指輪とさようなら
獣骨男は倒れた。
それでも――ニイナは、消えなかった。
怪物の姿のまま、その場にうずくまり、頭を抱えている。
「ニイナ……」
ミイナは駆け寄り、ニイナの前に跪いた。
「ニイナ……ごめんね……」
「こんな姿にさせて……苦しいよね……つらいよね……」
震える声で語りかけながら、ミイナは顔を上げ、フィリアを見た。
「フィリアさん……お願いします」
「ニイナを……助けてあげてください……!」
そのまま、地面に額をつける。
土下座するように、フィリアに縋りついた。
「……ミイナさん、と言うのね」
フィリアは静かに言った。
「お名前、まだ聞いていなかったわね」
そして、少しだけ声の調子を改める。
「ミイナさん。よく聞いてください」
「私は――腐っても聖女です」
「ニイナさんを“黄昏”へ送ることは出来ます」
ミイナの胸が、わずかに浮いた。
だが――
「けれど……彼女の魂は、呪われています」
「その呪いを解くことは……私には出来ません」
「……え?」
ミイナは、思わず身を乗り出した。
「それは……どういうこと、ですか……?」
「彼方の世へ行っても」
「彼女は、怪物の姿のまま過ごすことになるでしょう」
フィリアは、はっきりと告げる。
「人を恨みながら」
「憎しみを抱えたまま」
「とても……辛く、悲しいことですわ」
「そんな……!」
「なんとかならないんですか……!?」
縋るような問いに、フィリアは小さく首を振った。
「……ごめんなさい」
「私の力では……どうにも出来ないのです」
俯いたその横顔に、嘘はなかった。
ミイナは分かっていた。
フィリアが悪いわけではない。
それでも――
悔しくて。
悲しくて。
どうしようもなく、自分が情けなくて。
涙が、溢れた。
ミイナはニイナの元へ戻り、怪物と化した頭を、そっと抱き寄せる。
「ごめんね……ニイナ……」
「ごめんね……」
胸が、張り裂けそうだった。
どうして、ニイナだけが。
どうして、こんな目に遭わなければならないのか。
出来ることなら、
自分が代わってあげたいとさえ思った。
涙が止まらず、ニイナの髪を濡らしていく。
――その時だった。
じんわりと、左手の薬指が熱を帯びた。
「……え?」
ミイナは、はっとして指を見た。
指輪が、光っている。
それは――
ニイナと離れ離れになる時、託された指輪。
“盃を飲み込む蛇”の紋章。
モノが言っていた。
解呪の一族の指輪だと。
――解呪。
ミイナの中で、何かが繋がった。
(お願い……)
(指輪さん……力を貸して……!)
薬指から生まれた熱が、じわじわと広がっていく。
左手全体が、温かくなる。
不思議と、怖くはなかった。
その温もりが、手を通して、
ニイナの冷たい身体へと伝わっていく。
ニイナの身体が、淡く白く光り始めた。
「……ミイナさん……これは……!」
フィリアが、息を呑む。
光に包まれたニイナの身体は、
少しずつ、小さくなっていく。
伸びきった爪が消え、
歪んだ手足が、元の長さへ戻る。
茶色がかった、美しい金髪。
慈しむような、青い瞳。
そこにいたのは――
怪物ではない、ニイナだった。
「ニイナ……!」
ミイナは、思わず抱きついた。
アンデッドであるため、体温は感じられない。
それでも。
元の姿に戻ったことが、
ただ、嬉しくてたまらなかった。
*
「ミイナ」
ニイナが、ミイナの耳元で囁いた。
愛しむような、優しい声だった。
「ごめんね、ミイナ。
苦しませてしまったよね。
私のために泣いてくれて、ありがとう」
「いいの! ニイナ!
こっちこそごめん!
