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過去と再会

「ミイナ」

ニイナの声だった。

ミイナは、最初、何が起きたのか分からなかった。

理解が、追いつかなかった。

――そんなはずがない。

ニイナ。

奴隷時代、同じ檻に入れられていた年上の少女。

夜になると、壁に背を預け、ミイナの隣に座っていた。

寒い夜は、身を寄せ合って眠った。

姉のような存在だった。

同じ屋敷に売られ、

同じ仕事をして、

同じように耐えた。

そして――あの日。

屋敷が、烏男の襲撃を受けた。

血の匂い。

悲鳴。

混乱の中で、二人は約束した。

「オアシスの噴水で待ち合わせしよう」

ニイナは、そう言った。

必ず来るから、と。

けれど――

噴水の前で、ミイナは一人きりだった。

夜が明けても、

ニイナは、現れなかった。

生きているのか。

死んでいるのか。

それすら分からなかった。

分からないまま、ミイナは生き延びた。

――その声が、今。

「ミイナ」

もう一度、呼ばれる。

はっきりと。

間違えようもなく。

ミイナの胸が、強く跳ねた。

息が、浅くなる。

「……ニイナ?」

声は震えていた。

答えを期待している自分と、

聞きたくない自分が、同時にいた。

霧の向こうで、何かが動いた。

人の形。

だが、輪郭は曖昧で、霧の中に溶けている。

「ミイナ、どこなの?」

女の声は、穏やかだった。

昔と同じ調子で。

叱るでもなく、慰めるでもなく、

ただ――日常の延長のように。

「……探してた」

気づけば、ミイナは一歩、前に出ていた。

「ずっと……探してたの」

返事はない。

代わりに、霧の中の気配が、少しだけ近づく。

「どうしたの、ミイナ? 大丈夫?」

胸の奥が、きゅっと締めつけられた。

それは、ニイナがよく口にしていた言葉だった。

泣くのを我慢しているとき。

無理をして笑っているとき。

必ず、そう聞いてきた。

「……大丈夫」

そう答えたはずなのに、

声は、ひどく弱々しかった。

「寒いよ」

霧の中から、ささやきが落ちてくる。

「こっちにきて、ミイナ」

――その瞬間。

ミイナは、足を止めた。

おかしい。

ニイナは、何度も自分の名を呼んだ。

一度も、間違えなかった。

声も、言葉も、記憶も――

確かにニイナなのに。

それでも。

どこか、冷たい。

胸ではなく、背中の奥をなぞるような寒気。

「……ニイナ?」

確かめるように、もう一度呼ぶ。

返事はなかった。

代わりに、霧が薄れていく。

月光の下に、影が浮かび上がる。

背が高く、細い体つき。

金に近い茶色の髪。

懐かしい、青い目。

ラベンダーが揺れる。

――だが、不思議なことに。

足音だけが、なかった。

ミイナは、無意識に一歩、後ずさった。

そこに立っているのは、

間違いなく、ニイナだった。

それでも――

それが「生きている人間」ではないことだけは、

はっきりと分かってしまった。

霧が、再び濃くなる。

選択の時間は、

もう、残されていなかった。



霧の中で、ニイナは微笑んでいた。

その笑顔は、懐かしい。

ミイナが知っている、ニイナの顔だった。

「……ミイナ」

呼ばれるだけで、胸が痛む。

「ちゃんと、生きてるんだね」

その言い方に、ミイナはわずかな違和感を覚えた。

喜びでも、安堵でもない。

事実を確認するだけの声。

「……ニイナは」

言葉を選びながら、ミイナは尋ねる。

「どうして、ここに……」

ニイナは、少し首を傾げた。

「どうして、だろうね」

笑みは消えない。

でも、その目は、どこか冷えていた。

「ねえ、ミイナ。覚えてる?」

胸が、強く脈打つ。

「オアシスの噴水。待ち合わせ、したよね」

――やめて。

「……うん」

かろうじて、頷く。

「私、ずっと待ってた。夜が明けるまで」

ニイナは、淡々と続ける。

「でも、来なかった」

「ミイナだけ、来なかった」

「……っ」

違う。

来なかったのは、ニイナだ。

ミイナは、夜が明けて奴隷商に捕まるまで、

ずっと待っていた。

その時に聞かされたのだ。

屋敷に、生き残りはいないと。

「ねえ」

ニイナは、まっすぐミイナを見る。

「どうして?」

答えられるはずがなかった。

何かが、決定的に間違っている気がした。

「私ね。あの時、決めてたの」

月光の下で、ニイナの影が歪む。

「逃げよう、って言ったでしょう?

