寝室と呼び声
「まあ! なんて楽しい夜なんでしょう!」
フィリアは両手を合わせ、頬を紅潮させた。
「私、こんなに楽しいのは百五十年ぶりでしてよ!」
相変わらず、その勢いは少しも衰えない。
「呪われてからというもの、ずっと一人ぼっちでしたの。
三十年前からはニコラスがいてくれますけれど……やはり、女の子同士の恋バナというものに、ずっと憧れていましたのよ!」
――やはり。
フィリアも、呪われているのだ。
ミイナはそう思った。
見た目では分からない。
血色は悪いが、普通の人間と何ら変わらない。
そこで、ニコラスが静かに口を挟んだ。
「お嬢様。もう随分と遅い時刻でございます」
「これ以上は、生者のお客様がお疲れになりますでしょう」
その声は丁寧だったが、どこか拗ねたようにも聞こえた。
ミイナと話すフィリアが、あまりに楽しそうだったから、
おそらく、嫉妬も混じっているのだろう。
「あ、あの!」
ミイナは慌てて声を上げた。
「私、本当はモノたちと一緒にここへ来るはずだったんです。でも、途中ではぐれてしまって……だから、みんなを探さないといけなくて……」
偶然フィリアに助けられたから良かったものの、
他の仲間たちの安否は分からない。
ミイナの胸に、不安が広がる。
「まあ!」
フィリアは目を見開き、すぐに柔らかく微笑んだ。
「なんてお優しいの。安心なさって」
「私たちも、捜索に協力しますわ」
そして、少しだけ言いよどむ。
「その代わり……」
フィリアは、もじもじと視線を落とした。
「……お友達になってくださる?」
「私、こんなに楽しかったの、初めてなんですの」
「え? は、はい……いいですよ」
ミイナは困惑しつつも、そう答えた。
――正直、この状況で断れる気がしなかった。
「まあ! やりましたわ!」
フィリアは嬉しそうに、その場でぴょんと跳ねる。
「また、たくさんお話ししましょうね!」
そして、くるりとニコラスに向き直った。
「ニコラス、すぐに捜索をお願い」
「畏まりました、お嬢様」
ニコラスは恭しく一礼すると、静かにその場を後にした。
「さ、これで安心ですわね」
フィリアは満足げに頷く。
「今日は寝室でお休みになって」
「明日には、みなさんと再会できるはずですわ」
一拍置いて、付け足す。
「……生きているとは限りませんけれど」
「えっ!?」
「冗談ですわ、冗談!」
フィリアはくすくすと笑い、手を振った。
「さ、お部屋に案内しますわ」
そう言って、彼女はスキップするように廊下を進んでいく。
ミイナはただ、その背中を追って歩くしかなかった。
*
フィリアに導かれ、ミイナは屋敷の奥へと進んだ。
廊下は静かで、足音すら上品に吸い込まれていく。
壁には淡い色の装飾が施され、金の縁取りが月光を柔らかく反射していた。
埃はなく、空気は澄んでいる。
まるで、毎日きちんと掃除されているかのようだった。
やがて、フィリアは一つの扉の前で立ち止まる。
「こちらが、今夜のお部屋ですわ」
扉が開かれた瞬間、ミイナは思わず息を呑んだ。
そこは、驚くほど豪奢な寝室だった。
部屋の中央には、天蓋付きの大きなベッド。
彫刻が施された支柱は白木と金で彩られ、垂れ下がる薄布は上質な絹だと一目で分かる。
白を基調に、淡い紫と金が控えめにあしらわれ、全体が静かな調和に包まれていた。
シーツはぴんと張られ、しわ一つない。
触れずとも、柔らかさと清潔さが伝わってくる。
枕はふっくらと整えられ、ほんのりと花の香りがした。
床には厚手の絨毯が敷かれ、足を下ろしても冷たさはない。
歩けば沈み込むような感触があり、長旅の疲れを受け止めてくれそうだった。
壁際にはドレッサーと、磨き上げられた姿見。
銀の縁取りは曇りひとつなく、鏡面は完璧に整っている。
小さなテーブルには、蓋付きの水差しとグラスが用意されていた。
どれもこれも――
「客人を迎えるため」に完璧に整えられている。
だが、そこに“誰かが暮らしている痕跡”はなかった。
