第4話 眠らざる者
目が覚めた。宿の天井だった。梁が二本、斜めに走っている。昨夜確認した天井と同じだ。
起き上がって、荷物を確かめる。旅を始めてからずっと、朝にやることの順番は変わっていない。
今日の予定は一つ。アルドの部屋に行って、仕事の詳細を聞く。
廊下に出ると、リディアとすれ違った。
「おはようございます」と声をかけると、「おはようございます」と穏やかに返ってきた。感情の色がない。リディアはすでに別の用向きへ向かっているらしく、足を止めなかった。
廊下に一人残った。
昨夜の「居住まいをご留意ください」という言葉が、頭の端に残っていた。改めて、自分が今いる場所は今までと違う場所だと思った。
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アルドの部屋に入ると、かすかにシダーウッドの香りがした。
アルドは机の前の椅子に座っていた。書類が広げられている。エリスが入ってくるのを見たが、立ち上がりはしなかった。座ったまま、エリスに目を向けた。
「座れ」
向かいの椅子を手で示した。エリスは座った。
机を挟んで向かい合う。手の届く場所に、アルドの顔がある。これほど近かったことはない。この距離で正面から見ると、白い肌に映える青灰色の目の、微かな色の揺らぎまでが見えた。
「今日の午後、ギルバート伯爵と会談がある。東の国境を治める軍事貴族だ。今回の旅で最初に会う相手になる。贈り物の調香を今日中に仕上げておいてほしい。明日、会談のあとの礼として届ける」
「はい」
アルドが書類を一枚、机の端に置いた。エリスの方へ向けた。読んでいいという意味だ。
ギルバート・リーフェンスタイン
六十代。長年東の国境を守ってきた功労者。最近、隣国との小競り合いが増えている。兵の損耗、補給路の問題に奔走中。
そして最後の一行。——不眠。
「不眠と記してあります」
「そうだ。本人は公式の場では言わない。だが宮廷筋の情報でそう聞いている。いま渡せる情報は以上だ」
「わかりました」
「今日中に仕上げられるか」
「はい」
アルドがエリスを一度だけ見た。確認の目だった。それだけで、次の言葉へ移った。
「何かあるか」
「一つだけ——なぜ、私なのですか。宮廷の調香師でも、この仕事はできると思います。なぜ旅の調香師を」
アルドが一拍置いた。
「それは聞く必要のないことだ」
棘はなかった。事実として言ったのだとわかる。
エリスは「わかりました」と答えた。
書類の確認が終わった。エリスが「以上でよろしいですか」と言おうとしたとき——
「君は毎回、必要なことしか聞かないな」
低い声だった。独り言のような言い方だった。
エリスは顔を上げた。
アルドの口元が、ほんの少し動いていた。笑ったのか、そうでないのか——判断できなかった。一瞬だけ、何か人間的なものが表面に出て、すぐに消えた。アルドは既に視線を書類に戻していた。こちらが見ていたことに、気づいていない。
エリスは視線を机の端に向けた。何か言おうとして、言葉が来なかった。
「——以上だ。仕上がったら知らせてくれ」
「わかりました」
立ち上がって、扉へ歩いた。
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少し歩いたところで、カルが向こうから来た。昨夜の笑顔が完全に戻っていた。
「おはようございます。早いですね」
「そうですね」
エリスは警戒心が表に出すぎないよう、いつも通りの声音を意識した。
「殿下とのお話は、終わり?」
「はい。終わりました」
カルがエリスをしばらく見た。昨夜の、「お前」と呼んだ目とは違う。もう少し距離のある、測り直している目だ。
「昨夜は少し行き過ぎた。一応」
「構いません」
カルが間を置いた。
「……そういうところが、殿下に気に入られる理由かな」
軽い口調だった。試しているのか、ただ思ったことを言ったのか。判別できない言い方だった。エリスは何も返さなかった。
カルが笑って通り過ぎた。針葉樹と凍った土——昨夜より遠い。仮面が戻っている。それだけだった。
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部屋に戻って、道具袋を置いた。
書類の情報は手元にある。六十代。軍人。不眠。それだけで設計を始めることはできる。でも——何かが足りない気がした。書類は人間を説明するが、人間の香りは説明できない。
この街に来たのは今日が初めてだ。東の国境を守ってきた街の空気を、まだ知らない。ここで長年生きてきた人びとの営みを、知らないまま作っていいのか。
