第九章 防壁の欠落、あるいは狂気なる排他制御
完璧な数式にも、物理的なハードウェアの限界という脆弱性が常に付きまとう。調香師の鼻を欺き、廃棄物処理業の鉄の刃を虚数化で退け、私の隠蔽無双は完成された美の極みに達していた。不審感の出力結果は、常に、絶対的な〇・〇〇%。その数字こそが、私の世界の調和を担保する絶対の法則だった。だが、その夜、コインパーキングで清掃キットを片付け、いつものようにポケットに手を伸ばした瞬間、私の脳内コンピューターは、未だかつてない致命的な例外処理を検知した。
「ない」
あるべき場所に、あるべき質量が存在しない。ジャケットの左内ポケット。そこに格納されているはずの、もう一台のスマートフォン。最高司令官:定数Bに向けて「地方の学会会場で真面目に講義を聴いている模範的な夫」の位置情報を健気に偽装発信し続けている、我が世界のコアが、消失していた。
「……嘘だろ」
私の口から、准教授としての品位も、数学者としての静謐さも、一瞬で剥ぎ取られた。喉の奥からせり上がってきたのは、乾いた、獣のような掠れた声だった。心拍数が、私の設計した安全圏を遥かに超えて、一二〇、一五〇、一八〇へと跳ね上がる。 網膜の裏で起動していた鮮やかな緑色のフローチャートが、爆発的なノイズとともに真っ赤な警告色へと反転し、粉々に砕け散っていく。あのダミー携帯が他人の手に渡り、画面を開かれれば、そこにある「自動生成された日常」の裏側に隠された、おぞましい数の女たちとの通信ログがすべて白日の下に晒される。あるいは、バッテリーが切れて位置情報の更新が途絶えた瞬間、本拠地:定数Bの防衛センサーが鳴り響き、私の人生は一秒で破滅へと向かう。
「どこだ、どこで落とした……!」
私はパッキングされたバックパックを乱暴に床に投げ捨て、車内のシートを文字通り引き剥がすような勢いで探し回った。LEDの最高光量に照らされた空間で、あれほど入念にデバッグした美しい車内が、私の血走った眼と、狂気的な手の動きによって一瞬で蹂躙されていく。ない。ここにはない。ならば、あのガレージか。あるいは、あのゴミ集積所か。私はネクタイを毟り取り、スタイリッシュなネイビーの作業着のまま、夜の街へと飛び出した。
かつて秒速の全裸脱出を華麗に決めたあのマンションの闇を、私は今、全裸よりも無様な形相で、泥臭く這いずり回っている。ダストボックスの裏、プラスチックゴミの山に素手を突っ込み、生ゴミの悪臭も、泥水の汚れも顧みず、ただ狂ったように地面を掻き毟る。
「ここに、愛や情緒はない。あるのは数式だ」
心の中でその口癖を叫ぶが、今の私にあるのは、数式などという高尚なものでは断じてなかった。ただの、破滅を恐れるオスの、剥き出しの恐怖と執着という名の、醜悪なノイズだけだった。指の爪が割れ、血が滲む。街灯の光に照らされた私の背中は、もはやノーペナルティの証明などではなかった。世界をハッキングし、女たちの専門スキルを嘲笑ってきた天才の仮面は完全に剥がれ落ち、そこには、ただ一台の機械を求めて夜の底を彷徨う、一人の惨めな中年男性の姿があるだけだった。深夜の静寂のなか、私は血の混じった荒い呼吸を繰り返しながら、暗闇の地面を睨みつけ続けた。 私の完璧なアルゴリズムが、物理的な紛失という、最も原始的なバグによって完全に崩壊しようとしていた。




