37. 私が欲しかったもの
夢を見た。
子どもの頃、殿下を遊んでいる夢だった。
出会ったばかりのあの頃は、楽しかった。
仲良くなった殿下と毎日のように遊んでいた。
庭に落とし穴を作ろうとして怒られたり、警備をしている近衛騎士にちょっかいをかけて逃げたり、王城を探索しているうちに迷子になって二人で泣きそうにもなった。
剣術の稽古も参加させてもらって、二人で習った。
毎日が楽しかったから、婚約の話が来た時も了承した。
王太子妃の役目は前世の私からすると重くてとても嫌だけど、こんなに楽しく過ごせる男の子となら、乗り越えられると思ったのだ。
一体何処から、ああなってしまったのだろうか。
思い返せば王城で行われた茶会で毒が盛られた辺りから、何かがずれたような気がする。
毒を盛った犯人は茶会に出席していた高位貴族だった。
私を亡き者にして、自分の娘を婚約者にしたかったらしい。
よくある話だな、なんて思っていたら、彼女の家は爵位を取り上げられて王都からも追放されていた。
その日から、殿下からの過保護や干渉が悪化したように思う。
毎日王城に呼び出されるのは、最初は良かった。
しかし他の令嬢との茶会や交流より、殿下と会うのを優先するように言われた。
それは、相手は王族だ。他の貴族よりも優先されるだろう。分かっている。
でも人と交流しなければ、時勢がどうなっているのか分からず、王太子妃としての足場作りも出来ない。
殿下に申し上げたら王城に呼べば良いと言われた。
違う、そうじゃない。そうじゃないんだ。相手の家に赴いて世間話をするだけでも、将来的に役に立つんだと力説したが、とても嫌な顔をされた。
殿下が嫌なら、従うしかない。
私の自由が、一つ減った気がした。
病気が目に見えて症状として出始めた頃に、王太子妃の教育が厳しくなった。
学ぶ事は好きだけど、そこまで優秀ではない。
熱でふらつく頭で何とか学ぼうと必死だった。
だって、王太子妃になるのだから。人々の税金を使って生活するし、よりよい暮らしが出来るように国を引っ張っていかなければならない。
私に出来る事はなんだってするつもりだ。
そうやって努力していたら、殿下の執務が回されるようになった。
どうして? と担当者に聞いたら、殿下は剣術に明け暮れているらしい。
子どもだからまだ仕方ないかな。と思って少し受け取ったら以来頼られるようになった。
人から頼られるのは好きだ。でも病状がどんどん悪化していく。出来ない事が増えていく。
剣術の稽古も時間と体力が無くなって続けられなくなった。殿下はずっと一緒にやりたかったようで、時間があれば私を呼んで剣術の稽古を見学させていた。
——私は、王太子妃の教育と、回ってきた殿下の執務で忙しいのに。
反論したかった言葉を、ぐっと飲み込んだ。——相手は王族だ。どこまで言っていいか分からない。
それに子どもだから遊ぶのも仕事だ。だから殿下の行動はきっと許されるのだろう。……きっとそうだ。
私は中身は大人だ。子ども時代は前世で過ごした。だから今更子どもにならなくていい。
我慢するのは、私だけでいい。
——どうして?
浮かんだ言葉は口にしないように、深く深く押し込めた。
そんな私でも、誰かの為にはちゃんと立ち上がる。
近衛騎士の方々と世間話をしている時に、殿下の言動について相談があった。
騎士の方々の鍛錬や休憩を邪魔する形でやって来るから、困っていると。
剣術の先生が別に居るのに、一体何をしているのだろうか。
すぐに私が申し伝えようと引き受けた。私も前々からどうかと思っていたのだ。
忠告出来ずして何か臣下か。殿下は将来国王になるのだから、忠言ぐらい聞き入れて貰わないと。
そんな風に、この時の私は意気揚々としていたのだ。
——結果は、平手打ちだったけど。
公爵邸に帰ってからしばらくして、話を聞いた父が慌てて帰ってきて、血相を変えた陛下が殿下を連れてうちにやって来た。
状況を聞いた父は、殿下にもの申す前に相談しろと私に言い、陛下に次はありませんと伝えていた。
殿下の表情は……あまり響いてなさそうだった。
きっと、これで丸く済んだと思っているのだろう。
こう言う所、どうにかならないかなと心の中で息を吐いた。
少しずつ嫌な事が積もっていくと、身体が拒絶反応を起こす。
ある日、本当にベッドから起きる事すら困難になった。
王城に行くのも、王太子妃の教育を受けるのも、考えただけで身体が拒絶した。
もうこれは、限界なのだろう。一日二日くらい休んだって許されるはずだ。
こういう時は休む事を優先した方がいい。そう考えて侍女に休む事を伝え、王城にも体調不良で今日は伺えないと通達を送った。
その次の次の日、殿下が見舞いと称して公爵邸を訪れた。
しんどい身体に鞭を打って何とか身体を起こして出迎えると、殿下は私を見て「なんだ、元気じゃないか」と言った。
——元気? 今にも倒れそうで吐きそうで青ざめているのに?