あれね――本気じゃなかった」

世界が、音を失った。

「私、逃げるつもりなんてなかったの」

「だから――」

視線が、ミイナに突き刺さる。

「囮が、欲しかった」

喉が、詰まる。

「ミイナが指輪を持って走れば、烏男はそっちを見る」

「そして私は、ご主人様と屋敷で幸せに暮らせるはずだったの」

「……でも、失敗した」

ニイナは、笑った。

「あなた、生き延びちゃったんだもの」

その瞬間。

ミイナの中で、何かが、音を立てて崩れた。

「ずるいよ」

小さく、でもはっきりと。

「私は、死んだ」

「あなたは、生きてる」

一歩、近づく。

「同じ檻にいたのに」

「同じ仕事をして」

「同じように、苦しんでたのに」

声が、低くなる。

「どうして、あなただけ?」

霧が、足元を這う。

「ねえ、ミイナ。生きるの、楽しい?」

答えられない。

「苦しいでしょう」

「怖いでしょう」

「裏切られて、利用されて」

――全部、事実だった。

「だったら」

ニイナは、手を差し出す。

「一緒に、こっちに来よう」

優しい声で。

でも、逃げ道のない言葉。

「生きてるとか、死んでるとか、もう関係ない」

「私だけ、置いていかないで」

嫉妬。

後悔。

執着。

全部、混ざった目で。

「ねえ、ミイナ。今度は、私を一人にしないで」



ニイナと再会した瞬間から、ミイナの気持ちは決まっていた。

ニイナが望むなら、その通りにしよう。

本気で、そう思った。

「うん。わかったよ、ニイナ」

ミイナは、一歩、踏み出しかける。

その時、ふと、声がよみがえった。

――それでも、お前が死んでいい理由にはならない。

初めて言葉を交わした日。

檻から出してくれた日。

ニイナを失い、世界が終わったと思ったあの時。

モノが、ミイナに向けて放った言葉。

「……ごめん、ニイナ」

気づけば、そう口にしていた。

踏み出しかけた脚を、ゆっくりと止める。

震えているのが、自分でもはっきり分かった。

霧の中で、ニイナの微笑みが、わずかに歪んだ。

「……どうして?」

声は、まだ穏やかだった。

けれど、その奥に沈んだ感情が、隠しきれていない。

「さっきは、わかったって言ったよね?」

責めるでもなく、縋るでもなく、

ただ、事実をなぞるだけの声音。

「一緒にいようって」

「もう、一人にしないでって」

霧が、二人の足元を這うように濃くなる。

冷たい気配が、肌にまとわりついた。

ミイナは唇を噛みしめる。

「……一緒には、行けない」

言葉にした瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。

「ニイナは、ここにいたいんでしょう?」

「ここで……止まっていたいんでしょう?」

ニイナの表情が、初めて大きく揺れた。

「それの、何が悪いの?」

声が、低く沈む。

「生きてる世界は、苦しいだけ」

「裏切られて、奪われて、利用されて……」

一歩、距離が詰まる。

「それでも、生きろって言うの?」

「私は、もう十分頑張った」

その言葉は、あまりにも正直だった。

「だから、ここでいいの」

「ここなら、寒くもないし」

「失うものも、もうない」

ミイナは、目を伏せる。

「……うん」

「ニイナは、悪くない」

ゆっくりと顔を上げ、胸に手を当てる。

「でも……私は、生きてる」

その一言を、確かめるように。

「苦しいし、怖いし」

「何度も、死んだほうが楽だって思った」

――それでも。

胸の奥で、もう一度、あの言葉が響く。

――それでも、お前が死んでいい理由にはならない。

「それでも」

「生きてる私が、死んでいい理由にはならない」

ニイナの目が、ゆっくりと見開かれた。

「……ずるい」

かすれた声。

「なんで、あなただけ……」

霧が、ざわりと揺れる。

「私には、もう選択肢なんてないのに」

ミイナは、一歩だけ前に出た。

だが、それ以上は近づかない。

「ニイナ」

「私……あなたが好きだよ」

一瞬、ニイナの目が揺れた。

「だから」

「一緒に、ここにはいられない」

静かに、しかしはっきりと。

「あなたを、悪霊になんてさせない」

「私には、できない」

長い沈黙が落ちた。

やがて、ニイナは小さく笑った。

「……やっぱり、そうだよね」

その笑顔は、もう懐かしいものではなかった。

「最後まで」

「ミイナは、私より前を歩くんだ」

霧が、ゆっくりとニイナの輪郭を侵食していく。

その時だった。

「使えない奴め」

低く、苛立ちを含んだ男の声。

ミイナが顔を上げると、

ラベンダー畑の中に、猫が一匹座っていた。

モノの姿をした、黒猫。

――だが。

一目で分かった。

これは、モノじゃない。

ミイナの全神経が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。


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