番外編 昔話 魔物と魔術師
魔王の呪いによって魔物へと変えられたハイランドは、愕然とした。
最初に突きつけられたのは、その醜悪な容姿だった。
ハイランドは、自分が優れた外見を持っていることを自覚していた。
城の舞踏会では貴族の令嬢に声を掛けられるのが常であり、
聖女フィリアと街を歩けば、老若男女を問わず視線を集めた。
それを誇示するつもりはなかった。
鼻にかけていた覚えもない。
だが――
失われて初めて、その価値を思い知らされた。
灰緑色の肌。
異様に肥大した肉体。
鏡に映る“それ”は、かつての自分とは似ても似つかない。
ハイランドは、胸の奥に走る衝撃と喪失感を、どうしても否定できなかった。
さらに、魔術師として致命的だったのが――
エステラのコントロールだった。
放出も、循環も、これまでとはまるで勝手が違う。
同じ理屈で扱っているはずなのに、体が言うことを聞かない。
魔物と人間とでは、これほどまでに差があるのかと、ハイランドは途方に暮れるしかなかった。
だが、何よりも彼を混乱させたのは――
暴力的なまでの食欲だった。
“暴食トロル”。
そう名付けられるほどの魔物なのだ。
ある程度は、覚悟していたつもりだった。
だが、それは甘かった。
食欲は理性を待たない。
食物か、そうでないかも選ばない。
衝動が、波のように押し寄せる。
案山子になったクロスケは、まだ良かった。
だが――
黒猫のモノと、フィリアの肉にまで食欲が向いた瞬間、
ハイランドは心底、戦慄した。
魔王の城から脱したその時、
彼は理解した。
このままでは、いずれ必ず、
仲間を――食う。
ハイランドは、衝動を振り切るように走り出した。
叫びも、言い訳も残さず、
仲間を置き去りにして。
それ以来、
彼は誰とも会っていない。
*
最初に辿り着いたのは、砂漠だった。
昼と夜の境目が曖昧な、赤茶けた大地。
熱を溜め込んだ砂が、足裏から内臓まで焼く。
風は吹くが、涼しさはない。
ただ、乾いた砂粒を皮膚に叩きつけるだけだ。
(……ここなら、誰もいない)
そう思った。
だから選んだ。
人もいない。
動物もほとんどいない。
飢えるには最適な場所だ。
だが――
飢えは、思考を許さなかった。
腹の奥が、ひっくり返る。
内臓が、内側から爪で引き裂かれるような感覚。
胃袋が、空であることを許さない。
《食え》
声ではない。
命令でもない。
ただの本能だ。
ハイランドは砂に膝をついた。
指が、無意識に砂を掴む。
それを口に運びそうになり、寸前で止めた。
(……違う)
理性は、まだあった。
だが、薄い。
砂嵐の向こうにある蜃気楼のように、揺らいでいる。
最初に食べたのは――
魔物だった。
砂の下から這い出てきた、
巨大な甲殻を持つ、節足の獣。
毒針を構え、威嚇の音を鳴らした。
次の瞬間、
ハイランドはそれを掴んでいた。
考える前だった。
呪文もなかった。
ただ、腕が伸びた。
骨が砕ける。
甲殻が割れる。
噛んだ。
血と体液が、口腔に広がる。
鉄の味。
苦味。
砂のざらつき。
――美味い。
その瞬間、
ハイランドは心の底から恐怖した。
(……美味い?)
