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最終章 緑の虚数、あるいは完全無傷なるヒーローの失脚

 勝ったのは、私だ。あらゆる変数は駆逐され、不審感の出力結果は絶対的な零へと収束した。そう、確信していた。私は温かいコーヒーをゆっくりと飲み干し、至高のポーカーフェイスとともに立ち上がった。「今日は私が洗い物をしよう」「あら、珍しい。じゃあ、ジャケットは私が預かるわね」妻は嬉しそうに微笑み、私の肩からネイビーのジャケットを滑り出させた。そのあまりにも自然な日常の動線。私はキッチンに立ち、蛇口をひねってぬるま湯で泡を立て始める。その背後で、衣服の擦れる音とともに、破滅の足音が響いた。「あら? これ何かしら」心臓が、一瞬にして凍結する。 網膜の裏のフローチャートが、音を立てて消滅した。 ジャケットの内ポケット昨夜、血眼になって奪い返した、あのダミー携帯のプラスチックの質量を、最高司令官の手が正確に捕捉していた。「これ、あなたの携帯じゃないわよね?」背中を冷たい汗が伝う。水流の音だけが、やけに大きくリフレインする。私の脳内コンピューターは、完全にフリーズしていた。いかなる言い訳も、いかなるアルゴリズムも、この至近距離での物質的証拠の露呈を想定していなかった。



「そ、それは……」



 准教授の喉が、無様に乾いた音を立てる。終わりだ。数式は崩壊した。ペナルティの鉄槌が下る。「あ、分かったわ。大学から専用の携帯を支給されたのね! ほんと、あなたの大学って対応が時代遅れよね〜。今時二台持ちなんて」妻はクスクスと笑いながら、その致命的な爆弾をリビングの棚へと何気なく置いた。「……ああ。そう、なんだ」私は、辛うじてそれだけの音節を絞り出した。心拍数がゆっくりと平時に戻っていく。だが、私の精神に訪れたのは、安堵では断じてなかった。皿を洗いながら、私は猛烈な敗北感と、己の無力さに打ちのめされていた。私はデータと論理を極め、完璧な隠蔽を記述してきた。しかし、妻の無垢なまでの信頼という圧倒的な感性の前には、私のすべての知略、すべての防壁など、ただの子供の火遊びに過ぎなかったのだ。彼女が信じると規定した世界において、私の嘘は自動的に正しい事実へと書き換えられてしまう。私の論理と行動は、彼女の純粋な世界観の前で、完全に無力化されていた。



 その夜、私は一人、喧騒から隔絶されたオーセンティック・バーの片隅にいた。手元には、一杯のカクテル。青いリキュールと、黄色のジュースが、バーテンダーの精緻なビルドによって完璧に混ざり合い、グラスの中で美しい平穏を保っている緑色のカクテルだ。青を愛する妻。黄色を愛する彼女たち。二つの相反する原色が混ざり合い、社会的に模範的な夫という偽りの平穏を演じる私そのものの色。「私は、緑を愛した」私は小さく呟いた。グラスの淵に添えられた、鮮やかな黄色のレモンピールを、割れた爪の残る指先で静かに弄ぶ。そして、自嘲気味な、しかしどこまでも冷徹でスタイリッシュな笑みを浮かべ、その黄色い皮を、緑の液体へと容赦なく投げ捨てた。



「……誰も私に、イエローカードはあげられない」



 私は無傷だ。誰にも裁かれず、誰にもバグを暴かれていない。完璧なノーペナルティ・ルートを完走した。しかし、その胸の奥を満たしているのは、勝利の美酒などではなかった。底知れない、冷たい虚無の深淵。耳の裏に、昨夜の狂気の残骸である天然ノネナールのかすかな匂いを残したまま、無傷のヒーローは、静かにその緑色の虚数を飲み干した。





【エピソード一 完】


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