第十章 絶対収束のパラドックス
血の滲む指先でゴミの山を掻き毟り、自らが構築した完全無欠のシステムが、ただの紛失という一粒の砂に拠って砂上の楼閣と化す不条理を、私は全身で呪っていた。どれほどの時間が経過しただろうか。夜の静寂が、私の荒い呼吸を冷徹に嗤っている。だが、恐怖の極点において、私の脳内コンピューターは、爆発的な過負荷の果てに異常なまでの静謐を取り戻した。「……追跡しろ」私は震える手で、本物のスマートフォンをケースから取り出した。電波を遮断していた防壁を自ら解く行為は、それ自体が致命的なログを残す自殺行為だ。だが、背に腹は代えられない。
私はダミー携帯の基盤に、あらかじめ自己防衛用の極小プログラムを埋め込んでいた。万が一、紛失あるいは強奪された場合、登録された特定のアドレスから暗号化されたパケットを送信することで、端末は強制的な超高周波の不可視ビーム、すなわちマナーモードをも貫通する超指向性アラームを発鳴する設計になっている。送信ボタンを押す。刹那、夜の闇を切り裂くように、極めて微小な、しかし私の鼓膜には狂おしいほど鮮明な電子の鳴き声が響いた。音がした方向は、ゴミ集積所ではない。その遥か上方。私は弾かれたように顔を上げた。見上げるは、あの地上三階の窓。先ほど私が躊躇なくダイブした、あの彼女の部屋のベランダのサッシの隙間だ。落下するその一瞬の慣性によって、ジャケットのポケットから滑り落ちた端末は、重力加速度に逆らうようにして、あの部屋の防護ネットの隅に引っかかっていたのだ。「そこか……!」私は流れるような動作で、再びマンションの非常階段へと滑り込んだ。もはや、そこに彼氏がいようが、世界がひっくり返ろうが関係ない。私は一分の無駄もない動線で三階へと駆け上がり、無音でベランダの手すりを乗り越え、闇のなかからそのプラスチックの塊を力任せに奪い取った。画面が淡く発光する。バッテリー残量:二%。 最高司令官:定数Bへの偽装ログ送信状態:継続中。
「……チェックイン、完了」
液晶の光に照らされた私の顔には、泥と汗、そして割れた爪からの血が滲んでいた。間一髪、世界の崩壊は防がれた。防壁は破られず、不審感の出力結果は、奇跡的に〇・〇〇%のまま、再び絶対的な零へと収束した。私は、ネイビーの作業着の汚れを払い、血を拭い、再び知的で平凡な准教授の仮面を完璧に接着し直して、夜の街へと歩き出した。翌朝。我が家の絶対的な本拠地:定数Bで、私はいつも通り、仕立ての良いスーツに身を包み、妻の作ったトーストを口に運んでいた。「あなた、昨日の出張、本当にお疲れ様。なんだか少し、指先を怪我しているみたいだけど?」妻が、私の絆創膏が貼られた指先に、濁りのない視線を向ける。その瞳には、相変わらず猜疑心など一分子も含まれていない。「ああ、学会の資料室で、少し古い文献の角で擦ってしまってね。大したことはないよ」私は至高のポーカーフェイスで、完璧な嘘を、最も美しい声調で返した。「そう? ならいいんだけど。……あ、そういえばね」妻は楽しそうに笑いながら、コーヒーをカップに注ぐ。「先週感じていたあの変な胸騒ぎ、今朝になったらね、綺麗に消えていたの。本当に不思議ねえ。やっぱり、私の気のせいだったみたい」その瞬間、私はコーヒーカップを口元で静かに静止させた。彼女の勘が消えたタイミング。それは、私が昨夜、あのダミー携帯を泥泥になって奪い返し、システムを完全に工場出荷状態へと復旧させた、まさにその瞬間と完全に一致していた。私は微笑みを崩さないまま、喉の奥で冷たい固形物を飲み込んだ。勝ったのは、私だ。プロフェッショナルな女たちのハッキングを退け、物理的なバグをも力技でねじ伏せ、私の隠蔽無双はついにノーペナルティで完全勝利を収めた。だが、私の脳内コンピューターは、今や一つの恐るべき結論を導き出していた。私の愛する妻は、私の浮気を疑ってなどいない。しかし、彼女の感覚という名の不確定性ハイパー変数は、私が組んだデジタルな虚構の全てを、リアルタイムで正確にハッキングし続けている。私は、完璧な数式のなかに、彼女という名の神を飼っているのだ。
「美味しいコーヒーだね、いつもありがとう」
私は小さく呟き、ネクタイの結び目をなぞった。この世の全てが計算可能な数式であるならば、私はこれからも、彼女という名の絶対的な定理の前に、世界で最も美しく、最も冷徹な嘘を記述し続けるだけだ。スタイリッシュ・クズによる、絶対に負けられない隠蔽無双。 その数式は、今度こそ完全に、そして永遠に閉じられた。




