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第10話 雨の前の

 熱かった。


 喉の奥が締まって、息が入らない。煙が充満する中を走った。赤い炎。肌を焦がす熱波が届く。人が走っていた。誰かが叫んでいた。地面が熱くて、その熱が足の裏から膝まで這い上がってくる。


 自分がどこにいるのかわからない。ただ煙の中を走った。手には、さっきまで誰かに握られていた感覚が残っていた。


 もう、その手は放してしまった。


---


 光が差し込んでいる。


 浅い眠りから覚めた微睡のなか、気づいたら窓の外で鳥が鳴いていた。宿の廊下を誰かが歩く足音が来て、遠ざかった。ヴェルノの朝だ。


 起き上がって身なりを整え、いつもの順番で道具袋の口紐と荷物の配置を確かめた。手が動く間、頭はまだ半分どこかにある。昨夜の夢の煙の匂いが、まだ少しだけ残っているような気がした。


 机の端に、白いハンカチがあった。昨夜リディアに上着と一緒に渡すべきだったかもしれない。いずれにせよ、早く返さなければ。表面に優美に施された刺繍を指でなぞって、手に持った。


---


 廊下に出ると、リディアが廊下の端を歩いてくるところだった。


 「リディアさん、昨夜はありがとうございました」


 「お役に立てたなら」と、リディアが静かに返した。感情の乗らない、いつもの声だ。


 エリスはハンカチに目を落とした。「これを殿下に——」とまで言って、なぜか言葉が止まった。手の中のハンカチを見て、それから顔を上げた。


 「……自分で、お返ししても構いませんか」


 言い終わってから、なぜそう言ったのかわからなかった。リディアが一拍だけ間を置いて、エリスを見た。何か言葉をつなげようとした気配がしたが、それ以上は言わずリディアは歩いていった。


 「殿下はこの時間、執務室にいらっしゃいます」


 声だけが、廊下に短く残った。


---


 アルドの部屋の扉を叩くと、「入れ」という声が返ってきた。


 インクと羊皮紙の匂いがした。書類が机の上に広げられていて、アルドはペンを動かしたまま顔を上げなかった。朝の光が窓から斜めに差し込んで、書類の端を白く照らしている。


 「昨夜のものを、返しに来ました」


 机の前に立って、白いハンカチを差し出す。アルドが手を止めて受け取り、そのまま書類に視線を戻した。


 「ありがとうございました」


 エリスは部屋を出ようとして、扉に手をかけた。


 「——よく眠れたか」


 足が止まった。振り返ると、アルドはすでに書類に目を落としていた。ペンが動いている。


 「はい」と返して、部屋を出た。


 廊下に出てから、少しだけ立ち止まった。あの問いに特別な意味はない——旅の同行者への、事務的な確認だ。そのくらいのことはわかっている。


 歩き始めた。


---


 部屋に戻って荷物をまとめる。午後にはこの街を出る。


 ノートを開いて「ヴェルノ、発つ」と書いた。ペンを置いた。


 昨夜の宴のことも書こうとしたが、どこから書けばいいかわからなかった。最後の行には「誰かの香りへの引っかかり。誰だったかはわからない」と書いてある。その下が空白のままだ。書けることと書けないことがあった。書けないことの方が、多かった。


 ノートを閉じた。


---


 午後。馬車に乗り込む前に、ヴェルノの街を一度だけ振り返った。マルコの顔。楔の香り。セリーヌがアルドの隣に自然に収まっていくところ。いくつかのことが、この街に残っていく。


 「妙ですね」


 馬車が動き出す直前、エリスは窓の外から聞こえてきた声に耳を澄ました。カルだ。見るとアルドとカルが馬車の陰で話し込んでいる。


 「……の宿場で……を」


 カルの声が途切れ途切れに届く。護衛二人が集まってきて四人で何かが話された後、カルと護衛が街道の先に向かって歩いていった。


 出発が遅れていた。


 街の朝の匂いの奥に、何か焦げたものに似た、乾いた緊張の質が薄く混じっていた。匂いと呼ぶには希薄すぎる。ただ確かにある。道具袋の口紐を確かめる手が、自然に動いた。


 ようやく馬車が動き出した。


 街を出ると、土と乾いた草と街道の埃の匂いに変わった。木立が左右に続いている。御者が一度だけ速度を落として左右を確かめ、そのまま進んだ。護衛の配置が昨日から変わっていた。後方にいた二人が今日は馬車の左右に張り付いていて、前方にも先行している者がいるようだった。なぜそうなっているのかエリスには理由がわからない。


