廊下に出た。
エリスは自室に戻ろうとする。
「来い」
振り返りもせずにアルドが言った。自分が呼ばれたのだと気づくのにやや間があったが、エリスもアルドたちに続いた。
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アルドの部屋に入ると、室内は整理が行き届いていた。旅の荷物もきれいにほどかれている。ただ机の上だけが、書類の山で埋まっていた。紙が何層にも重なり、端から少しはみ出している。
カルがその机にさらに書類を並べた。
「殿下。更新した行程表です」
次の街への出発は明後日。商人ギルドの会頭マルコという人物との会談があるようだ。
アルドから「詳細は追って渡す。次の街に入ってすぐ仕立てるように」と調香の指示が出た。
「わかりました」とエリスが言うと、要件を終えたカルが先に部屋を出た。
扉が閉まった。
アルドが書類に目を落としたまま、少しの間があった。
「——よく仕上げてくれた」
低い声だった。書類を見たままエリスの方を向いていない。でも誰に向けた言葉かは明らかだった。
「ありがとうございます」
エリスは一礼し、道具袋を持って扉に向かおうとして——
気が抜けた。
膝が椅子を探す。気がつくと、部屋の端の椅子にへたりこむように座っていた。
自分でも驚いた。昨日から一日、何かを堪えていたのだろう。今のアルドの言葉が、その張りつめていたものを解いた。
「すみません。お忙しいのに。今出ます」
立ち上がろうとした。
「いや」
アルドが書類から目を上げた。
「そこにいていい」
室内に、アルドのペンの滑る音だけが聞こえた。
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しばらくして、扉が叩かれた。
「殿下、お茶をお持ちしました」
「入れ」
リディアがお盆を持って入ってきた。机にお茶を置いた。お盆を手に持ったまま、部屋の端のエリスに目が止まった。
一拍あった。
リディアがアルドを見た。アルドは書類から目を上げなかった。
「殿下、こちらの方にお茶を——」
「お気遣いありがとうございます。あの、すぐ出ますので」
エリスが答えると、リディアと目が合った。
リディアが「失礼しました」と言って、扉を閉めた。
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また部屋が静かになった。
アルドが書類に向かっている。いつの間にか、眉間に皺が寄っている。重要な書類なのか、疲れているのか。エリスには判断がつかない。
昨日の会談から今朝にかけて、アルドは何時間眠れたのだろうと、ふと思った。もしかして、ほとんど寝ていないのではないだろうか。
考える必要のないことだと知りながら。それでも、手が道具袋を探していた。
気がついたら、ベルガモットの小瓶を取り出していた。
コルクを外すと、柑橘の明るい香りが立ち上った。部屋の空気に、ふわりと混じった。
アルドが顔を上げた。
「あの、私、この香りを常備しているんです。気持ちが安らぐお守りのような感じで。——差し出がましいまねをして、すみません」
アルドが少しの間、エリスを見ていた。
「そんなに俺が、つらそうな顔をしていたか」
低い声だった。責めているのではない。ただ聞いた、という声だった。
アルドの口元が、ほんの少し動いた。
笑ったようにみえた。前のときよりはっきりと。一瞬だけだが、でも確かに仮面の向こう側に感情がのぞいた気がした。
エリスはとっさに答えられなかった。
「お気に召したのであれば、ここに置いていきます」
「——君のお守りだ」とアルドが言った。「君が持っていたほうがいい」
間があった。アルドが立ち上がった。エリスの方へ歩いてくる。机の脇を抜けて、部屋の端の椅子まで。そして、自分の左の袖をわずかに引いて、手首の内側をエリスの方へ向けた。
「ここに一滴、落としてくれないか」
エリスはおそるおそる、アルドの手首の内側に一滴落とした。
ベルガモットの明るい柑橘の香りが広がった。
アルドが手首を鼻に近づけた。目を閉じた。何秒か、そのままでいた。その間、エリスも動かなかった。
「これでいい」
アルドは言うと、袖を戻してまた書類に向かった。
エリスは滴管を小瓶に戻し、コルクを押し込んだ。
部屋が静かになった。シダーウッドの香りの中に、ベルガモットがかすかに溶けていた。
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夜、エリスの部屋。
ノートを開いた。
昨日「ギルバート伯爵」の項目の末尾に書いた一行の、さらに下に続きを書いた。
「翌日、伯爵よりよく眠れた、とのこと」
ペンを置いた。
荷物をまとめた。明後日の出発に向けて、補充が必要なものを確かめた。ベルガモットも明日の朝、香料屋で補充する。今日使った分だけ、瓶が軽くなっている。
窓の外、北の岩山が夜の中に黒く立っている。伯爵の城はあの山の向こうだ。伯爵は、今夜もよく眠れるだろうか。
ベルガモットの小瓶を手に取った。
親指で瓶の腹を押さえると、ガラスの冷たさが指先に来た。今日、アルドの手首に一滴落とした小瓶だ。
香りを確かめるようにコルクを少し緩めた。
柑橘の、明るい香りが来た。
エリスはコルクを戻して、道具袋に入れた。
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