驚いている私に殿下は持ってきた花を渡して、王城なら優秀な医師がいるから体調が悪くても王城に来るように行った。呆気に取られている私に「少しでもエリーと一緒にいたい」と、頬を染めて。
殿下が帰った瞬間、何もかもが嫌になった。
部屋の中にある物を全て壊して、もらった花を床に叩き付けたかった。
——出来なかった。物を壊したり傷付けることなんて、私には出来なかった。
ただ静かに声を押し殺して、ベッドに顔を埋めて泣き続けた。
王太子妃なんて、なりたくなくなった。
父にそう伝えたくても忙しくて中々屋敷に帰ってこない。
——父が忙しい原因は、私にある。私の病状がどんどん悪化していくから、薬や医師の治療を続けさせるためにお金を稼いでいるのだ。
王太子妃になりたくないと言ったら、公爵家は、父はどうなるのだろう。
責任を果たせない、約束も守れないと非難されるのだろうか。
陛下と父の仲も悪くなるのだろうか。
だから——諦めることにした。
私は大人になれないと子どもの頃から医師に告げられていた。
最近はもって後数年と言われている。
だから、後数年の我慢なのだ。
そうすれば、私は解放される。
王太子妃にもならなくていいし、勉強も、社交も、執務も、何もしなくていい。
ただ穏やかに——そう、一人で本でも読みながら、静かに暮らしたい。
そう思えば、今辛い事を我慢出来る。
そして最期はこの身は、業火に焼かれて消えていくのだろう。
——死ぬのを二回も経験するなんて、嫌だけど。
前世でそれなりに楽しんだからいいじゃないかと思っても、今世で楽しい事が少ないのは嫌だと心の内で私が言う。
じゃあ何がしたいか、と私に尋ねると、そうだなぁ、と私が考える。
何だかんだで、私は寂しがりだ。
誰かに寄り添って欲しかった。
寄り添って、肩を抱き寄せられて、頭を撫でられて、甘えさせてもらいたい。
——母がしてくれた事と、同じように。
甘えさせて貰えるのならば、私も同じかそれ以上の愛を、相手に捧げよう。
そうして、相手も私も幸せになれたら、それでいいんじゃないか。
派手でもない、燃え尽きるようなものでもない。もっと普遍的で、もっと単純な——
愛を。
手の温もりに意識がゆるゆると浮上した。
室内の暗さに目を瞬かせて状況を理解しようとする。
今目に見えている景色は、伯父様の侯爵家の客室だ。
殿下とのやり取りで魔力が暴れかかって倒れたから、客室に運んでもらえたのだろう。
温もりのない反対の手を動かして確かめる。どうやら火傷はしてないようだ。
ゆっくりと、動かせない手の方に顔を向けると、グランツ卿——いや、アルベルトがベッドに肘をついて座っていた。
私の手を祈るように握って、その手を額に押し当てて俯いている。
「——アルベルト?」
声に出したら、掠れてしまった。
それでも届いたようでアルベルトが顔を上げて、ゆっくりとこちらを見る。
窓からの明かりで、その顔が酷くやつれて見える。
「……エリシア様?」
アルベルトの瞳が揺れている。小さく頷くと、くしゃりと、その表情が歪んだ。
「良かった……」
微かに聞こえる程小さく呟いて、彼は私の手をさらに強く包み込んだ。
手がとても、温かい。
それに繋がれている手がとても楽になるような感覚がある。
「迷惑をかけたわ。大丈夫だった?」
私の言葉に、アルベルトは静かに首を横に振った。
「何も問題ございません。……目が覚めて本当に良かった」
私の手を握って頬に当てながら、彼はそう微笑んだ。
その姿に、かちりとピースが嵌まるような、すとんと落ちるような感覚になる。
ああ——これだったのだ。私が欲しかった物は。
母にもらって以来、ずっと焦がれていた物は。
目元が熱くなって視界がぼやける。
そっと、アルベルトの手が伸びて目元から零れる涙を拭ってくれた。
「アルベルト……」
「何ですか?」
「私……」
涙腺が緩んで、思わず鼻を啜ってしまう。
「あなたが居てくれて良かった」
私の言葉に、アルベルトは力が抜けたようだった。
身を捻ってハンカチを取り出すと、私に渡してくれた。
それを目に当てて小さく泣く私を、アルベルトは何も言わず、ただ手を握り続けてくれた。
——それだけで、十分だった。




