霧の湖とシャクナ族の里
ミイナと仲間たちは、たてがみ山脈の麓を北に向かって歩いていた。
目的地は霧の湖だ。
実は二年前にも一度、訪れたことがある。
しかし、二年前は盃がなかった。
指輪と杖だけでは、何も起こらなかったのである。
地底ピラミッド、そして錆の町を出発してから数週間後。
一行はようやく、霧の湖に到着した。
霧の湖は、名前の通り霧が立ち込めていた。
まるで霧が音を吸い込んでいるかのように、静寂に満ちている。
「いよいよだね……」
ミイナが呟く。
『ああ。ようやく、三つ揃ったな』
モノも感慨深げに言う。
『何が起こるか、試してみるでござるよ』
クロスケは、すでに待ちきれない様子だ。
「し、慎重にお願いします。な、何が起こるか分かりませんから」
ハイランドの言葉に、ミイナは頷いた。
ミイナは左手の薬指に指輪をはめ、右手に蛇の杖を持ち、左手で盃を持つ。
そして、湖の淵へと歩み寄った。
*
最初に反応したのは盃だった。
盃から、銀色の液体が溢れ出したのだ。
ミイナは思わずたじろぐが、我慢してその場に立ち尽くすよう努めた。
盃から溢れた銀色の液体が湖に落ちると、湖面の一部が銀色に変わっていく。
それは、ゆらゆらと漂いながら、帯の形状をとった。
(橋だ)
そうミイナは思った。
次に反応したのが、蛇の杖だった。
杖が霧を吸い込み始めたのだ。
周囲の霧が、みるみるうちに薄くなり、遂にはすべての霧が晴れた。
霧が晴れた先。
対岸に、街が見えた。
白い。
街を構成しているのは、すべて白色の石造建築だった。
建物は四角ではなく、角の取れた形状が多い。
丸みを帯びた直方体、緩やかな円柱、低いドーム状の屋根。
表面は滑らかだが、完全な平面ではない。
浅く彫り込まれた幾何学模様が、壁一面に連なっている。
直線よりも曲線が多い。
窓は縦に細長いものが多く、格子はない。
扉はアーチ状で、木ではなく、同じ白い石で作られている。
建物同士の間隔は狭く、階段や緩やかなスロープで上下に繋がっている。
高低差のある地形に沿って、街が段々状に広がっているのが分かる。
遠目に見ても、朽ちている建物はない。
欠けや崩れも見当たらない。
まるで、建てられた当時の姿のまま保たれているようだった。
そして、その街へと銀の橋が続いていた。
ミイナたちは意を決して、一歩目を踏み出したのだった。
*
銀の帯の橋を渡り切る。
足裏に伝わる感触は、石と同じだった。
液体だったはずの銀は、完全に固まり、冷たい床となっている。
橋の先は、白い街だった。
白い石で組まれた建物が、湖畔から段々状に広がっている。
どれも背は低く、丸みを帯びた形をしている。
角張ったものはほとんどなく、滑らかな曲線で統一されていた。
壁には浅い彫刻。
幾何学模様のようでいて、よく見ると蔦や波、牙のような意匠が混ざっている。
窓は細長く、扉はすべてアーチ状。
装飾は控えめだが、どの建物も手入れが行き届いているように見えた。
壊れた家はない。
崩れた屋根もない。
――だが。
人影が、ひとつも見えない。
風が吹き抜ける音だけが、街路を静かに通り過ぎていく。
「……誰も、いないの?」
ミイナが小さく呟く。
『荒らされた様子はないでござるな』
クロスケが辺りを見回す。
『だが……生き物の気配もしない』
モノが耳を伏せる。
沈黙が、重く落ちる。
その時だった。
コツ……。
石畳を踏む、足音。
街の奥、白い建物の影から。
ゆっくりと、ひとりの女が姿を現した。
白い装束。
巫女のような衣。
長い布が幾重にも重なり、身体の線を曖昧にしている。
髪は淡い灰色。
腰までまっすぐに伸びている。
表情は穏やかで、微笑んでいる。
だが、どこか感情が薄い。
「……ようこそ」
澄んだ声だった。
「シャクナ族の里へ」
女は胸の前で、静かに手を重ねる。
「私は、ヴェレーノと申します」
霧の湖の奥で。
はじめて出会う、里の“人”だった。
*
「お待ちしておりました。ミイナ様」
ヴェレーノは恭しく頭を下げる。
「え? なんで私の名を?」
ミイナは驚いて尋ね返す。
「その指輪です。その指輪を通して、ずっと観ておりました。お迎えに行けず、申し訳ありません」
「い、いえ。そんな……」
ミイナは恐縮したように、顔の前で手を振った。
「この里は随分と静かですね。貴女以外の人間はいないのですか?」
ペルシャがヴェレーノに尋ねる。
「はい。私の他には、もう一人だけしかおりません」
『どうしてでござる?』
クロスケが問いかける。
「その事を説明するには、少し前から話さねばなりません」
ヴェレーノは静かに言った。
「この里は、二十年前に魔王軍幹部“デビルヘッド”によって滅ぼされているのです」
「え? 滅ぼされた……?」
「ええ。その通りです。少し、昔話にお付き合いいただけますか?」
ヴェレーノは改まって語り始めた。
ヴェレーノは、ゆっくりと視線を伏せた。
白い石畳の上に、長い影が落ちる。
「二十年前――
この霧の湖に守られていたシャクナ族の里は、外界から完全に隔絶された場所でした」
「我らは争いを好まず、呪いを扱いながらも、呪いに飲まれぬための“制御”を研究する一族でした」
ミイナは、思わず息を呑む。
呪いを、制御する。
それは、フィリアたち聖職者が目指している理想と同じだ。
「しかし、その研究こそが、魔王軍の目に留まったのです」
「魔王“ヘカトキリオス”は呪いを扱います。
我らは、魔王の天敵と認定されたのです」
ヴェレーノは、静かに続ける。
「魔王軍幹部“デビルヘッド”が、魔王軍を率いて襲撃をかけてきました」
「我らは抵抗しました。
結界も張りました。
ですが……相手が悪すぎた」
一拍、間。
「里は、壊滅しました」
重たい沈黙が落ちる。
風の音すら、聞こえない。
「子供も、大人も、戦士も、巫女も……
ほとんどが、殺されました」
ミイナは、胸の奥が冷えていくのを感じた。
ペルシャが、静かに歯を食いしばる。
「……ほとんど、ということは?」
ペルシャが問う。
ヴェレーノは、ゆっくりと顔を上げた。
「生き残りが、三人だけいたのです」
「一人は――
幼いエスナ候補の少女」
ミイナの脳裏に、ふと名前がよぎる。
キアリ。
ミイナと同じ檻にいた、ニイナのことだ。
「そして、その乳母が二人目」
「二人は、希望を繋ぐために里から逃しました」
こうして、ニイナと乳母のディエスは逃がされたのだ。
「そして、もう一人は――
この里の長。エスナ様です」
「エスナ様?
生きておられるのですか?
二十年前に襲撃を受けたのでは?」
ペルシャが問いかける。
「はい。
そして、エスナ様はこの里におられます」
ヴェレーノは、静かに言った。
「着いてきていただけますか?」
ヴェレーノはそう言うと、里の奥へ向かって歩き出した。




