第七章 無菌室の審問、あるいは香気なるジャミング
文化人類学の古典において、呪術師は言葉を使わず、空気の密度で部族を支配するという。妻の超自然的なインスピレーションが私の防壁を揺るがし、データサイエンティストの彼女が遺した虚無のログが脳内で燻るなか、私の数式は次なる、そして最も苛烈な感覚の具現者を迎え撃つこととなった。天才調香師、あるいは香水コーディネーターの彼女。彼女の鼻腔は、社会が隠蔽しようとするあらゆる有機物の痕跡を、分子レベルで仕分けする恐るべき成分分析装置だった。彼女の部屋は、無数のアトマイザーと琥珀色の試薬瓶が整然と並ぶ、さながら香りの拷問室である。「ねえ、今日のあなた、少し焦げたような匂いがするわ」ベッドから身を起こした彼女が、私の鎖骨のあたりにその鋭敏な鼻先を寄せ、深く息を吸い込んだ。その瞳には、大人の契約をハッキングしようとする、調香師特有の嗜虐的な光が宿っている。「焦げた匂い? 学会の帰りに、少し煙草の煙が煙る純喫茶に立ち寄ったからね」私は用意していた偽装のアリバイを、変声期を過ぎたばかりの学生のように滑らかに発声した。だが、彼女は満足しない。彼女が探しているのは、私の嘘という名の人工的なブレンド香水や市販の消臭剤の化学的なノイズだ。世の凡百な浮気男たちが犯す、安直なカモフラージュの甘い香りを、彼女の鼻は絶対に許さない。しかし、私の防衛プログラミングは、すでにその数手先、生物学の深淵へと到達していた。私は彼女に触れられる数時間前、大学の研究室の排気装置のなかで、一つの化学式を完成させていた。市販の消臭剤が香りで胡魔化すのなら、私は圧倒的な現実を合成すればいい。
私が皮膚の裏に極小量だけ仕込んでおいたのは、人工物ではない。汗の成分であり、加齢の本質たる不飽和アルデヒド一〇〇%天然精製ノネナールだ。私自身、それを一吹きした瞬間、自分の部屋の鏡の前で激しく悶絶し、涙目で肺の空気をすべて吐き出すほどの破壊力を持った、ガチのオヤジ臭である。「……違ったわ。これは、ただの」彼女の動きが、ぴたりと止まる。彼女の鋭すぎる鼻腔が検知したのは、洗練された不倫の香気などではなく、四〇代のオスが日常の疲弊のなかで自然に排出した、あまりにも生々しく、あまりにも退屈な生活の垢そのものだった。その圧倒的な現実の臭気は、天才調香師の脳内データベースに「これ以上の捜査は無駄であり、かつ不快である」という強力な拒絶反応を叩き込む。彼女は微かに顔を顰め、それ以上、私の身体から真実を嗅ぎ分ける意欲を完全に喪失した。「疲れているのね。おじさんみたいな匂いがするわ」「すまない。少し研究が立て込んでいてね」
私は鏡の中の自分に向かって、冷徹でスタイリッシュな笑みを浮かべた。自分自身をも裏切り、ゴッホゴッホと激しく悶絶しながら勝ち取る、ノーペナルティの平穏。調香師の鼻を完全に破壊し、我が家の防壁:定数Bへと繋がる道は、今回もまた無臭の美しさを保ったまま維持される。しかし、その勝利の代償として、私の耳の裏には、剥がしても剥がれない冷たい現実の残り香が、不気味にこびり付いていた。