一緒にいられなくて、ごめんなさい!」
ミイナは、もう泣きじゃくっていた。
「あの時……噴水に行けなくてごめんね。
私も、ずっとあなたといるべきだった」
ニイナは微笑んで言った。
その笑みは、どこか悲しげだった。
――別れが近い。
ミイナは、はっきりとそう感じていた。
「ダメ! 行かないで!
ニイナ! ずっと一緒にいて!」
ミイナは、子供に戻ったように首を振る。
「わがまま言わないの。
ミイナは、もう私がいなくても大丈夫」
そう言ってから、ニイナは付け足すように微笑んだ。
「……でしょ?」
今度は、モノの方を見る。
「あなたが、モノさんね。
ミイナを任せるわ。幸せにしてあげてね」
モノは驚いたように目を丸くし、
少し間を置いてから、ぶっきらぼうに答えた。
「ああ。任せろ」
横でフィリアが頬に手を当てて、
「まあ!」
と声を上げたが、ミイナは見ないふりをした。
「ミイナ。あまり時間がないの。
よく聞いてね」
ニイナは口調を改める。
「うん」
ミイナは涙を拭い、しっかりと頷いた。
「モノさんとフィリアさんも、聞いてください。
私は、シャクナ族の生き残りです」
モノとフィリアが、息を呑む。
「でも……
解呪の巫女様“エスナ”には、なれなかった」
「エスナ……?」
ミイナが問い返す。
「ええ。
一族のすべての呪いを解くことができる巫女様のことを、
エスナと呼ぶの」
ニイナは、少し寂しげに続けた。
「ミイナには、その才能があるのかもしれない。
……私と違ってね」
そして、ミイナをまっすぐ見つめる。
「里を探して。
私たちが働いていたお屋敷の地下室に、
私の日記を隠してあるわ」
「火事にはなったけど……地下なら、きっと無事。
そこに、私が知っているすべてを書いてある」
「お屋敷の地下室……
うん、わかったよ、ニイナ」
「ミイナさん……ニイナさん……そろそろ……」
フィリアが、遠慮がちに声をかけた。
「そんな……
フィリアさん、もう少し……
もう少しだけ一緒にいられないの?」
「ミイナさん……それはできないわ」
フィリアは、静かに首を振る。
「未練を残した死霊が、この世に長く留まると、
やがてレイスになってしまうの」
「……そんなの、悲しすぎるでしょう?」
ミイナは、唇を噛みしめた。
「わがまま言わないの、ミイナ」
ニイナが、そっとミイナの頭を撫でる。
「私は大丈夫。
ずっと、あなたを見守っているわ」
「……始めますね。
ミイナさん、モノ。祈りを」
ミイナは胸の前で手を組み、目を閉じた。
(どうか……
ニイナが、安らかに逝けますように)
フィリアも、静かに祈りの言葉を唱え始める。
それは、歌のようでもあった。
ナディルの雨乞いで聞いた歌よりも、
ずっと儚く、囁くような旋律。
昼の痛みを 夜へほどき
夜の涙を 星へ返せ
ここに残るものは 風と記憶
あちらへ行くものは 願いと影
どうか
どうか
歩けなかった足を 休ませ
叫べなかった声を 眠らせよ
黄昏よ
この魂を 境へ導き
朝にも夜にも 属さぬまま
ただ 安らぎの中へ
――さらば
名を呼ばれし者よ
また会う日まで
光は ここに残す
ニイナの身体が、柔らかな光に包まれる。
「さようなら、ミイナ」
ニイナは、ミイナの額にそっとキスをした。
「あまり……
早く、こっちに来ちゃダメだよ」
そう言って、優しく微笑む。
それは、ミイナが今まで見た中で、
いちばん穏やかな笑顔だった。
「うん……
それじゃ、またね、ニイナ。
……さようなら」
ミイナも、無理に笑おうとして、
少しぎこちない笑顔になる。
ニイナは、そのまま朝焼けに溶けるように消えていった。
そして――
世が、明けた。




