水と修行
蜥蜴人の里。
焦茶色の髪と緑の瞳を持つ少女、ミイナは、両手を前に突き出した姿勢のまま固まっていた。
その傍らでは、黒い毛並みに額の白い×印が特徴的な猫――モノが、大きな欠伸をひとつ噛み殺している。
正面に立つのは、ハイランドだった。
もはや人間の姿ではない。
灰緑色の肌に、異様に大きな体躯。伸び放題で汚れた金髪。
どこからどう見ても、魔物だ。
もっとも、モノもハイランドも、かつては人間だった。
魔王の呪いによって、今の姿へと変えられた存在である。
「……も、もう一度です」
ハイランドが低く言う。
「はい!」
ミイナは短く返事をすると、再び集中に入った。
(水、水、水……)
頭の中で、ひたすら水を思い浮かべる。
革袋に入った飲み水。
屋敷で見かけたシャワー。
ナディルと修行した時の雨。
砂漠で見た、オアシスの噴水――。
だが、思考は次第に散り始める。
オアシスの噴水を思い浮かべた瞬間、
関係のない記憶が、勝手に割り込んできた。
ニイナ。
かつて、同じ檻にいた奴隷の少女。
ミイナより年上で、何かと世話を焼いてくれた存在。
ミイナにとっては、姉のような人だった。
離れ離れになる前、
「オアシスの噴水で待ち合わせしよう」と約束した。
けれど――
彼女は、現れなかった。
それ以来、消息は分からない。
生きているのか、死んでいるのかすら。
「……ま、また、別のことを考えましたね?」
ハイランドの声が、静かに現実へ引き戻す。
「し、集中が途切れています」
「……すみません」
ミイナは素直に頭を下げた。
そして、もう一度、両手を前へ突き出す。
今、彼女が行っているのは、
エステラを“水”へと変換するための基礎修行だった。
掌には、基本となる円と三角を組み合わせた魔術陣。
そこに、水への変換を目的とした術式が描かれている。
「た、ただエステラを放出するのではありません」
ハイランドは、言葉を選ぶように続ける。
「し、式を理解し……変換する物質を、はっきりと思い浮かべるのです」
「はい!」
ミイナは勢いよく答えた。
だが、意識はまた、わずかに揺らぐ。
(……なんで今、ニイナのことを思い出したんだろう)
結局、この日は――
一度として、変換が成功することはなかった。
*
デモンズフォールでハイランドを救出した一行は、
さらに一か月の旅を経て、蜥蜴人の里へと戻ってきていた。
道中、魔物の襲撃は何度もあった。
だが、現在の彼らの戦力にとって、それらは脅威ですらなかった。
最終的に、魔物たちはすべて――
ハイランドの胃袋に収まることになった。
そして、蜥蜴人の里に帰還してから、
さらに一か月が過ぎようとしていた。
次の目的地は、
聖女フィリアがいるとされる場所――
“ラベンダーヒル”。
死者の丘とも呼ばれるその地は、
どうやら一筋縄ではいかないらしい。
ハイランドは、
「死者よけの魔道具」の作成に時間を費やしていた。
白猫の獣人ペルシャと、
呪いによって案山子の姿となった戦士クロスケは、
街へ向かったきり、まだ戻ってきていない。
モノは相変わらず、
日当たりの良い場所で昼寝ばかりしている。
ミイナはというと――
ハイランドに教わった通り、水を生み出す修行に励んでいた。
だが、一度も成功していない。
ミイナは、内心で焦っていた。
彼女が師と仰ぐ雨降師ナディルですら、
雨雲の杖という魔道具がなければ、
自在に雨を降らせることはなかった。
それなのに、自分は――
杖も使わず、水を生み出そうとしている。
それが、どれほど困難なことなのか。
ミイナは、痛いほど理解していた。
そんな折――
ペルシャとクロスケが、里へと戻ってきたのだった。
『ただいまでござる』
案山子の戦士、クロスケが、ぴょんぴょんと跳ねながら言った。
「ただいま戻りました。ラベンダーヒルの情報も、仕入れてきましたよ」
美貌の獣人、ペルシャもそう言って、ミイナの前へと歩み寄る。
「おかえりなさい、クロスケさん。ペルシャさん。
ラベンダーヒルの情報って……?」
「これです」
ペルシャはそう言って、荷袋から一冊の本を取り出した。
古い革で装丁された、年季の入った書物だった。
「手記です」
ミイナは、そっとその本に目を向ける。
表紙には、かすれた文字でこう記されていた。
『月光と貴女』
ニコラス・ワイトマン 著




