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霧の湖とシャクナ族の里

ミイナと仲間たちは、たてがみ山脈の麓を北に向かって歩いていた。

目的地は霧の湖だ。

実は二年前にも一度、訪れたことがある。

しかし、二年前は盃がなかった。

指輪と杖だけでは、何も起こらなかったのである。

地底ピラミッド、そして錆の町を出発してから数週間後。

一行はようやく、霧の湖に到着した。

霧の湖は、名前の通り霧が立ち込めていた。

まるで霧が音を吸い込んでいるかのように、静寂に満ちている。

「いよいよだね……」

ミイナが呟く。

『ああ。ようやく、三つ揃ったな』

モノも感慨深げに言う。

『何が起こるか、試してみるでござるよ』

クロスケは、すでに待ちきれない様子だ。

「し、慎重にお願いします。な、何が起こるか分かりませんから」

ハイランドの言葉に、ミイナは頷いた。

ミイナは左手の薬指に指輪をはめ、右手に蛇の杖を持ち、左手で盃を持つ。

そして、湖の淵へと歩み寄った。



最初に反応したのは盃だった。

盃から、銀色の液体が溢れ出したのだ。

ミイナは思わずたじろぐが、我慢してその場に立ち尽くすよう努めた。

盃から溢れた銀色の液体が湖に落ちると、湖面の一部が銀色に変わっていく。

それは、ゆらゆらと漂いながら、帯の形状をとった。

(橋だ)

そうミイナは思った。

次に反応したのが、蛇の杖だった。

杖が霧を吸い込み始めたのだ。

周囲の霧が、みるみるうちに薄くなり、遂にはすべての霧が晴れた。

霧が晴れた先。

対岸に、街が見えた。

白い。

街を構成しているのは、すべて白色の石造建築だった。

建物は四角ではなく、角の取れた形状が多い。

丸みを帯びた直方体、緩やかな円柱、低いドーム状の屋根。

表面は滑らかだが、完全な平面ではない。

浅く彫り込まれた幾何学模様が、壁一面に連なっている。

直線よりも曲線が多い。

窓は縦に細長いものが多く、格子はない。

扉はアーチ状で、木ではなく、同じ白い石で作られている。

建物同士の間隔は狭く、階段や緩やかなスロープで上下に繋がっている。

高低差のある地形に沿って、街が段々状に広がっているのが分かる。

遠目に見ても、朽ちている建物はない。

欠けや崩れも見当たらない。

まるで、建てられた当時の姿のまま保たれているようだった。

そして、その街へと銀の橋が続いていた。

ミイナたちは意を決して、一歩目を踏み出したのだった。



銀の帯の橋を渡り切る。

足裏に伝わる感触は、石と同じだった。

液体だったはずの銀は、完全に固まり、冷たい床となっている。

橋の先は、白い街だった。

白い石で組まれた建物が、湖畔から段々状に広がっている。

どれも背は低く、丸みを帯びた形をしている。

角張ったものはほとんどなく、滑らかな曲線で統一されていた。

壁には浅い彫刻。

幾何学模様のようでいて、よく見ると蔦や波、牙のような意匠が混ざっている。

窓は細長く、扉はすべてアーチ状。

装飾は控えめだが、どの建物も手入れが行き届いているように見えた。

壊れた家はない。

崩れた屋根もない。

――だが。

人影が、ひとつも見えない。

風が吹き抜ける音だけが、街路を静かに通り過ぎていく。

「……誰も、いないの?」

ミイナが小さく呟く。

『荒らされた様子はないでござるな』

クロスケが辺りを見回す。

『だが……生き物の気配もしない』

モノが耳を伏せる。

沈黙が、重く落ちる。

その時だった。

コツ……。

石畳を踏む、足音。

街の奥、白い建物の影から。

ゆっくりと、ひとりの女が姿を現した。

白い装束。

巫女のような衣。

長い布が幾重にも重なり、身体の線を曖昧にしている。

髪は淡い灰色。

腰までまっすぐに伸びている。

表情は穏やかで、微笑んでいる。

だが、どこか感情が薄い。

「……ようこそ」

澄んだ声だった。

「シャクナ族の里へ」

女は胸の前で、静かに手を重ねる。

「私は、ヴェレーノと申します」

霧の湖の奥で。

はじめて出会う、里の“人”だった。



「お待ちしておりました。ミイナ様」

ヴェレーノは恭しく頭を下げる。

「え? なんで私の名を?」

ミイナは驚いて尋ね返す。

「その指輪です。その指輪を通して、ずっと観ておりました。お迎えに行けず、申し訳ありません」

「い、いえ。そんな……」

ミイナは恐縮したように、顔の前で手を振った。

「この里は随分と静かですね。貴女以外の人間はいないのですか?」

ペルシャがヴェレーノに尋ねる。

「はい。私の他には、もう一人だけしかおりません」

『どうしてでござる?』

クロスケが問いかける。

「その事を説明するには、少し前から話さねばなりません」

ヴェレーノは静かに言った。

「この里は、二十年前に魔王軍幹部“デビルヘッド”によって滅ぼされているのです」

「え? 滅ぼされた……?」

「ええ。その通りです。少し、昔話にお付き合いいただけますか?」

ヴェレーノは改まって語り始めた。

ヴェレーノは、ゆっくりと視線を伏せた。

白い石畳の上に、長い影が落ちる。

「二十年前――

この霧の湖に守られていたシャクナ族の里は、外界から完全に隔絶された場所でした」

「我らは争いを好まず、呪いを扱いながらも、呪いに飲まれぬための“制御”を研究する一族でした」

ミイナは、思わず息を呑む。

呪いを、制御する。

それは、フィリアたち聖職者が目指している理想と同じだ。

「しかし、その研究こそが、魔王軍の目に留まったのです」

「魔王“ヘカトキリオス”は呪いを扱います。

我らは、魔王の天敵と認定されたのです」

ヴェレーノは、静かに続ける。

「魔王軍幹部“デビルヘッド”が、魔王軍を率いて襲撃をかけてきました」

「我らは抵抗しました。

結界も張りました。

ですが……相手が悪すぎた」

一拍、間。

「里は、壊滅しました」

重たい沈黙が落ちる。

風の音すら、聞こえない。

「子供も、大人も、戦士も、巫女も……

ほとんどが、殺されました」

ミイナは、胸の奥が冷えていくのを感じた。

ペルシャが、静かに歯を食いしばる。

「……ほとんど、ということは?」

ペルシャが問う。

ヴェレーノは、ゆっくりと顔を上げた。

「生き残りが、三人だけいたのです」

「一人は――

幼いエスナ候補の少女」

ミイナの脳裏に、ふと名前がよぎる。

キアリ。

ミイナと同じ檻にいた、ニイナのことだ。

「そして、その乳母が二人目」

「二人は、希望を繋ぐために里から逃しました」

こうして、ニイナと乳母のディエスは逃がされたのだ。

「そして、もう一人は――

この里の長。エスナ様です」

「エスナ様?

生きておられるのですか?

二十年前に襲撃を受けたのでは?」

ペルシャが問いかける。

「はい。

そして、エスナ様はこの里におられます」

ヴェレーノは、静かに言った。

「着いてきていただけますか?」

ヴェレーノはそう言うと、里の奥へ向かって歩き出した。



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