第五章 不確定性ハイパー変数
「おかえりなさい。今日もお疲れ様」我が家の絶対的な本拠地:定数Bのドアを開けると、妻がいつもと変わらない穏やかな微笑みで私を迎えてくれた。完璧にデバッグされた車から降り、服を着替え、リビングの食卓につく。目の前には、私の好みに合わせた温かい夕食が並んでいる。出力結果は一〇〇%。今日もこの空間は、私の計算通り美しい平穏を保っている。そのはずだった。
「ねえ、あなた」
スープを口に運んでいた妻が、ふとスプーンを止め、小首を傾げた。その瞳は濁りなく澄んでおり、私への猜疑心など一分子も含まれていない。「どうかしたかい?」「なんかね、最近おかしいのよね」「何が?」私の脳内コンピューターが、一瞬で防衛モードへと移行する。だが、声のトーンは准教授としての穏やかさを維持したままだ。「ん〜、何か根拠があるわけじゃないんだけど、胸騒ぎがするときがあるのよ〜。先週の月曜日と金曜日あたりだったかしら。なんだか胸の奥がざわざわして」その瞬間、私の体内の全細胞が凍りついた。先週の月曜日と金曜日。それは、私が別の女のマンションでミッションで浮気をしていた、まさにその日、その時間だった。もちろん、アリバイは完璧だ。ダミーのスマートフォンは完璧な移動ログを刻み、衣服は工場出荷状態の新品を着用し、自作の天然ノネナールで匂いすらカモフラージュしていた。論理的な綻びはどこにもない。警察の捜査であっても、私の行動を割り出すことは不可能なはずだ。それなのに、私の愛する妻は、論理を持たなかった。彼女はデータも、繊維も、化学式も使わない。ただ勘という、数式では到底処理できない曖昧で超自然的なハイパー変数を用いて、私の堅牢な防壁を内側から易々と侵食してくるのだ。
「……気のせいじゃないかな。先週は大学の予算会議で少し疲れていたから、それが君に伝わってしまったのかもしれないね」「そうかしら? あなたが元気なら、それでいいんだけど」妻はそれ以上追及することなく、楽しそうに笑って食事を再開した。彼女は、私が浮気をしているなどとはこれっぽっちも思っていない。心の底から私を信じ、愛している。だからこそ、恐ろしい。浮気を疑っている人間なら、その疑いの隙を突いて騙し通すことができる。しかし、彼女にあるのは純粋な感覚だけだ。悪意も確証もないまま、ただ野生のインスピレーションだけで、私の計算され尽くした定数を正確に撃ち抜いてくる。
彼女の無垢な微笑みの裏で、私の脳内コンピューターは激しい警告音を鳴らし続けていた。論理を極めた夫と、感覚に愛された妻。この予期せぬエラーを前に、私の完璧なアルゴリズムが、かつてない緊迫感とともに試されようとしていた。私は、温かいスープをゆっくりと口に運んだ。スープの味はとても冷たかった。




