26. 腕の中の景色
「では失礼」
「きゃっ!」
私の返事を聞くと、グランツ卿はその場に屈んで私の膝裏に手を回し、軽々と持ち上げてしまった。目を白黒させているとグランツ卿が屋敷へと足を進める。
「グランツ卿! 私歩けるわ!」
「馬に乗ると疲れます。でしたら、少しでも体力を温存するのが無難です」
「そ、そうだけど!」
反論をするが聞いてはくれない。手綱を引かれて後ろからついてくるヴィオラを見ると、耳をぴんと立てて足取りが軽い。遠乗りの準備に向かうのが分かっているのだろう。
屋敷に戻って馬場に用意した先程の台の上に私を下ろすと、自身は足場も無しに簡単にヴィオラの背中へと跨った。——ヴィオラの背の高さは、グランツ卿の身長よりも高いのに。
「さぁ、こちらへ」
呆気に取られる私を余所に、台の前に来たグランツ卿がヴィオラの上から手を伸ばす。戸惑いながらも鞍に手を置き、反対の手を彼に差し出すと、力強く引っ張り上げられた。
あんなに苦労したのに、腕を引かれ腰を引かれて、いとも簡単にヴィオラの鞍に跨ってしまった。しかも、グランツ卿の前の場所に。——こんなに簡単だったのなら、最初からこうすれば良かったのでは?
「どうですか?」
「……高い!」
いつも見ている視界よりも、屋根が近い。柵だって下にあるし、足元の地面もずっと遠い。空にある雲も、ずっと遠くにあるはずなのに近づいたような気がする。
「前を失礼します」
グランツ卿が私の横から腕を伸ばし、手綱を握る。……グランツ卿の腕の位置も、背中の気配も、随分と近い。背中に熱が集まりそうだ。
「こういうのは、私は後ろに乗るのではなくて?」
ほんの少しだけ振り返って、彼に聞く。前世ではバイクの二人乗りは、同乗者は後ろに乗っていたはずだ。
「前の方が揺れないので特等席です」
「そうなの?」
「はい。それに前に居てくれた方がすぐに守れます。動きますので掴まってください」
グランツ卿が鐙に乗せた足でヴィオラの脇腹を蹴った。ゆっくりと、ヴィオラが足を踏み出す。
「わっ!」
大きな背中は何とも安定感があるが、動き出すと揺れてそうではなくなる。咄嗟に鞍を掴んだが、不安定な私の姿に見るに見かねてか、グランツ卿が後ろから腕を回して身体を支えた。
一歩、また一歩。揺れに合わせて身体が支えられるのを確認すると、グランツ卿の腕の力が弱まる。
「大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫」
「鐙に掛けている足に力を入れてみて下さい。内腿で鞍を挟むようにすると安定します」
言われた通りにするが、想像以上に身体に力が入っていない。——そんなに私の身体は弱っていたのか。これは、馬に乗れないし乗ろうとしただけで息が上がって当然だよな、と現実を突き付けられたと同時に納得してしまった。
「……失礼。御身を支えるのに、身体を前に寄せます。俺に寄りかかってください」
グランツ卿がこちらに身体を寄せて私を抱き寄せる。すっぽりと、腕の中に収まる形になった。すぐ真横のグランツ卿の腕が、太い。背中越しに体温を感じるし、心臓の音も、呼吸も分かる。顔に熱が集まるって赤くなる。どうか、気付かれないでほしい。
ぶる、と鼻を鳴らして、こちらを振り向いたヴィオラの目が少々呆れた色をしていた。私の上で何してんの、と言いたげなそれに現実に返って背中に力が入る。
「い、いい景色ね!」
突拍子は無かったが、グランツ卿の視線が私の頭に向けられた後、外に向けられたのが背中越しに分かる。
「……はい。確かにそうですね」
馬場から屋敷の敷地を出て、外へ。高い視界から見る辺境のなだらかな丘や遠方の聳え立つ山々は何とも清々しく、窓越しに見るのと、地面に足を付けて見るのとはまた違う美しさがある。
「お加減は如何ですか?」
「悪くはないわ。ごめんなさい。思った以上に弱っていて、あなたに迷惑を掛けているわ。操縦し辛いのではなくて?」
「これくらいなら全然。それに俺の練習に付き合って下さっているのでどうかお気になさらず。現状どうなるか、どうすればいいかの確認をしているだけですから」
「そう、なの?」
「ええ、そうです」
少し見上げてみたが、視線が合わない。それならば、そうなのかと前を向き直した。安定して来た、と判断したのか、抱き寄せていた手が離れた。しかし両の腕で挟まれているのは変わらないので、安定感は変わらない。——視界に映る景色よりも、グランツ卿の腕が気になってしまう。
