番外編 昔話 戦士と案山子2
夜更け。
村はすでに眠っていた。
虫の声と、遠くで鳴く獣の気配だけが、闇に溶けている。
畑の向こう、用心棒として宛がわれた小屋の中で、
九郎は一人、灯りを落として座っていた。
蝋燭は一本だけ。
火は小さく、揺れない。
戸は閉められている。
窓も、布で覆われていた。
九郎は、懐から一冊の書を取り出した。
布で幾重にも包まれた、古い書だ。
紙は黄ばみ、角は擦り切れている。
表紙には文字はない。
だが、ただの書物ではないことは、一目で分かる。
九郎はそれを膝の上に置き、しばらく動かなかった。
まるで、触れること自体を躊躇しているかのように。
やがて、静かに布をほどく。
ページを開くと、
そこにはびっしりと、異国の文字と図が記されていた。
刀の構え。
足運び。
呼吸の位置。
――そして、刃を「振らずに斬る」ための理。
九郎の指が、無意識にその文字をなぞる。
「……まだ、極めるには至らぬな」
小さく、呟いた。
書の内容は、どれも九郎にとって見覚えのあるものだった。
だが、それをこうして読むのは、久しぶりだった。
――否。
本当は、読んではならぬものだった。
九郎は、ふと顔を上げた。
戸の向こう。
気配は、ない。
それでも、耳を澄ます。
村の夜は静かだが、完全ではない。
しばらくして、九郎は再び視線を落とした。
ページの隅に、赤い印がある。
古い血の跡だ。
「……俺は強くなりたい」
誰に聞かせるでもなく、九郎は言った。
この書は、九郎の母国のものだった。
天帝に仕える剣術流派。
門外不出。
選ばれた者だけが触れることを許された、秘伝の書。
九郎は、そのすべてを捨てて、これを持ち出した。
国を出る夜。
追われる身になると分かっていても。
ページをめくる指が、わずかに止まる。
そこに描かれている構えは、
昼間、クロスケに何度も否定したものだった。
「……あやつは、まだ早い」
九郎は、書を閉じた。
だが、その言葉に、確信はなかった。
棒を振るあの小僧。
日が経つごとに成長する直向きさ。
倒れまいとする、しぶとさ。
「……見込みがあるのが、厄介よな」
九郎は、苦く笑った。
書を再び布に包み、懐へ戻す。
そして、蝋燭の火を指で消した。
闇が、小屋を満たす。
その外で――
畑の端、影の中。
誰かが、ほんの一瞬だけ、そこに立っていた気がした。
戸の外には、「果たし状」と書かれた手紙が置かれていた。
そして、何事もなかったかのように、夜は静まり返った。
九郎は、目を閉じたまま、呟く。
「……追っ手か」
それは、恐れではない。
覚悟だった。
*
夜明け前。
畑に霧がかかり、空気がまだ冷たい頃だった。
クロスケは、いつものように小屋の前で棒を握っていた。
振る前から、足の裏に力を込める。
それだけで、昨日までとは違う感覚があった。
「……よい」
背後から、九郎の声。
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
九郎は、今日は棒を持っていなかった。
腰の刀も、抜かれていない。
「今日は、振らん」
クロスケは振り返った。
「え?」
「代わりに、見る日だ」
九郎は、畑の奥――
岩場の連なる小高い丘を指さした。
「そこに岩がある。影になる場所だ」
「今日は一日、そこに隠れておれ」
「……何を?」
九郎は、しばらくクロスケを見ていた。
測るような目だった。
「俺を、だ」
クロスケは言葉を失った。
「振り方でも、構えでもない」
「立ち合いというものを、今日は見る」
「……稽古じゃないのか」
「稽古だ」
九郎は、静かに言った。
「だが、教える稽古ではない」
「――見て、覚えろ」
