昔話 奴隷少年と先代勇者
『どこから話そうか……そうだな、あれは……』
モノは滔々と語り始めた。
『俺がまだ勇者になる前――奴隷だった頃の話からだな』
「え!? モノも奴隷だったの!?」
『ああ。そういえば言ったことなかったな。百五十年以上前の話だ。信じられないかもしれないが、その頃はここも砂漠なんかじゃなかった』
「そうなの?」
『緑の草原が広がっていてな。俺はハイト王国の戦争孤児だったんだ』
モノは懐かしそうに目を細める。
「ハイト王国?」
『……そうだったな。ハイト王国は滅びたんだった。ミイナが知らなくても無理はないか』
わずかに間を置き、モノは続けた。
『……俺の物語は、奴隷だった俺が先代の勇者に出逢ったところから始まったんだ』
そこで言葉が途切れる。
夜風が吹いた。
王都の灯りを空色の瞳に映しながら、モノは再び語り始めた。
*
「なんだよ、クソ猫。あっちいけよ」
少年は檻の中から、追い払うように声を上げた。
ここ最近、毎日のように姿を見せる猫だった。
縞模様の焦茶色の毛並み。
緑色の眼。
鉄格子の外――日差しの落ちる場所に、ちょこんと座っている。
鳴きもしない。
近づきもしない。
ただ、じっとこちらを見ていた。
その視線が気に入らなかった。
少年は足元に転がっていた小石を拾い上げる。
「あっちいけ! 目と鼻が痒くなるんだよ!」
勢いよく投げつけた。
石は地面に当たり、乾いた音を立てる。
猫はびくりと身を震わせ――そのまま身を翻し、どこかへ走り去っていった。
檻の外には、再び静けさだけが残る。
少年は鼻を擦り、舌打ちした。
「……もう来るんじゃねえぞ」
一人きりの檻の中で、その言葉だけが虚しく落ちた。
「うるせえぞ! クソガキ!」
奴隷商の罵声が飛ぶ。
次の瞬間、木の棒が檻越しに振り下ろされた。
バキッ!
頭に直撃する。
額から血が流れ落ちた。
少年は奴隷商を睨みつける。
「反抗的な眼をしてんじゃねえ!」
さらに棒が振るわれる。
バキッ!
バキッ!
バキッ!
何度も殴られる。
少年は蹲り、身を丸めて耐えた。
(この野郎……絶対に許さねぇ。覚えていやがれ)
胸の奥で呟く。
そして、なおも殺意を宿した眼で奴隷商を睨み返した。
その時――
牢の扉が開いた。
身なりの良い奴隷商が入ってくる。
そして、その後ろにもう一人。
男が立っていた。
重たい靴音が牢内に響く。
乾いた石床を踏む音。
ゆっくりと。
焦る様子もなく。
奴隷商が慌てて姿勢を正した。
「へ、へい旦那。このガキです。少し気性が荒いですが体は丈夫で――」
言葉は途中で止まった。
男が手を上げただけで、黙った。
男は檻の前に立つ。
白髪だった。
手入れもされていない無造作な髪。
無精髭。
深く刻まれた皺。
旅埃を被った外套。
だが――背筋だけが異様に真っ直ぐだった。
老いているはずなのに、立っているだけで空気が張り詰める。
少年は顔を上げた。
血が頬を伝う。
男は眉一つ動かさない。
ただ――眼だけが動いた。
値踏みするように。
「……何歳だ」
低い声。
「正確には不明でして。戦争孤児です。十か十一かと」
男は頷かない。
ただ見続ける。
沈黙。
耐えきれず、少年が吐き捨てた。
「……なんだよ」
奴隷商が青ざめる。
だが男が再び手を上げた。
静止。
そして初めて少年へ向けて言う。
「殴られても泣かないな」
感想だった。
少年は睨み返す。
「泣いたら止めんのかよ」
男の口元が、わずかに動いた。
「止めん」
即答。
「泣こうが、死のうがな」
少年は言葉を失う。
この男は違う。
同情も、憐れみもない。
だが――怖くもない。
男は一歩近づいた。
鉄格子越しに眼を覗き込む。
その瞬間。
少年の背筋に寒気が走った。
見透かされた。
「……殺したいか」
唐突な問い。
「殴った奴を」
数秒。
少年は迷わない。
「ああ」
男は頷いた。
そして奴隷商へ向き直る。
「これを買う」
「は?」
金貨袋が投げられた。
鈍い音。
「……足りるな」
鍵が開く。
錆びた扉が軋んだ。
少年は動かない。
「……なんでだよ」
男は少し考え――言った。
「壊れにくそうだ」
それだけだった。
「名前はあるか」
「……ねえよ」
男は背を向ける。
「来い」
数歩進み、止まる。
振り返らずに言った。
「今日からお前は――モノ。モノ・クロスだ」
少年は動けなかった。
理由は分からない。
だが。
その日初めて。
自分が“物”ではなくなった気がした。
これが――
少年を拾った先代勇者、
オゼロ・クロスとの出会いだった。