---


 その夜は、街道沿いの小さな宿に宿泊になった。


 部屋に荷物を置き、ベッドに腰かけた。馬車の移動は座っているだけではあるが、疲れるものだ。大きく伸びをする。


 窓の外を見ると、宿の裏手に草地が広がっていた。集落の明かりが遠く、草地の向こうは暗い。空に星が出始めている。


 目が、石垣の近くで止まった。月明かりの中に、見慣れない葉の形があった。


 エリスは採取袋を手に取って立ち上がった。


---


 宿の裏口から出ると、夜の冷たい空気が顔に当たった。草地を横切って石垣に近づく。野バラの葉に似た形をしているが、野バラではない。白い細かい花が暗がりの中に見えた。茎を指でそっと折ると——草と土を混ぜたような、それでいて少し甘い香りが来た。窓から届いた甘さは、この花のものだったらしい。


 採取袋に丁寧に入れた。石垣の際を少し奥まで確かめると、もう一束あった。膝を折って袋に収めようとする。


 「——何をしているんですか」


 振り返ると、外套を着たカルが立っていた。月明りで逆光になり、表情は見えなかった。


---


 「野草を採っていました」


 採取袋を見せると、カルはエリスの手元を一秒ほど見てから顔を上げた。


 「……まったく、夜中に一人で外出は物騒ですよ」


 たしなめるような口調だった。


 「すみません、すぐ戻ります」


 「待ってください。途中だったんですよね?」


 カルが採取袋を指さす。「用が済むまで、お供します」


 カルが先に立った。エリスは石垣の際をもう少しだけ確かめた。同じ野草があともう一束見つかったので、それも採取袋に入れた。立ち上がると、カルは声もなく空を見ていた。


 西の方角に雲がある。星が多い夜だが、明日の朝には雨が近づいてくるかもしれない。


 「……こういう場所でも、香料を探すんですね」


 カルが言った。顔は変わらず夜空を向いていた。


 「見つけたら採っておきます。使えるかどうかは後でわかるので」


 「なるほど」と短く返して、それ以上は聞かなかった。


 二人で草地を歩いた。足元で草が音を立て、夜の冷たい空気が頬をなでた。


 「月光浴というのも、たまにやると気持ちいいですね」


 宿の裏口で、カルが先に扉を開けた。エリスが中に入って、カルが静かに扉を閉めた。


 「おやすみなさい」


 廊下の端でカルが言った。笑顔はなかった。


---


 部屋に戻ってノートを開いた。「街道沿いの集落・石垣近くの野草。野バラに似た葉、白い花。甘い香り」と書き、採取袋を机の端に置いた。書いているうちに、少し落ち着いた。


 笑顔のないカルは、今夜が初めてだった。


---


 翌朝、空が重かった。


 西からゆっくり雲が来ていた。昨夜まだ星が出ていた空が、今朝はもう灰色に覆われつつある。土が湿り始めている。雨の前の匂いが、冷たい空気の中にあった。


 馬車に乗り込む前に、カルが慌ただしく護衛へ指示を出していた。カルの表情は動かない。その事実が、雰囲気を重々しくしていた。


 馬車に乗り込もうとしたとき、アルドが来た。護衛への指示を終えた足で、まっすぐエリスの前に立つ。


 「この先で何かあっても、馬車から離れるな」


 「わかりました」


 それだけ言って、アルドは戻った。振り返らなかった。


 馬車が動き出してから、道具袋を膝の上に置いた。口紐を確かめた。


---


 一時間ほど進むと、街道が急に細くなった。左右の木立が迫ってきて、樹の根が路面に張り出している箇所が増えた。馬車の速度が落ちて、御者が前方を注意深く見ている。


 エリスは窓の外を見た。木立の中は暗く、風もないのに葉が揺れている。


 香りが変わっていた。土と樹脂の奥に、昨日から続く緊張した質の匂いがあった。昨日より濃い。ヴェルノに着く前、賊が潜むという報を受け、道を迂回するかどうか迫られたことを思い出す。あのとき街道を選んだ。今日は——


 ——まさか、今度は。


 「止まれっ!前方に——」


 馬のけたたましい嘶きとともに、馬車が急停止した。前のめりになったエリスは馬車の床に倒れ込む。外で護衛の声がした。


 「前方に障害物、偽装された——」


 続きは聞こえなかった。複数の足音が増えた。金属と金属がこすれる音が来た。立ち上がらなければ——


 横合いから、激しい衝撃が来た。


 馬車が大きく傾いだ。扉が外側に弾け、体が宙に浮いた。


 鼻の奥に鈍痛を感じる。


 エリスは地面に叩きつけられた。

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