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第11話 赤い風

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 男たちの大声が聞こえる。遠くで、あるいは近くで。声が聞こえるたび、全身が強張り足が止まる。炎にさらされ続けた頬は感覚を失い、自分がどんな表情をしているのかすらもうわからない。口の中で血の味がした。


 ここから、逃げなければ。一人で。一人だけで。


---


 目を開けると薄曇りの空が見えた。顔のすぐそこに枯れ草と土の匂いがする。胸の上にずしりと感じる道具袋の重さで、エリスは馬車から投げ出された身体を再確認した。


 遠くで馬が嘶いていた。金属同士がぶつかりあう音がする。エリスは手のひらで地面を押し、ゆっくりと膝を曲げた。痛んだが、立てた。


 道具袋を抱え直して揺らすと、中で瓶が触れ合う音はしなかった。割れていない。それだけ確かめてから、顔を上げた。


 戦闘が続いていた。


 倒れた馬車が街道を塞ぎ、その向こうで護衛と賊が入り乱れていた。


 エリスは残骸になってしまった馬車の傍らで動けずにいた。どこへ向かえばいいかわからず、護衛の声もカルの声も、どれも遠かった。


「あんなところにもいやがった」


 獣のような、荒い息遣いとともに放たれた声。


 振り向くと賊の一人がこちらを見ながら近づいていた。手には斧。


「そこで、行儀よく待ってろよ」


 距離が詰まるのが、妙にゆっくりと見えた。


 エリスは腰から崩れ落ちた。


---


「あのガキはどこだ」


 目の前に、潰されたネズミの死骸があった。瓦礫のなか、倒れた柱と壁で出来た物陰にエリスは横たわっていた。息をひそめる。顔の横を何人もの足音が通り過ぎていく。


 口を懸命に閉じようとしていた。身体の震えで歯が鳴る音が聞こえてしまわないように。ぎゅっと閉じたまぶたの間から、涙がぽたぽたと落ちていった。


---


 賊を前に地面にへたりこんだエリスは、目から涙があふれてくるのを感じた。自分ではどうしようもできない。足も動かなくなってしまっていた。


 せきとめられていた何かが決壊したように、おしよせてくる感情の波に思考が押し流されていくばかりだった。


「あ、あ」


 声をあげようにも、声にならなかった。


「おら、立ちやがれ」


 息を荒げた賊がエリスの腕をつかみ、引っ張り上げる。


「う」


 喉の奥から呻き声をあげ、そのまま賊は前のめりに倒れた。 


「大丈夫か」


 倒れた賊の背後にアルドが立っていた。頬に血がついていて、もう一方の手にまだ剣を持っていた。


 アルドがエリスに手を差し伸べる。


 「立てるか」


 「——あの」


 涙声はかすれていた。


 アルドはエリスの様子を一瞥すると、背中に腕を回しそのままエリスを抱え込んだ。


 「つかまれるか」


 「はい。すみません」


 エリスを抱き上げたアルドは、馬車の残骸と木立の間にできた狭い物陰へエリスを運び、「ここにいろ」とだけ言って、また戦闘に戻っていった。


---


 物陰の壁に背を預けると、まだ全身が震えているのがわかった。道具袋を胸に抱いたまま壁に体重を預け、呼吸を整えた。戦闘の音が続いていた。剣が合わさる音、足音、短い叫び声——それらが遠く近く、壁の向こうで入り乱れていた。


 ふと、手のひらが土で汚れているのに気づいた。地面に叩きつけられたときのものだ。エリスはそれを見てから目を閉じ、呼吸を数えた。一回。二回。三回。震えが少しずつ遅くなっていった。


---


 やがて剣の音が疎らになり、それから止まった。


 「終わった」というカルの声がして、エリスはゆっくりと物陰から出た。一歩踏み出すと膝が鈍く痛んだが、立っていられた。


 荒れ果てた風景の中を、護衛たちが淡々と動いていた。賊を押さえ込む者、倒れた仲間の状態を見る者、馬車の損傷を確認する者——それぞれが余分な言葉を使わず、自分の役割をこなしていた。カルがエリスの横を通り過ぎるとき、一瞬だけ視線を向けた。怪我の有無を測るような目だったが、足は止まらなかった。


 道具袋の口紐を確かめると、震える手で握り直した。横転した馬車の車輪が、まだじりじりと回転を続けていた


---


 地面に押さえ込まれた賊の一人に、カルが歩み寄った。


 「誰の差し金だ」


 賊は顔を背けた。カルがもう一度同じことを聞いたが、賊は黙ったままだった。護衛の一人が剣の柄に手をかけると、賊の視線が一瞬そちらに動いた。それでも口を割らなかった。


 「殺すな」


 アルドが護衛を手で制した。


「帰国後に裁判にかける。送っておけ」


 護衛が剣から手を離し、賊を引き立てようとした。その瞬間、賊がアルドを見上げて口を開いた。引き立てられながら、吐き捨てるように言った。


 「けっ、まさかアンタに情けをかけられるとはな。弟殺しに」


 護衛が賊を殴った。賊が黙った。


---


 弟を、殺した。


 その言葉だけが、他の音から切り離されてそこに残った。


 護衛の手当てが進み、カルが次の対応を指示していた。アルドは顔の血を外套の袖で拭いながら地図を開き、何かを確認していた。今起きたことをすでに次の判断へと変換している、いつもの動き方だった。完璧な仮面が戻っていた。


 さっきの戦闘の場面と、今ここで地図を見ている人間が、同じだと頭ではわかる。でも。


 アルドが地図から顔を上げたとき、視線がエリスのところで一瞬止まった。血の残った顔で、何も言わなかった。


---


 その夜は、街道沿いの農家の納屋を借りた。


 わらの匂いがした。獣の気配が残っているような、乾いた暗い匂いだった。荷物を下ろして道具袋を膝に置くと、膝がまだ鈍く痛んだ。香油を一本ずつ取り出して確かめ、順番に戻した。全部そろっていた。壊れていない。それだけで十分だった。


 暗い納屋の中で、今日のことが順番に来た。地面に叩きつけられた感触、膝の痛みとともに戻ってきた記憶、賊が近づいてきたとき体が動かなくなったこと、アルドが割り込んできた速さと「大丈夫か」という声、物陰の壁の感触、戦闘が終わった後の静けさ、そして「弟を殺した」という言葉。


 整理しようとしたが、できなかった。



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