味覚が、壊れている。
それとも――
もう、こちら側なのか。
気づけば、
その魔物は跡形もなくなっていた。
腹は、満たされた。
ほんの一瞬だけ。
だが、次の瞬間には、
また同じ衝動が押し寄せてくる。
《足りない》
《もっと》
《生きているものを》
ハイランドは、砂に顔を伏せた。
牙が、勝手に伸びているのが分かる。
唾液が、止まらない。
(……このままでは)
理解していた。
腹が空き続ければ、
いずれ、砂漠を出る。
砂漠を出れば――
人に行き着く。
仲間に向いたあの食欲は、
偶然ではない。
必然だ。
ハイランドは、自分の腕を噛んだ。
血が出る。
だが、すぐに塞がる。
再生が、拒否を許さない。
(……死ねないのか)
砂漠の夜空には、星が出ていた。
あまりにも澄んでいて、
あまりにも無関係だった。
ハイランドは、そこで初めて理解した。
これは、罰ではない。
試練でもない。
――永続する呪いだ。
彼は砂漠を彷徨い続けた。
食い、拒み、また食い。
理性を保つたびに、
何かが削れていった。
*
その後もハイランドは砂漠を彷徨い続けた。
ここなら、大丈夫だ。
そう思った。
人がいない。
仲間もいない。
そして何より、食べるものが少ない。
暴食トロルとなった自分を、
ここなら抑え込めるかもしれない。
それは希望というより、賭けに近かった。
最初の数日は、耐えられた。
砂に潜む魔物を捕らえ、喰らった。
満腹にはならない。
だが、人を食べずに済むという事実だけが、
かろうじて理性を繋ぎ止めていた。
問題は、その先だった。
腹が減る。
ただの空腹ではない。
内側から、骨を砕くような衝動が突き上げてくる。
視界が赤く染まり、思考が途切れ、
ただ「食え」という声だけが残る。
――このままでは、いずれ誰かを喰う。
そう理解した瞬間、
ハイランドは膝をついた。
砂に手を突き、歯を噛み締める。
考えなければならなかった。
止められないなら、縛るしかない。
理性で欲望を抑えるのではない。
欲望の向かう先を、決める。
ハイランドは、砂の上に指で線を引いた。
震える指で、一つずつ、自分に言い聞かせるように言葉を刻む。
――人型のものは、食べない。
理由は単純だった。
人か魔物かを見分ける余裕など、もうない。
だから、形で切る。
二本足で立つもの。
言葉を持つもの。
それに近い姿のもの。
すべて、食べない。
次に、場所を決めた。
――この砂漠から、出ない。
外に出れば、人がいる。
仲間がいる。
誘惑がある。
ここにいれば、餓える。
だが、餓えは耐えられる。
喰ってしまうよりは、ずっと。
最後に、順序を決めた。
――喰うのは、魔物だけだ。
それも、できる限り人に近くないものから。
それが尽きたら、砂の下の生き物。
それでも足りなければ――考えない。
考えた瞬間、負ける気がした。
ルールを決め終えたとき、
ハイランドは自分が震えていることに気づいた。
怖かったのだ。
このルールが、いつか破られることを。
自分自身が、守れなくなる日が来ることを。
だから、もう一つだけ付け加えた。
――ルールを破りそうになったら、思い出せ。私は人間だ。
喰いたくなったら、砂に伏せ。
歯を食いしばり、腕を噛み、痛みに逃げろ。
そして、俺は人間だと唱え続けろ。
それでも衝動が消えなければ――
その時は、その時だ。
ハイランドは、砂漠の夜空を見上げた。
星は、人間だった頃と変わらず瞬いている。
それが、少しだけ救いだった。
――俺は、まだ人間だ。
そう言い聞かせながら、
ハイランドは砂の上に身を横たえた。
明日も、腹は減るだろう。
明日も、理性は削れるだろう。
それでも――
今日、人を喰わなかった。
それだけで、十分だと思うことにした。
ハイランドは、砂に刻んだ線を見下ろしてから、
ゆっくりと首を振った。
――違う。
砂は風で消える。
嵐が来れば、一晩で跡形もなくなる。
それでは意味がない。
忘れてはいけないのは、
世界ではなく自分だ。
ハイランドは自分の腕を見た。
灰緑色に変わった、太く醜い腕。
かつてはローブの袖に隠れていた、魔術師の手。
その腕を、強く握り締める。
「……ここだな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
ハイランドは、エステラをほんのわずかに流し込む。
制御は難しかったが、刻印を浮かび上がらせる程度なら可能だった。
皮膚の表面が、じり、と熱を帯びる。
痛みが走る。
だが、止めなかった。
一本目の文言を刻む。
――人型のものは、食べない。
意味を噛み締めながら、二本目。
――この砂漠から、出ない。
震える息を吐き、三本目。
――喰うのは、魔物だけ。
最後に、少しだけ間を置いた。
ここが、一番大事だ。
ハイランドは歯を食いしばり、腕に力を込める。
――破りそうになったら、思い出せ。私は人間だ。
刻印が完成すると、橙の光が一瞬だけ走り、すぐに沈んだ。
残ったのは、消えない文字と、鈍い痛み。
ハイランドは、その腕をじっと見つめた。
これでいい。
目を逸らそうとしても、必ず視界に入る。
眠る前も、目覚めた時も、戦う時も。
腹が減るたび、必ず思い出す。
その証拠に、今も胃の奥が軋んでいる。
食欲は消えない。
弱まることもない。
だが、腕を見るだけで、
衝動が一瞬だけ躊躇する。
それでいい。
一瞬あれば、理性は立ち上がれる。
ハイランドは砂漠の夜に腰を下ろした。
星は相変わらず冷たく、静かだった。
――俺は、化け物だ。
――だが、化け物のままで終わる気はない。
腕の刻印に触れ、ゆっくりと目を閉じる。
明日も、腹は減る。
明後日も、同じだ。
それでも。
刻んだ以上、忘れない。
忘れない限り、まだ戻れる。
そう信じて、
ハイランドは砂の上で百数十年もの夜を越したのだった。




