月光と貴女
「手記ですか?」
ミイナが首を傾げて尋ねた。
「ええ。ニコラス・ワイトマン著――『月光と貴女』と書いてあります」
ペルシャは、文字が読めないミイナに代わって、表紙を静かに音読する。
「月光と……貴女?」
「手記のタイトルですね。この手記は、今からおよそ三十年前に書かれたもののようです」
『随分と詩的な題名だな』
モノがミイナの足元で、ぐっと伸びをした。
『まぁ、聞くでござるよ。ラベンダーヒルの恐ろしさが、よく分かるでござる』
『え、ええ。み、皆さん、まずは落ち着いて話を聞きましょう』
クロスケとハイランドも、ペルシャを囲むように歩み寄ってくる。
「では……読みますよ?」
ペルシャはそう断ってから、ゆっくりと表紙をめくり、朗読を始めた。
*
――まずは、私が何者であるかから話そう。
私は、ニコラス・ワイトマン。
黄昏教に仕える聖職者にして、死霊祓いである。
生まれは、砂楼の街ハイト。
もっとも、その街は、私が五歳の時に暴龍の災害に見舞われ、壊滅した。
両親も、家も、すべてを失い、私は天涯孤独となった。
そんな私を哀れに思い、手を差し伸べてくださったのが、黄昏教の司祭――
“エルドチル”様である。
私は彼に拾われ、弟子として育てられた。
ここから、私の人生が始まったと言っても過言ではない。
黄昏教の真髄を学ぶべく、私はこの国の首都、港町ペンタズムの大学へと進学した。
魔術科を主席で――
しかも、歴代最高の成績で卒業した。
さらに……
「……ここから、経歴自慢が数ページにわたって続くニャ」
(中略)
――この度、優秀な死霊祓いである私が派遣されることとなったのは、
“紫の丘”と呼ばれる魔境であった。
紫の丘の噂は、私も以前から耳にしていた。
どうやら、アンデットやレイスといった悪しき霊どもが集う、
死者の溜まり場となっているらしい。
生者は現世に。
死者は黄昏へ。
それが、我ら黄昏教の教えであり、
同時に、私の務めである。
私は砂漠を越え、北へと進路を取った。
紫の丘へ――
その旅路を、急ぐことにしたのだった。
「……ここから、砂漠での活躍と、勇ましさ自慢が数ページ続くニャ」
(中略)
有象無象の魔物を薙ぎ倒し、砂漠を抜けようとした――
まさに、その時であった。
恐るべき巨大な魔物に、私は襲われたのだ。
砂漠喰。
世では、サンドウォームとも呼ばれる魔物である。
その姿は八目鰻に似ていた。
だが、口の内側には何重にも鋭い牙が覗き、
さらにその口を囲むように、ぞろりと眼球が並んでいる。
そして何より――
龍をも凌ぐかと思われる、巨大な体躯。
まさしく、砂漠そのものが牙を持ったかのような怪物であった。
並の魔物であれば、私の敵ではない。
だが、相手が悪すぎた。
砂漠喰は、砂嵐を呼ぶ。
それが決定的だった。
荒れ狂う砂に視界を奪われ、方向感覚を失い、
私はついに前後不覚へと陥った。
気を失っていた時間は、数刻ほどであっただろうか。
目を覚ますと、日はすでに沈み、
空には満天の星と、見事な満月が輝いていた。
そして、周囲を見渡した私は息を呑む。
紫の花。
花、花、花。
私は――
ついに紫の丘へと辿り着いていたのだ。
紫の丘は、この世のものとは思えぬほど美しかった。
だが同時に、ここは美しいだけの場所ではなかった。
四方八方から、死者の気配がする。
中でも厄介だったのが、悪霊――レイスである。
レイスは生者に嫉妬し、
その命を奪い、死へと引きずり込もうとする存在だ。
常人であれば、ここで命を落としていただろう。
しかし私は、黄昏教の死霊祓いである。
それも――相当な実力者だ。
何十、何百と押し寄せるレイスを黄昏へ送り返すことなど、
造作もなかった。
そもそも、私ほど優秀な人間は――
「ここから、自分語りと武勇伝が続くニャ。で、本題はここから」
(中略)
その時、声が聞こえたのだ。
――「もし、そこのあなた」
私は、自らの正気を疑った。
この死者しかいない紫の丘で、
誰かに声をかけられるなど、考えたこともなかったのだ。
しかし――
私は、そこで運命の出会いを果たすことになる。
絶世の美女とは、きっとこの人のことを指すのだろう。
紫の花畑の中に、一人の女性が立っていた。
その美しさは、あまりにも儚く、
まるでガラス細工のようであった。
彼女は、微笑んで言った。
「せっかくいらしたのでしたら、紅茶でもいかがですか」
信じられなかった。
この死霊の巣窟で、紅茶だと?
そう思った、その瞬間――
彼女の背後に、荘厳で、そして豪奢な屋敷が、
いつの間にか聳え立っていることに気がついた。
彼女に導かれるまま、屋敷へ通された私は、
本当にそこで紅茶をご馳走になった。
会話は他愛のないものだった。
だが、彼女の仕草ひとつひとつ、
そして何より、彼女と共に過ごすこの時間そのものが、
至福であるかのように感じられた。
そして――
気がつくと、朝だった。
紫の花畑に、私は仰向けに転がっていた。
(中略)
何度も、何度も、紫の丘に足を運んだ。
すべては、貴女にもう一度会いたいがためだ。
あの紅茶の味が、
貴女の微笑みが、
どうしても忘れられない。
(中略)
なぜだ。
なぜ、屋敷がない。
なぜ、貴女は現れてくれないのだ。
こんなにも恋焦がれているというのに。
私に、罰を与えているのか。
(中略)
もう、何日も帰っていない。
帰る必要など、ないのだ。
彼女にまた会えるなら、
私はすべてを投げ打っても構わない。
それなのに、なぜ――
(中略)
満月だ。
満月にしか、あの屋敷は現れないのだ。
待っていておくれ。
愛しい貴女に、今、会いに行きます。
「手記は、ここで終わっています」
そう言って、ペルシャは静かに古い手記を閉じたのだった。




