結界と解呪の巫女
里の奥へ進むにつれ、建物の密度が徐々に下がっていく。
細い石畳の道がゆるやかに上り坂となり、やがて開けた空間へと出た。
そこにあったのは――
ひときわ大きな、球形の建物だった。
真っ白な石で作られた半球状の外殻。
継ぎ目はほとんど見えず、ひとつの塊を削り出したかのようだ。
表面には、浅く刻まれた紋様が無数に走っている。
蔦にも見え、蛇にも見え、文字にも見える。
どれもがゆっくりと絡み合いながら、建物の中心へ向かって収束していた。
出入口はひとつだけ。
背の高いアーチ状の開口部で、扉は存在しない。
内部から、淡い白光が漏れている。
近づくにつれ、空気が変わる。
音が遠ざかる。
風の気配が消える。
まるで、この場所だけが外界から切り離されているかのようだった。
「……ここが」
ヴェレーノが静かに言う。
「エスナ様のいらっしゃる場所です」
*
「この先は神聖なる場所です。私は入ることが出来ません。皆様方だけで、入室をお願いします」
「はい。でも、入って何をすれば?」
ミイナが疑問を投げかける。
「シャクナ族の指輪はお持ちですね? それならば大丈夫です。エスナ様に触れる。それだけで、長きに渡る眠りから目覚めさせることが出来るはずです」
「……わかりました。やってみます」
ミイナは力強く頷くと、仲間と共に建物へ入っていった。
建物の内部は広かった。
天井も高く、ハイランドですら背を屈める必要がないほどだ。
その代わり、室内には何もない。
ただ――
中央に、楕円形の透明な球体が鎮座していた。
水晶にも、ガラスにも見える。
だが、そのどちらとも違う、曇りのない透明さ。
その内部に、ひとりの女性が浮かぶように眠っていた。
膝を抱えた姿勢。
純白の長衣に包まれ、静かに目を閉じている。
年若く見える顔立ち。
二十代後半ほどにも見える。
だが、その表情には奇妙な静けさがあった。
髪は銀に近い白。
ゆるやかに身体の周囲へ広がっている。
呼吸はある。
だが浅く、ほとんど動きがない。
長い睫毛の下。
閉じられた瞼の奥に、重い時間が沈んでいるようだった。
祈るように膝を抱えたまま、永い眠りに落ちている。
――それが、エスナだった。
ミイナは、ゆっくりと球体へ歩み寄った。
近づくにつれ、空気が重くなる。
だが、不思議と恐怖はなかった。
「これで……起きるんだよね」
誰にともなく呟き、そっと手を伸ばす。
透明な球体に、指先が触れた。
冷たい。
石よりも冷たく、氷よりも硬い。
その瞬間――
ピシッ。
小さな音。
球体の内側から、細い亀裂が走った。
「え?」
ミイナが目を見開く。
ピキ……ピキピキ……。
亀裂は蜘蛛の巣のように広がっていく。
「ミイナ、離れろ!」
ペルシャの声。
だが、遅い。
パリン――
音は思いのほか静かだった。
透明な殻は、内側から崩れ落ちるように砕け散る。
破片は床に落ちることなく、白い光に溶けて消えた。
そして。
中にいた女の身体が、ゆっくりと前へ傾く。
ミイナは反射的に、その身体を受け止めた。
軽い。
信じられないほど軽い。
その瞬間。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
淡い灰色の瞳。
焦点は真っ直ぐにミイナを捉えていた。
眠りから覚めたばかりの目ではない。
最初から、すべてを知っていたかのような目だった。
「……来ましたか」
声はかすれていない。
静かで、はっきりしている。
「後継者キアリ」
*
その言葉を聞いた瞬間、ミイナの瞳は罪悪感で揺れた。
「……ごめんなさい。私はニイナ……いえ、キアリさんではありません。ミイナといいます」
エスナの視線が、わずかに細まる。
「何を言っているのです? その指輪は確かにキアリに託した物。純粋な後継者の証」
「……ごめんなさい。この指輪も、キアリさんから貰いました。私は、ミイナです」
沈黙。
「……ミイナ。それでは、キアリは? キアリはどうなったのです?」
胸が痛む。
ミイナは唇を噛んだ。
そして、答える。
「……死にました」
空気が、凍る。
「……間違いないのですね?」
「はい」
エスナは目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
だが、その顔に浮かんだものは悲しみではなかった。
理解。
そして、計算。
「それで、貴方たちはキアリでもないのに、私の結界を解除した。どうしてです?」
「ヴェレーノさんに言われたからです。貴方を目覚めさせるようにと」
エスナの眉が、はっきりと動いた。
「ヴェレーノ?」
静かな声。
「……誰ですか、それは」
「え?」
ミイナは困惑する。
「白い装束の――この里の人で……」
エスナの顔色が、変わった。
「……なんという事を」
低い声。
「結界は、内側からしか解けない」
その瞬間。
バキバキッ。
鈍い破砕音。
天井に亀裂が走る。
「あ、危ない!」
ハイランドが反射的に皆を抱え込む。
ガラガラガラッ――!
石と白壁が崩れ落ちる。
祈祷場は、一瞬で瓦礫の山へと変わった。
ミイナたちを巻き込んで。
*
ミイナたちは無事だった。
ハイランドが庇ってくれたこともある。
しかし、一番大きかったのはエスナの結界だった。
全員を囲むように、薄い透明な膜が展開され、降り注ぐ瓦礫を受け止めている。
石は触れた瞬間、力を失ったかのように滑り落ちた。
粉塵がゆっくりと沈む。
やがて、音が止んだ。
白い祈祷場は、跡形もなく崩れ去っていた。
だが、ミイナたちの周囲だけが、不自然な円形に守られている。
「……た、助かりました」
ハイランドが、かすれた声で言う。
エスナは振り向かない。
片手を軽く上げたまま、外を見据えている。
「やってくれましたね」
その声に焦りはない。
ただ、事実を述べているだけだ。
ミイナは、はっとして叫んだ。
「ヴェレーノさんは!?」
崩れた瓦礫の向こう。
白い街路の上に、ひとり立っている影。
ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
足音は妙に乾いている。
コツ、コツ、と。
「ようやく、目覚めましたか」
ヴェレーノは穏やかに微笑んだままだ。
だが――
その目に、先ほどまでの柔らかさはない。
エスナが、静かに呟く。
「……この里に、ヴェレーノという者は存在しません」
空気が変わる。
白装束の裾が、音もなく黒ずむ。
肌に亀裂が走る。
笑みが横に裂ける。
骨が軋む音。
頭部の輪郭が歪み、四本の角が突き出す。
眼が、赤黒く染まる。
次の瞬間、そこに現れたのは――悪魔の顔だった。
「二十年ぶりだな、エスナ」
声が重なる。
ひとつではない。
喉の奥から、別の声が滲み出る。
「……デビルヘッド」
エスナの声は変わらない。
感情はない。
だが、結界の膜が僅かに揺れている。
ミイナは、ごくりと唾を飲み込んだ。
自分が、封印を解いた。
デビルヘッドが嗤う。
「礼を言うぞ、小娘。封印を解いてくれてな」
結界の外側で、黒い圧が膨れ上がる。
エスナが、初めてミイナを振り返った。
「ええ。まったくです」
淡々と。
「余計なことをしてくれました」
その声は冷え切っている。
ミイナは、胸の奥がきゅっと締めつけられる感覚に襲われた。
デビルヘッドとエスナが睨み合う。
静寂が、張り詰める。
そして――
空気が、戦いを予感させていた。




