昔話 少年と騎士団
その翌日から、少年モノの地獄の日々が始まった。
最初に叩き起こされたのは、まだ夜も明けきらない時間だった。
「立て」
短い声。
目を開けるより早く、蹴りが飛んできた。
息が詰まる。
石の床に転がりながら咳き込むモノを、男――オゼロ・クロスは無言で見下ろしていた。
「外だ」
理由の説明はない。
モノは歯を食いしばりながら立ち上がる。
逃げようとは思わなかった。
奴隷商の檻よりは、まだ外の空気があるだけマシだったからだ。
外は冷えていた。
夜露が草を濡らし、空はまだ灰色だった。
剣が投げられる。
足元に突き刺さった。
重い。
子供の腕では持ち上げるだけで精一杯だった。
「振れ」
「……は?」
次の瞬間。
木剣が横から叩き込まれた。
ゴッ!
肩に激痛が走る。
地面に転がる。
「構えもしない奴は死ぬ」
淡々とした声だった。
怒っていない。苛立ちもない。
ただ事実を告げているだけだった。
「振れ」
モノは震える腕で剣を持ち上げた。
振る。
遅い。
叩き落とされる。
もう一度。
叩き落とされる。
もう一度。
倒れる。
立たされる。
振る。
倒れる。
振る。
吐く。
振る。
手の皮が裂けた。
血で柄が滑る。
それでも止まらない。
止まれば殴られるからではない。
――見られていたからだ。
オゼロは一度も褒めなかった。
だが、一度も「やめろ」とも言わなかった。
太陽が昇る頃には、腕が上がらなくなっていた。
剣が手から落ちる。
「終わりか」
その言葉に、胸の奥が燃えた。
モノは叫びながら剣を拾う。
振る。
空振り。
転ぶ。
それでも振る。
初めて。
オゼロの木剣が止まった。
わずかに。
ほんの一瞬だけ。
「……そうか」
呟きだった。
その日の訓練は、日没まで続いた。
食事は硬いパン一つ。
水だけ。
休憩はない。
眠れば叩き起こされる。
走らされ、
殴られ、
剣を振らされ、
倒れ、
吐き、
また立たされる。
三日目。
指の感覚が消えた。
五日目。
痛みを感じなくなった。
七日目。
殴られても転ばなくなった。
十日目。
モノは気づいた。
――殴られる回数が減っている。
理由は分からない。
だが、ある夜。
焚き火の向こうで、オゼロが初めて言った。
「死なないな」
それは称賛ではなかった。
確認だった。
モノは睨み返す。
「死んでたまるか」
沈黙。
火が爆ぜる。
オゼロは視線を外し、呟いた。
「そうでなければ困る」
「俺が買ったのはガラクタではないと証明してみせろ」
*
それからの一年間、モノの世界は訓練だけになった。
朝という概念はなかった。
夜もなかった。
眠っていようが、食事中だろうが関係ない。
「立て」
その一言で始まる。
走る。
倒れる。
立つ。
振る。
斬る。
避ける。
殴られる。
繰り返し。
最初の一ヶ月で、モノは何度も気絶した。
二ヶ月目には気絶しなくなった。
三ヶ月目には、倒れる前に受け身を取るようになった。
半年後。
オゼロはもう説明をしなくなっていた。
剣が来る。
槍が来る。
石が飛ぶ。
矢が飛ぶ。
考える前に身体が動かなければ死ぬ。
それだけだった。
訓練相手は人間だけではない。
飢えた狼。
拘束された魔物。
時には――処刑予定の罪人。
「殺せ」
初めて言われた時、モノは動かなかった。
罪人は泣いていた。
命乞いをしていた。
モノは剣を握ったまま立ち尽くす。
次の瞬間。
背中に衝撃。
オゼロの蹴りだった。
地面に叩き伏せられる。
「躊躇うな」
冷たい声。
「躊躇いは死ぬ理由になる」
「……でも」
言いかけた瞬間。
剣が喉元に突きつけられた。
オゼロの剣だった。
「次に迷えば、お前を殺す」
感情はなかった。
脅しでもない。
事実だった。
モノは理解した。
ここでは――
優しさは欠陥だ。
剣を振る。
血が飛ぶ。
罪人は倒れた。
吐いた。
その日の訓練は終わらなかった。
翌日も。
その翌日も。
やがて。
吐かなくなった。
一年後。
少年の身体は別物になっていた。
痩せていた体は引き締まり、
傷だらけの皮膚は硬くなり、
視線だけが鋭くなった。
奴隷だった頃の怯えは消えていた。
代わりに残ったのは――敵を見る眼。
その日。
オゼロは初めてモノに新しい服を渡した。
粗末だが、軍装だった。
「着ろ」
モノは眉をひそめる。
「……なんだこれ」
「今日から騎士団だ」
あまりにも軽く言った。
「は?」
「実戦に出す」
理解が追いつかない。
まだ子供だった。
だがオゼロは続ける。
「訓練は終わりだ」
そして。
わずかに視線を落とし、評価するように言った。
「壊れなかった」
それが、一年間で唯一の合格だった。
王都ハイト。
勇者直属騎士団。
平均年齢二十を超える戦場帰りの兵士たちの中へ、十二歳の少年モノ・クロスは放り込まれた。
歓迎はなかった。
嘲笑だけがあった。
「ガキ?」
「冗談だろ」
「勇者様の拾い物か?」
その夜。
最年少の新兵は、古参騎士三人を訓練場で叩き伏せた。
そして初めて。
騎士団が静まり返った。
遠くからそれを見ていたオゼロは、何も言わず立ち去った。
その日から――
騎士団がモノの居場所になった。




