契約と悪魔
闇だった。
上下も、前後もない。
水の底へ沈んでいるような感覚。
(……ここは……)
足元がない。
身体も曖昧だ。
ただ――沈んでいく。
どこまでも。
どこまでも。
「楽になれよ」
背後から声がした。
振り向く必要はなかった。
それが誰なのか、わかっていたからだ。
「もう頑張らなくていい」
影が、優しく肩に触れる。
デビルヘッドだった。
「こんなとこに連れてきて、どういうつもり?」
ミイナは振り向き、デビルヘッドを睨みつける。
「そんなに怖い顔するんじゃねえよ。俺にはお前の心の中がよく見えるぜ」
「適当なこと言わないで!」
ミイナは腰のショートソードに手をかけようとする。
――ない。
ショートソードは、どこにも見当たらなかった。
「無駄だぜ。ここはお前の精神世界。野暮なものは持ち込めない」
「くっ!」
今度は魔術で水を生み出そうとする。
だが、出ない。
翳した手から、何かが出現することはなかった。
「だから野暮はなしだって言ってるだろ?」
「腹を割って話そうぜ」
デビルヘッドは、その場に腰を下ろした。
「……あなたと話すことなんてない。早くここから出して」
ミイナはさらに冷たい目でデビルヘッドを睨みつける。
「そうか? 俺なら、お前の願いを叶えてやれるぞ?」
「……何を」
「お前、旅が終わることを恐れているな?」
*
ミイナは何も返せなかった。
事実だったからだ。
モノと出会い、旅が始まった。
ペルシャに会い、クロスケ、ハイランド、フィリアと仲間を増やした。
嬉しかった。
冒険するたび、仲間が増えるたびに、ミイナの世界は広がっていった。
楽しかったのだ。
それでも――旅の終わりはやってくる。
もしも、みんなの呪いが解けて、魔王を倒してしまったら?
その先は?
旅は終わる。
みんなはどうする?
私はどうなる?
ミイナは考えないようにしていた。
それが怖かったからだ。
そして、それをデビルヘッドは的確に言い当てた。
「……それは………」
デビルヘッドは笑わない。
「わかるぜ。お前は元は奴隷だったんだろ。人間の醜さも十分見てきたはずだ。世界を呪っても不思議じゃない」
「……そんなこと……」
「いや、いいんだ。呪ってもいい。呪いなんてもんは、どんな人間でも持ってるものさ」
「だからなぁ。俺と取引しないか?」
「……取引?」
「ああ。俺が強いのはわかるだろ? このままだと、お前ら皆殺しだ。でもな、お前が継承を諦め、アイツらの呪いを解かないと言うなら見逃してやる」
「二度とお前らに関わらないし、お互い手出しもしない。お前は、ずっと旅を続けられる」
「どうだ? 悪くないだろ?」
「………」
ミイナは返答できなかった。
頭では、断るべきだとわかっている。
王都ペンタグラムでは、第三王子サンディがこの悪魔の契約に乗り、結果として死にかけている。
絶対に断るべきなのだ。
それなのに――
どうしても拒絶の言葉を発することができない。
「なぁ、お前。本当はシャクナ族じゃないんだろ? 何の責任もないじゃねえか。そのニイナって奴が死んだ時に、全部終わったのさ」
「お前は好きに生きていい。大切な仲間と、大好きな冒険を続けるんだ」
「誰かの代わりの人生なんて、まっぴらごめんだろ? ニイナのことも、エスナのことも、いっそ魔王のことも忘れちまえよ」
「………」
ミイナは理解した。
私は迷っている。
この契約に――心惹かれている。
呪いを解くのを諦めたらどうなる?
黒猫のモノ。
案山子のクロスケ。
魔物のハイランド。
アンデッドのフィリア。
多少の不便はあるかもしれない。
でも、魔王と戦わなくて済む。
みんな傷つかずに生きていける。
みんなで旅して、笑って、ご飯を食べて。
まだ見たことのない景色や場所に出会えるかもしれない。
何より――
大好きなみんなと、ずっと一緒にいられるかもしれない。
でも、それでも……。
ミイナの左手の薬指が熱を帯びた。
指輪だ。
シャクナ族の指輪。
ニイナから託された指輪。
託された時、言われた。
これは御守りだと。
あなたが持っていて、と。
「……できない」
ミイナは呟いていた。
「あ?」
デビルヘッドの口調が、不穏な音を孕む。
「私はニイナを、エスナさんを……託されたものを忘れることなんてできない」
「……それで? 旅が終わったあと、一人きりになるかもしれないのにか?」
「うん。それでもいい。だって、このまま旅を続けても後悔する。後になって思い出した時、託されたものを失ったことを後悔する」
「だから私は、あなたと契約しない! みんなと一緒に闘う!」
「……バカだな。皆殺しコース決定だ」
デビルヘッドの手が、ミイナの首へ伸びる。
――その時。
シャクナ族の指輪が輝いた。
辺り一帯の闇を祓う。
ミイナは急速に上へ引き上げられる感覚に襲われた。
気づくと――地上だった。
デビルヘッドは眩しさに当てられたのか、後方へ飛び退いている。
温かな光だった。
指輪から放たれた光はやがて広がり、里全体を覆い尽くす。
「このクソガキがぁ!」
激昂するデビルヘッド。
三叉槍がミイナへ迫る。
――だが。
その槍を、横から素手で受け止める男がいた。
漆黒の髪。
そこに白い×模様の髪が混じっている。
見慣れた空色の瞳。
顔立ちは幼い。
青年というより、少年を思わせる風貌。
「ミイナ。ありがとう」
少年は言った。
ミイナは理解した。
――これがモノなのだ。
勇者モノ・クロスの呪いが、解けたのだと。




