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第一章 変数排除のアルゴリズム

 文化人類学とは、他者の行動様式を観察し、その背後にある構造を解き明かす学問だ。私にとって、いわゆる浮気もそれに酷似している。世間はそこに愛だの情緒だの、不確実な感情を乗せたがるが、本質は違う。これは高度な情報戦であり、徹底的なリスク管理の数式に過ぎない。



「先生、お疲れ様でした」



 ゼミ生たちの声に見送られ、私はいつも通り大学の駐車場へと向かう。夕闇に包まれた愛車のセダンに乗り込み、エンジンを静かに始動させた。私には守るべき本拠地がある。最高司令官たる妻における定数Bだ。家庭の平穏という出力結果を常に一〇〇%に保ち、彼女の私に対する不信感を常に〇・〇〇%のゼロに固定する。そのためには、私の生活圏に侵入してくるあらゆる変数を徹底的に排除しなければならない。



 最初のプログラミングは、マッチングアプリの段階から始まっている。私は自作のサーチアルゴリズムを用い、アプリ内のデータを冷徹にスクリーニングする。選別基準は容姿ではない。私の生活圏、行動動線、勤務先、そして定数Bの活動範囲と絶対に交差しないこと。これが第一条件だ。さらに実家が遠方であること、共通の知人が存在しないこと。これらの防壁をすべてクリアした未婚女性だけが、私の脳内データベースに安全なミッション対象として登録される。脱出したあの夜も、その厳密な計算によって選ばれた一人だった。予定外の彼氏の帰宅というエラーは発生したが、私の脱出ルートAにより、システムはすでに正常値へと復旧している。だが、ミッションは現場を離れて終わりではない。帰路の車内こそが、最もセキュリティを強固にすべき空間だ。私は車を人気の流動が少ないコインパーキングに滑り込ませ、グローブボックスから軍用レベルの清掃キットを取り出した。これが私の完璧なナイト・ルーティンだ。まず、業務用超粘着コロコロを手に取り、助手席のシートをミリ単位で走らせる。女たちの髪の毛は、最も致命的なバグになり得る。一本の微細な繊維も見落とさないよう、車内照明を LEDの最高光量に切り替え、シートの隙間、フロアマット、果てはシートベルトの金具の裏まで徹底的にデバッグを施す。続いて、無香料の業務用強力消臭スプレーを展開する。市販のファブリーズでは駄目だ。「いつもと違う香りがする」という微小な違和感こそが、最高司令官の鋭いセンサーを起動させる引き金になるからだ。空間の匂いを完全な無へと還元する。それが鉄則だ。最後に、ダッシュボードの隅々まで特殊なウエスで拭き上げ、指紋と指の脂を完全に抹消する。



 スマートフォンを取り出し、ダミーの偽スマホの同期ログを確認する。そちらの端末では、AIが自動生成した模範的な夫の一日が今も美しく稼働し、私が真面目に研究室に籠もっていた証拠となる位置情報を、定数Bに向けて健気に発信し続けている。すべてを確認し、私は深く息を吐いた。車内からは一切の変数が駆逐され、完全に工場出荷状態の平穏が取り戻されている。「システムオールグリーン。これより帰還する」ミラーに映る自分の顔を見る。白髪混じりの、どこにでもいる四〇代の男。その表情には、いかなる後ろめたさも、過剰な高揚感も存在しない。あるのは、完璧な仕事を完遂した職人の静けさだけだ。



すべては、我が家の絶対的な防壁を維持するため。



 ギヤをドライブに入れ、私は愛する妻の待つ本拠地へと車を走らせた。この強固な防衛プログラミングがある限り、私の日常が脅かされることは絶対にない。


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