クロスケは、喉の奥が詰まるのを感じた。
「危ないんじゃ……」
言いかけて、止まる。
九郎の目が、いつもより深かった。
「だからだ」
短く、そう言った。
「剣は、振り方を知っても意味がない」
「人が、どんな顔で、どんな覚悟で立つか」
「それを知らねば、刃は迷う」
九郎は、岩場へと歩き出す。
「日のあるうちは、動くな」
「声も出すな」
「俺に何があっても、助けに来るな」
クロスケは思わず叫びそうになった。
「九郎!」
振り返らずに、九郎は言った。
「――生き残りたいなら、見るんだ」
それだけだった。
*
岩場は、確かに影になっていた。
草は短く、身を伏せれば姿は見えない。
クロスケは、言われた通り、そこに潜んだ。
心臓が、やけにうるさい。
しばらくして、畑の向こうから――
別の気配が現れた。
追っ手は一人だった。
しかも、小柄だ。女性か子供のように見えた。
全身を白の装衣に包み、
顔には簡素な鳥の仮面をつけている。
仮面には赤と金で縁取りがしてあった。
「来たか」
「秘伝の書は?」
高い声。
やはり女性だと、クロスケは思った。
「ここぞ」
九郎は、懐から古びた書物を取り出す。
「素直に渡すなら、苦しまないように首を刎ねてやる」
冷たい声。
クロスケの背中が冷えるのを感じた。
「断る。俺は強くなりたくて罪を冒した」
「最後まで強くあろうとするのが俺の流儀よ!」
「参られよ!」
九郎は、刀を抜刀術の構えにとる。
「そうか」
鳥の仮面の女は二刀流だった。
こちらも両手を刀の柄にかけ、抜刀術の構えをとる。
息が詰まりそうなほど、張り詰めた空気。
相手を睨み据える眼差し。
何もかもが、クロスケの鼓動に飲み込まれる。
瞬間、刀の煌めきが迸る。
当時のクロスケの目には、
何が起きたかは分からなかった。
結果として、仮面の女は無傷。
九郎は、赤黒い血を流して地面に倒れていた。
「天誅」
「そのまま苦しんで死んでいけ」
女は九郎の懐を探り、秘伝の書を手に取る。
そして、踵を返すと、二度と振り返ることなく立ち去っていった。
*
女の姿が見えなくなると、
クロスケは九郎の元に駆け寄った。
「おい! しっかりしろ! 大丈夫か!」
「……大丈夫ではないな」
九郎の胴体は、肩から腰にかけて深く斬られていた。
赤黒い血が、どくどくと流れ出している。
「今、人を呼んでくる! 頑張って耐えろ!」
「……待て」
九郎は、クロスケの腕を掴んで止める。
「どうせ、俺は助からん……」
「……それよりも、これを……お前に……託そう」
息も絶え絶えに言いながら、
九郎は刀をクロスケに差し出した。
「刀……いいのかよ……」
「……ああ。お前以外にはおらぬ……受け取ってくれ……」
クロスケは、両手でそっと刀を受け取った。
「……それから、俺の借りていた宿場の土間を掘れ……」
「そこに、秘伝書の写しがある……それを見て、稽古に励め……」
「……何だよ! 何で俺にそこまで!」
「……さあな……」
「……ただ、その刀を受け取ったからには――」
「侍らしく……いや、この国では戦士か……」
「戦士らしくあれ」
「どんな時も、お前は戦士であることを誇りに思うのだぞ……」
「……っ! はい!」
クロスケがはきと答えると、
九郎は満足そうに笑った。
「……ああ……無念だ……」
「……強く……なりたかったな……」
その言葉を最後に、九郎は事切れていた。
誰も知らない決闘の一部始終は、
クロスケの心に、深く刻まれたのだった。
*
それから、クロスケは刀一本を腰に、村を出た。
武者修行の旅だった。
各地で名を上げ、
やがて、とある王国の門を叩く。
騎士団に入り、
勇者と共に魔王を討つことになるが――
それは、また別のお話。




