序章 秒速の全裸脱出アルゴリズム
「ここに、愛や情緒はない。あるのは数式だ」
それが私の口癖であり、行動規範だ。高橋健一、四〇代。大学で文化人類学を教える准教授。学生たちの間では「真面目で、私生活の見えない退屈な先生」ということになっている。もっとも、先ほどまで私を別の名前で呼んでいたベッドの上の彼女は、私の本当の素性も、この本名さえも一生知ることはないのだが。その私が今、地上三階のマンションの一室で、完全なる全裸の状態で、脳内コンピューターをフル稼働させていた。「嘘……彼氏が帰ってきた!」ベッドの上で、さっきまで情熱的な声を上げていたはずの若い女が、絹を引き裂くような悲鳴を上げる。玄関の向こうから、ガチャガチャと鍵が回る無骨な音が響いた。私の網膜の裏では、瞬時にして脱出ルートAのフローチャートが鮮やかな緑色の光を放って起動する。心拍数は平時のそれを維持したままだ。「……さん、どうしよう!?」「静かに。呼吸を三分の一に抑えろ。君はベッドで眠ったふりをするんだ」
彼女がパニックになりながら呼んだ偽名を、私はただの背景音として聞き流す。私の声は、講義中のそれよりも冷徹で、切迫した空間にありながらも酷く穏やかだった。私はベッドから滑り降り、一切の無駄を削ぎ落とした動線で行動を開始する。私の服、下着、腕時計、鞄、そして玄関に脱いであるはずの革靴に至るまで、すべての私物は入室した段階で、すでに一つの防水ミリタリースペック・バックパックにパッキングされている。一分の隙間もなく詰め込まれたそのパックの中に、私の痕跡は完全に隔離されていた。部屋の空気中に漂う私の表皮細胞を除けば、この空間に私が存在した物質的証拠は一分子として残っていない。ガチャ、と玄関のドアが開く音がした。「ただいまー。あれ、鍵閉まってた?」という男の声が廊下に響く。足音がリビングへ向かって歩き出す。タイムリミットまで、あと四秒。私はパッキングされたバックパックを素肌の背中に背負った。衣服を一切身に付けず、黒いミリタリーパックだけを背負うその姿は、客観的に見れば奇妙極まりない光景だろう。しかし、私の精神は美しい数式を解き明かす数学者のように静謐だった。一切の迷いなく、三階の窓を無音で開け放つ。 夜風が、私の無防備な全身を静かに撫ていく。
躊躇という情緒を脳からデリートし、私は夜の闇へとダイブした。秒速の全裸脱出アルゴリズムの真骨頂は、事前のフィールドワークにある。私はあらかじめ、このマンションの一階にあるゴミ集積所の位置を完璧に計算していた。落ちた先は、住人たちが排出したプラスチックゴミや、クッション性の高い古着の回収袋が綺麗に集積されたランディング・ゾーンだ。
ドサッ、と鈍い音が夜の闇に吸い込まれる。無傷。計算通りの着地。
流れるような動作でダストボックスの裏へと滑り込み、バックパックのサイドジッパーを引く。中から現れたのは、予備のスタイリッシュなネイビーの作業着だ。靴を履き、ズボンに脚を通し、上着のジッパーを上げる。その間、わずか一〇秒。三階の窓から、慌てて男が夜の街を見下ろした時には、そこにはもう姿を隠すべき不審者などどこにもいなかった。 ただ一人、夜勤明けの清掃業者か、あるいは夜の散歩を楽しむ知的で平凡な中年男性が、街灯の光に背中を照らされながら、堂々と歩き去っていく後ろ姿があるだけだ。完全なる無傷。ノーペナルティの証明である。ポケットからスマートフォンを取り出し、画面に触れる。不審感の出力結果:〇・〇〇%。
「チェックアウト完了。今回も美しい定数だ」
私は小さく呟き、ネクタイのない首元をなぞった。私にとって、世界はすべて計算可能な数式だ。愛する妻という本拠地:定数Bを守るためなら、私はどんなハッキングにも耐えうる強固な防壁となる。
絶対に負けられない隠蔽無双の幕が、静かに上がった。