財布だけを取り出して、外へ出た。
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街の名はアルジュといった。
国境の要所であるにもかかわらず、市場の規模は小さかった。豊かな土地ではないのだろう。石灰色の岩盤が露出した山が北側に迫っており、耕せる土地が限られている。交易より防衛で生きてきた街——品揃えの貧しさは、そういう街の顔だった。露店が石畳の両側に並んでいるが、干し魚と根菜が主で、嗜好品の類いは少ない。
それでも、香料を扱う店は二軒あった。
日暮れまでには宿に戻らないと仕上げる時間が足りなくなる。急がなければならない。
一軒目に入った。ジュニパーを確かめた。冷えた高地の空気に似た、透明な香りだ。悪くない。でも、これだけでは骨格が細すぎる。マジョラムもあった。穏やかで温かい。眠りに引き寄せる力はある。
二軒目で別の香料を数種類見た。ムスク、ネロリ、乾燥させたセージ。どれも使えるが、「決め手の一層」にはならない。
違う。まだ足りない。
店を出た。日が傾き始めていた。
市場の外れまで歩いた。北風が来た。冷たく、乾いていた。石の匂いがした。
長い年月を経た城壁と、その向こうの荒野の匂い。この土地で生きることの厳しさが、風の中にある。
何十年も、この風の中に立ち続けた人間がいる。
「決め手の一層」はまだない。
もう一軒探そうとして、路地を二本まわった。ない。次の露店を探したが、市場の端まで来てしまった。空が橙色に染まり始めている。日没まで、あとおそらく一刻もない。
このまま宿に戻って、手元の香料で組み立てるしかないかもしれない。それでも及第点の調香はできる。
——及第点でいいのか。
エリスは路地の入り口で立ち止まった。
そのとき、目に入ったのは軒先に吊り下がった乾燥草だった。古道具屋の看板もなく、ただ荒削りの木の扉が薄く開いている。香料屋ではない。でも足が動いた。
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中に入ると、七十がらみの老人が棚の整理をしていた。背は低いが、骨格がしっかりしている。腕の筋肉の残り方が、長年体を使ってきた人間のそれだった。
「いらっしゃい」
「軒先の乾燥草を見せていただけますか」
老人が振り向いた。エリスの道具袋を一度だけ見た。
「調香師か」
「はい」
「珍しい。この街に来る調香師は少ないよ」
老人が草を一束手に取って渡した。
「これはただの乾燥草だ。香料には使えん」
「そうですか」
エリスは草を返した。
「この街で、香料を扱っている店をご存知ですか」
「ああ。専門の店は二軒しかない。もう回ったか」
「はい」
老人がしばらくエリスを見た。
「何を作ろうとしている」
「眠れない方のための香りを」
老人の目が少し変わった。
「誰のために」
一拍だけ、エリスは迷った。
「ギルバート伯爵という方のために、と聞いています」
老人が黙った。長い沈黙だった。
「……伯爵を、ご存知ですか」
「若い頃に、少しな」
老人がゆっくりと椅子に座った。
「伯爵の騎士団にいた。もう三十年近く前の話だが」
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老人の目が、窓の外の夕暮れを見ていた。三十年前を見ているような目だった。
「若い頃の伯爵は、いつも夜になると外に出た。城壁の上に一人で立って、夜明けまで国境の方を見ていた」
エリスはその言葉を聞きながら、城壁の上に立つ一人の男を思い描いた。暗い国境の方角を、ただ見続けている。夜が明けるまで、誰にも言わずに。
「眠れないのではなく——眠らなかったんだと思う。自分が見ていなければならないと、そう思っていたんだろう」
「今でも、同じことをしているのか」
「書類には、不眠と」
「そうか」
老人が静かに言った。
「あの人は、誰かに守ってもらうことを知らない人間だったから」
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その言葉が、最後の一層の輪郭を照らした。
「眠れない」のではなく「眠らなかった」——長年の習慣が体に染み込んだ人。眠りを「引き込む」香りでは、むしろ抵抗される。
この人に必要なのは、「今夜は誰かが見ている」と体が感じられる香りだ。一人で城壁に立ち続けた人間が、初めて肩の荷を下ろせるような。そういう香りだ。
シスタスだ。
師匠が「古い石の記憶だ」と言っていた樹脂の香り。岩場に根を張る植物から採れる、時間の積み重なりのような深い香り。何百年も同じ場所に立ち続けるものが、静かにそばにある感覚——それだ。
