昔話 戦争と出陣
オゼロの容態は、日に日に悪くなっていった。
咳き込むことが増えた。
演習場にも、ほとんど姿を見せなくなった。
たまに顔を出しても、不機嫌で当たり散らすように剣を振るい、早々に引き上げてしまう。
顔色はいつも悪い。
何かに焦っているようにも見えた。
そんな折だった。
玉座の間で、王が言った。
「余は港が欲しい」
唐突な一言だった。
サンサーラ王国の港町――ペンタグラム。
交易の要所であり、両国の間で長年小競り合いが続いていた土地だ。
だが。
王のこの一言が、ついに戦争を呼び寄せた。
ハイト王国軍は、ペンタグラムへ向け進軍を開始した。
これまでのような小競り合いでは終わらない。
両国は正式に宣戦を布告し、
本格的な戦争状態へ突入したのだった。
*
開戦から一ヶ月が経った。
最初は順調だった。
ハイト王国軍は三つの砦を瞬く間に陥落させ、港町ペンタグラムへ向けて侵攻した。
しかし、快進撃はそこまでだった。
ペンタグラムに籠城したサンサーラ王国軍は精強だった。
砦三つを放棄したのは、あらかじめ用意された作戦だったのだ。
兵力を一点に集中させ、ペンタグラムの高い城壁を頼りに籠城戦へ持ち込んだのである。
補給は港から滞りなく行われた。
ハイト王国は水軍を持たないからだ。
両軍はやがて膠着状態に陥った。
だが、それで終わりではなかった。
ハイト王国の伸び切った補給線を、サンサーラ王国の同盟国――ユニコール公国軍が寸断したのだ。
これにより、ハイト王国軍の補給線は完全に断たれた。
食料は急速に減り、兵の士気も落ちていく。
数万の軍勢が、敵地の只中で孤立した。
瞬く間に窮地へ追い込まれたハイト王国軍は、
ついに――
勇者騎士団の出撃を要請した。
*
謁見の間に、勇者オゼロと勇者直属の騎士団が跪いていた。
赤い絨毯が、玉座へとまっすぐ伸びている。
左右には重臣や貴族たちが並び、静まり返った空気の中で一行を見下ろしていた。
玉座の上。
ハイト王が不機嫌そうに頬杖をついている。
しばらく沈黙が続いた。
やがて王が口を開いた。
「ペンタグラムが落ちぬ」
不機嫌そうな声だった。
「兵は揃えた。将も送った。だが未だに落ちぬ」
誰も答えない。
王はゆっくりと視線を下ろした。
「勇者よ」
オゼロは顔を上げない。
ただ静かに答えた。
「ここに」
その声はいつも通りだった。
だが、モノは気づいていた。
背中がわずかに上下している。
呼吸が荒い。
最近ずっとそうだった。
「戦況は聞いておろう」
「承知しております」
「では話は早い」
王は軽く手を振った。
「そなたが行け」
謁見の間がわずかにざわめいた。
「勇者騎士団を率い、ペンタグラムを落とせ」
それだけだった。
王にとっては、それが当然の命令だった。
オゼロはしばらく沈黙した。
咳が一つ、漏れる。
わずかに赤いものが絨毯に落ちた。
モノの拳が強く握られる。
だが、オゼロは袖で口元を拭うと、何事もなかったかのように言った。
「承知いたしました」
その一言で、すべてが決まった。
王は満足そうに頷いた。
「うむ。勇者が出れば、戦は終わろう」
軽い口調だった。
まるで掃除でも命じるかのように。
「準備が整い次第、出立せよ」
「は」
オゼロは深く頭を下げた。
その後ろで、騎士団員たちも一斉に額を床へつける。
その時だった。
列の端から、静かな声が上がる。
「恐れながら、陛下」
黒衣の男が一歩前へ出た。
宮廷魔術師長、キリオス。
「勇者様のご容態を考えるに、今回の遠征には医術担当を同行させるべきかと存じます」
王は面倒そうに眉を動かした。
「ほう」
「戦場で勇者様に何かあれば、国家にとって損失は計り知れません」
「ふむ」
王は少し考える素振りを見せた。
そして肩をすくめた。
「好きにせよ」
キリオスは静かに頭を下げる。
「では、私が同行いたします」
その言葉に、モノは思わず顔を上げた。
キリオスの視線が、一瞬だけモノに向く。
微笑んでいた。
柔らかく。
優しい顔で。
だが、その目だけが――
どこか冷たかった。
モノは眉をひそめる。
隣でクロスケが小声で呟いた。
「……嫌な予感がするでござるな」
モノは答えなかった。
ただ、前に跪く老人の背中を見ていた。
その背中は、以前よりも小さく見えた。
それでも。
この男が立てば。
戦は終わる。
モノは、そう信じていた。
まだ、この遠征が――
勇者オゼロにとって最後の戦いになるとは、
誰も知らなかった。
*
「大丈夫なのかよ」
遠征の道中、モノはオゼロに馬を並べて聞いた。
「何がだ」
オゼロの返答は冷たかった。
「とぼけんなよ。最近ずっと咳してるだろ」
オゼロは前を向いたまま答えない。
行軍の列がゆっくりと進む。
鎧の軋む音。
馬の蹄。
風に揺れる軍旗。
しばらくして、オゼロが小さく息を吐いた。
「戦場に出るのが勇者だ」
それだけだった。
モノは顔をしかめる。
「そんな話してねぇよ」
「同じことだ」
オゼロはちらりともモノを見ない。
ただ前だけを見ていた。
「敵がいる。戦う。それだけだ」
その声はいつも通りだった。
だが。
すぐ後に、小さく咳き込む。
オゼロは顔を背けた。
袖で口元を拭う。
その動作を、モノは見逃さなかった。
「……ジジイ」
「黙って歩け」
即座に遮られる。
「隊列を乱すな」
命令口調だった。
モノは舌打ちをして馬を少し下げた。
その横に、クロスケが馬を寄せてくる。
「怒られたでござるな」
小声だった。
モノは不機嫌そうに答える。
「うるせぇ」
クロスケは前方をちらりと見た。
勇者の背中。
その肩が、ほんのわずかに上下している。
「……拙者も思っていたでござる」
「何を」
「勇者殿、最近おかしいでござる」
モノは何も言わない。
ただ前を見た。
その時。
後ろから、穏やかな声がした。
「無理もありません」
馬を並べてきたのはキリオスだった。
「勇者様は長い遠征が続いておられますから」
柔らかな笑顔だった。
「少し疲れが出ているだけですよ」
クロスケが軽く頭を下げる。
「そうでござるか」
キリオスは微笑んだまま頷く。
「ええ。心配はいりません」
モノは黙っていた。
だが。
なぜか胸の奥がざわついた。
理由はわからない。
ただ――
何かが噛み合っていない気がした。
前方では、オゼロが咳をしていた。
誰にも聞こえないほど、小さく。