「あなたの腕って、大きいのね」
「——そう、ですか?」
「やっぱり鍛えているから?」
「そう……ですね」
触るのは流石に無礼だよな、と見るだけに留めて、視線を上に向ける。
「私も、鍛えたらこれくらいになるのかしら?」
「……いや、それは……ちょっと……」
返答に困っているのを見て、ほんの少しだけ口角が上がる。
「冗談よ。流石に無理でしょうね」
「……しかし、少し鍛える事は体調にとってもいい事だと思います」
「そうね」
「今日の様に散歩をする、だとか」
「そうねぇ……」
分かってはいるのだが、体調の良し悪しに左右されるのと、王都の暮らしから離れてようやく得た解放感に浸っているのも事実。いい加減少しは運動した方がいいだろうか。
「付き合いますよ」
覗き込んできたグランツ卿に、こちらも視線を上げる。
「あなたのやる事が増えない? ゆっくりする時間はある?」
「問題ありません。筋力が回復すればヴィオラに乗りやすくなります。それに、体力が増えたらもっと遠くに行けますよ」
「それは、中々に魅力的ね」
先程の丘の上まで戻ってきた。周囲を見回したグランツ卿が、ヴィオラの鼻先を向ける。
「ご体調はまだ大丈夫ですか?」
「ええ、何とか」
「少年からこの先に湖があると聞きました。そちらに向かってみますか?」
「任せるわ」
「辛い様でしたらすぐに言ってください。その際は丘を一周して戻りましょう」
「分かったわ」
脇腹を蹴られたヴィオラの足が進み出す。歩みはゆっくりだが、ヴィオラの耳はぴんとしていて楽しそうだ。
「そう言えば聞いてもいいかしら?」
「どうぞ。何ですか?」
見上げればグランツ卿がこちらを見下ろす。
「部下から先日報告があったと言っていたけど、いつやり取りしていたの? 鳩でも飛ばしていて?」
「いいえ。小型の通信珠を持っていまして、定期的に状況を報告しています。……黙っていて申し訳ありません」
「通信の相手は?」
「オスカーです。単独任務や遠方での任務にあたる際には、状況を報告するのが義務となっています。……ご不快でしたか?」
「いいえ。そういう事なら理解出来るわ」
少し頭を下げて考えてから、再び上げる。
「私の事はどう報告していて?」
「……その」
「毎日ぐうたらしているとか、怠けているとか報告しているの? それが心配よ」
「その様に報告はしていませんが……」
言いあぐねたグランツ卿が視線を逸らす。
「……惚けていると言われました」
「…………惚け?」
グランツ卿の言葉に首を傾げる。
「平和惚けとか、そういう?」
「まぁ……そういう、感じです」
「……そう」
視線を下げて、少し考える。
「追っ手からの逃避行とか、暗殺者と戦うとか、そんな冒険奇譚もないものね」
「ない方がずっといいです」
「それはそうね」
小さく笑って肩を竦める。
「何か問題を起こしたら良いかしら?」
「……例えば?」
「例えば……そうねぇ……」
遠くの山を見ながら、考える。
「朝起きたらヴィオラの世話が全部終わっている、とか?」
「それなら、何の問題も」
「その時に転んで馬糞塗れになっている、とか」
びくりと肩を跳ねたグランツ卿が、咎めるようにこちらを見下ろす。
「絶対にやめて下さい」
「どう? 少しは平和じゃなくなった?」
「……どうか今のままでいて下さい。平和なのは何も悪い事ではないです」
ふぅ、とグランツ卿が後ろで息を吐き出す。ほんの少し、微笑んだ。
「ありがとう、グランツ卿」
グランツ卿が、こちらを見る。
「あなたがいなかったら、私はずっと屋敷に閉じこもっていて、何をしようとも思わなかったわ。ずっと寝たきりだったかもしれない。こうやって馬に乗りたいとか、外の空気を吸えるとは思ってなかったかも」
「……エリシア様」
「だから感謝しているわ。そう報告してね」
「……畏まりました」
ゆっくりと、グランツ卿が息を吐き出すのが分かる。躊躇いがちに、グランツ卿が口を開く。
「……俺も、あなた様の元に来て良かったと思っています」
耳に届いたその声は、いつもより低くて、柔らかかった。背中越しの体温は、とても温かい。思わず見上げて、グランツ卿の顔を見て微笑んだ。
「ちょっとした休暇になっている?」
「表向きは、謹慎中ですが」
「それなら良かったわ」
視線を前に戻すと、後ろのグランツ卿が小さく微笑んだのが分かった。耳を動かしてこちらを見るヴィオラの瞳にも、温かみがあった。