奥の棚、埃をかぶった小瓶の並びの中に、見覚えのある形の瓶があった。
「少し、棚を見せてもらえますか」
老人が頷いた。
奥の棚に手を伸ばした。埃を払うと、暗い琥珀色の小瓶が出てきた。栓を外して鼻に近づける。
間違いない。シスタスだ。樹脂の重さと、石灰の土の底から来るような冷たさ。長い時間の香りだ。
「これをいただけますか」
老人が少し笑った。
「随分古いものだが、構わんか」
「はい」
「——良いものを、仕上げてほしい。彼のために」
「——はい」
路地に出ると、空の端がもう深い橙色だった。エリスは来た道を早足で戻った。
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部屋に戻って、携帯オルガンを広げた。
師匠から受け継いだ革張りのケースを開くと、階段状の棚に香油の小瓶が並んだ。新しく加わったシスタスの小瓶を、棚の端に置いた。
土台はシスタスだ。岩場に根を張るものの重さ、長い時間の香り。押しつけない。ただ、そこにある。その上にジュニパーを重ねる——城壁の風に似た、冷えた透明さ。最後にマジョラムをひと息。温かく穏やかな層が、張り詰めた体をゆるめる。
「あの人は、誰かに守ってもらうことを知らない人間だったから」
老人の言葉が、設計の芯になった。
ノートを開いた。昨夜「依頼人:地方領主」と書いた余白に、続きを書いた。「依頼人:ギルバート伯爵。ラストノート:シスタス——何百年も同じ場所に立ち続けるものの香り」。
ムエットを三枚取り出して、それぞれの香油を一滴ずつ垂らした。三枚を束ねて持ち、静かに扇いだ。シスタスの重みが下から支えて、ジュニパーの透明さが中層に広がり、マジョラムがその上に温かく乗る。
バランスは悪くない。
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作業を続けていると、廊下に足音が増えた。
複数の靴音と、低く交わされる声。護衛とカルの声が廊下を通り過ぎていく。会談が終わったのだろう。明日、会談のあとの礼としてアルドが届ける——それまでに仕上げればいい。
エリスは手を止めて、部屋の扉を少し開けた。廊下の様子を確かめようとして——
アルドが廊下の向こうにいた。
護衛とカルが少し離れた場所で話している。アルドは一人、廊下の端に立っていた。こちらを向いていない。窓の外の夕暮れを見ている。
エリスは扉を閉めようとした。
そのとき、アルドが振り返った。
目が合った。
どちらも、少しの間そのままだった。アルドがエリスを見ていた。廊下で、何もない場所で、ただこちらを見ていた。
「——仕事は進んでいるか」
仕事の確認だった。それだけの言葉だった。でも振り返ったのは、エリスが扉を開けた音を聞いてからだ。護衛たちの声が廊下に満ちていたのに、そちらには振り返らなかった。
「はい。今夜仕上げます」
「そうか」
アルドがしばらくエリスを見た。何かを言おうとして、言わなかった。そういう間合いだった。
「——頼む」
それだけ言って、護衛たちの方へ歩いていった。
扉を閉めた。「頼む」という言葉が、廊下に残った。命令でも、ただの依頼でもない、別の質の言葉だった気がした。
腰の革袋に指が触れた。
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灯りをつけて、作業を再開した。
調香瓶に蒸留酒を注いだ。三度蒸留を繰り返した、火を近づければ爆ぜるほどの純酒だ。師匠は「水が混じれば香りが濁る」と口癖のように言っていた。
ラストノートから順に入れる。
シスタスを三滴。滴管の先から、濃い琥珀色の香油が落ちた。岩場の樹脂の重さが、調香瓶の底に静かに沈む。次にジュニパーを八滴——冷えた高地の空気が、液体の中に広がる。最後にマジョラムを十滴。甘く穏やかな層が、ゆっくりと全体を包む。
混香棒でゆっくりとかき混ぜた。
香りが立ち上った。重い。冷たい。でも、温かい。何百年も同じ場所に立ち続けるものが、静かにそばにいる夜の香りだ。一人で城壁に立ち続けた人間が、初めて肩の荷を下ろせる。
これでいい。
ムエットに一滴垂らして、時間をおいて確かめる。一時間後、もう一度確かめる。夜のうちに仕上げて、届ける。
ノートを机の端に置いた。窓の外、夜の風が低く鳴っている。
灯りを落とさずに、ムエットを手に取った。
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