刻印石と旅立ち
手記が閉じられると、しばらく誰も口を開かなかった。
ミイナは、胸の奥がじんわりと冷えていくのを感じていた。
怖い、というより――
近づいてはいけないものに、確かに近づいてしまった、そんな感覚だった。
この絶世の美女というのが、聖女フィリアなのだろう。
「……」
最初に沈黙を破ったのは、モノだった。
『要するに、だ』
黒猫は前足を揃え、淡々と言う。
『ラベンダーヒルは、満月の夜に“開く”』
『屋敷も、フィリアも、その時にしか現れん』
「……ええ」
ペルシャが静かに頷く。
「そして、ニコラス・ワイトマンは――
満月の夜に、丘へ向かったまま戻らなかった」
言葉にした途端、空気が一段重くなった。
『つまりでござるな』
クロスケが、いつもの調子を抑えた声で続ける。
『満月の夜に行かねば、
フィリア殿に辿り着けぬ可能性が高い、ということでござるな』
誰も否定しなかった。
ハイランドは、しばらく黙り込んだまま拳を見つめていたが、やがて低く口を開いた。
「……し、死者は、満月に引き寄せられる」
「あ、あの世と現世の境目が、最も曖昧になる刻だ」
「れ、霊も、レイスも……
そして、おそらくはフィリアも」
その名が出た瞬間、ミイナの胸が小さく跳ねた。
「……行かなきゃ、会えないんですね」
思ったよりも、声は震えなかった。
ペルシャがミイナを見る。
「ええ。逆に言えば――」
少しだけ、言葉を選ぶ間があった。
「満月の夜以外に行くのは、
“死者だけがいる丘”に、足を踏み入れることになります」
『それはそれで、相当危険でござるな』
『向こうからは見えて、こっちからは触れられん』
『格好の獲物だ』
モノの言葉に、冗談は一切なかった。
再び、沈黙。
その沈黙を、ミイナが破った。
「……満月は、いつですか?」
全員の視線が、ペルシャに集まる。
ペルシャは、短く息を吸い、答えた。
「――十日後です」
十日。
長いようで、短い。
準備には足りないかもしれない。
だが、決断するには十分すぎる時間だった。
『ミイナ殿は、無理していかなくても大丈夫でござるよ』
クロスケが、ミイナを見る。
ミイナは、少しだけ考えてから首を振った。
「……行きます」
それは決意というより、確認に近い声だった。
「フィリアさんが、待ってるなら」
ハイランドが、ゆっくりと頷く。
「……ま、満月のラベンダーヒルは、最悪の条件です。
し、死者避けの呪いも、どこまで効くか……」
「それでも行くしかありません。ですよね? モノ」
ペルシャが確認するように問いかける。
『ああ。決まりだな』
モノが、静かに言った。
『満月の夜に、ラベンダーヒルへ向かう』
満月まで、あと十日。
移動を含めれば、明日中の出発になるだろう。
ミイナは無意識のうちに、ぎゅっと拳を握りしめていた。
*
「これが死者避けですか?」
翌朝、ミイナはハイランドから死者避けのお守りを渡された。
掌に収まる大きさの黒い石だった。
石には刻印が施されている。
「し、死者よけは、身を守るものではありません」
ハイランドは低く言った。
「し、死者から“見えなくなる”ためのものです」
「こ、刻印石は、装着者を死者と同じ波長にずらす。
だが……完全に気配を断つことは出来ません」
「だ、だから、感情を乱せば見つかります。
と、特に、声をあげてはダメです」
「声ですか?」
「え、ええ。
し、死者は目は見えませんが、気配と音に敏感です。
こ、声をあげれば、死者避けは効果を失うと思ってください」
「……わかりました」
ミイナは刻印石を、ぎゅっと握りしめた。
*
ミイナは刻印石を胸元に下げ、しばらく黙ってそれを見つめていた。
それは、奴隷時代の木札を思い出させたが、口には出さなかった。
黒い石は光を反射せず、朝の陽の下でも、どこか影のようにそこにあった。
「……これを持っていれば、大丈夫なんですよね?」
不安を隠しきれない声だった。
ハイランドは、少しだけ間を置いてから答える。
「……だ、大丈夫“ではありません”」
「せ、正確には――“猶予をもらえる”だけです」
ミイナの指が、きゅっと強く石を掴む。
「死者よけは、し、死者に気づかれないためのもの……」
「だが、死者は“気配がある”と感じた瞬間、寄ってきます」
「そ、その時に、感情を乱せば……終わりです」
『要するに、油断したら食われるってことだな』
モノが、あくび混じりに補足した。
『便利だが、信用しすぎるな。そういう道具だ』
「……はい」
ミイナは小さく頷いた。
その後、ハイランドは全員に刻印石を配っていった。
ペルシャは首飾りとして、クロスケは胸の板に、モノは首輪として忍ばせる。
「し、死者よけは、一人一つ」
「か、必ず身につけてください」
「は、外した瞬間……死者からは“生者”に見えます」
『外す理由なんてねぇよ』
クロスケが、軽く跳ねて言う。
『拙者は案山子でござるしな!』
「……あ、安心材料にはなりません」
ハイランドは即座に切り捨てた。
『えっ』
「し、死者は“生きていた痕跡”に反応します」
「か、過去に人だったものは……案山子でも、対象です」
『世知辛いでござる……』
それ以上、冗談は出なかった。
準備は簡素だった。
余計な荷物は持たない。
金属音の出る装備は布で包む。
飲み水は最低限。
魔術の使用は極力避ける。
「と、特に注意してください」
ハイランドが、最後に念を押す。
「ラベンダーヒルでは……」
「れ、霊に“話しかけられても”、返事をしてはいけません」
「……呼ばれても?」
「は、はい」
「な、名前を呼ばれても」
「し、知っている声でも」
ミイナの喉が、小さく鳴った。
ニイナの声だったら――
もし、ニイナが死んでしまっていたら……。
そう考えて、すぐに首を振る。
(……考えない)
考えた瞬間、揺らぐ。
「出発は、今すぐです」
ペルシャが静かに告げた。
「満月まで、あと十日」
「道中で、日を潰す余裕はありません」
『なら、行こう』
モノが先に歩き出す。
『九日目の昼までに、丘の外縁まで近づく』
『中に入るのは……満月の夜だ』
ミイナは、最後に一度だけ里を振り返った。
ここは、安全だった。
声を出しても、名前を呼んでも、何も起きない場所。
でも――
進まなければ、会えない。
ミイナは胸元の刻印石に、そっと触れた。
冷たい。
だが、確かにそこにある。
「……行きます」
誰にともなく、そう呟いて。
一行は、静かに蜥蜴人の里を後にした。
死者の丘――
ラベンダーヒルへ向かって。