使い古された跡も、置き忘れも、生活の乱れもない。
完璧すぎて、逆に人の気配がしない。
窓は大きく、厚手のカーテンが開け放たれている。
月光が部屋いっぱいに差し込み、白と金の調度を静かに照らしていた。
外には、紫の丘が広がっているはずだったが、ガラス越しには夜の闇と月しか見えない。
「お気に召しました?」
フィリアが、満足そうに尋ねる。
「はい……とても」
それは、嘘ではなかった。
これほど清潔で、これほど上品な寝室は、王侯貴族の館でもそう多くはないだろう。
「どうぞ、安心してお休みくださいな」
「ここでは、夜に何かが起こることはありませんわ」
さらりと告げて、フィリアは微笑む。
「明日には、きっと皆さまと再会できますもの」
そう言って、彼女は扉へと向かう。
「それでは、おやすみなさい」
静かに扉が閉まった。
一人きりになった寝室は、変わらず美しく、静かだった。
音もなく、風もなく、時間すら止まっているように感じられる。
ミイナはベッドに腰を下ろし、そっとシーツに手を触れた。
柔らかい。
温度も、ちょうどいい。
――あまりにも、完璧だ。
だが、疲労は正直だった。
体が、自然と横になることを求めている。
ミイナは靴を脱ぎ、ベッドに身を横たえた。
天蓋越しの月光が、視界を白く包む。
清潔で、豪奢で、何の危険も感じられない部屋で。
それでも、ここが生者のための場所ではないことだけは、はっきりと分かっていた。
ミイナは、ゆっくりと目を閉じた。
奇妙な夜は、静かに続いていく。
*
どれほど時間が経っただろうか。
ミイナは、ふと目を覚ました。
眠っていたはずなのに、意識は不自然なほどはっきりしている。
そして――何かが、聞こえた気がした。
いや、気のせいではない。
確かに、聞こえている。
ミイナの名を、呼ぶ声が。
「ミイナ! どこだ? ミイナ!」
聞き慣れた声だった。
「……モノ?」
ミイナは勢いよく上体を起こし、ベッドから飛び降りる。
裸足のまま窓辺へ駆け寄り、外を覗き込んだ。
そこにいた。
黒い毛並み。
額の×印。
間違いない。モノだ。
「ミイナ! そこは危険だ! 早く出るぞ!」
声が、切羽詰まっている。
いつもの余裕も、皮肉もない。
「え? どういうこと?」
「説明は後だ! いいから急げ! あいつはフィリアじゃない!」
その言葉に、胸が強く脈打った。
「……う、うん」
考えるより先に、体が動いていた。
ミイナは窓枠に手をかけ、慎重に外へ身を乗り出す。
ひんやりとした夜気が、肌を刺した。
月光に照らされたラベンダー畑は、怪しい雰囲気を醸し出している。
静かすぎて、不気味だった。
「こっちだ!」
モノはそう叫ぶと、屋敷から離れる方向へ一気に走り出した。
「待って! モノ、速いよ!」
ミイナも必死に後を追う。
だが、モノは振り返らない。
距離が、少しずつ開いていく。
「急げ!」
その声が、だんだん遠くなる。
――その時だった。
急に、気温が下がった気がした。
次の瞬間、白い霧が足元から立ち上った。
「……え?」
霧は一気に広がり、視界を覆っていく。
「待って! モノ!」
叫ぶが、返事はない。
モノの黒い背中が、ラベンダーの向こうに溶けるように消えた。
「モノ!」
必死に走る。
ラベンダーを掻き分ける。
だが、霧はますます濃くなり、方向感覚が奪われていく。
いつの間にか、月には雲がかかっていた。
丘は闇に沈み、霧だけが白く漂っている。
「モノ……どこなの?」
声は、霧に吸い込まれて消えた。
足を止めた瞬間、気づく。
――静かすぎる。
風もない。
虫の声もない。
自分の足音すら、遠い。
ミイナは、完全に一人だった。
その時――
「ミイナ」
背後から、声がした。
モノの声ではない。
低くも高くもない、女の声。
それは、ミイナの胸の奥に直接触れてくるような、
懐かしくて、
そして――ひどく、悲しい記憶を呼び覚ます声だった。
ミイナは、息を呑んだ。




