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すべてを失った令嬢は騎士の愛を選ぶ——その愛は、もういりません  作者: 円花なまり
第三章 穏やかな日々に差す影

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25. 遠い鞍と、はじめの一歩

 は、と目が覚めて、勢い良く身体を起こした。窓から差し込む光はいつもより弱い。太陽もまだ顔を出したばかりだ。いつもは毛布に包まるけれど、それでも今日は、すっとベッドから降りられた。

 窓を覗いて外を確認すると、グランツ卿が馬に餌遣りをしている。手伝おうと機嫌良く自室を出て階下へと駆け降りた。

 昨日は、馬が来たばかりだから一晩休ませることにした。それでも気になるから居間の窓から厩を窺っていると、グランツ卿から「馬が休めないですよ」と苦笑されながら注意されてしまった。

 前世も今世も、動物が大好きだ。公爵邸では馬車用や騎士の馬がいて、元気な時は厩に遊びに行っていた。でも私の馬はこれが初めてだ。前世でも乗馬がしたかったから、結構嬉しい。

 ——あんな風に、自由に動ける日が来るなんてないと思っていたから、尚更だ。


「おはよう、グランツ卿」


 身支度を整えて屋敷を出ると、馬の世話をしていたグランツ卿がこちらを見て目を丸くした。


「おはようございます、エリシア様。今日は早いですね」

「ええ。楽しみで早く起きてしまったの。おはよう、ヴィオラ。目が覚めた?」


 馬に近付いて手を伸ばすと、その手に鼻先を当ててくれた。匂いを確かめるように一度顔を寄せてから、気に入ったのか、撫でてとばかりにぐいと押し付けてくる。

 馬の名前は、辞書を開いてグランツ卿とうんうん言いながら、女の子だし花の名前であるヴィオラとなった。


「結構人懐っこいわね! 可愛いわ。ごはんしっかり食べてね。何か手伝うことはあるかしら?」

「馬房の掃除をするので納屋から箒と塵取りを取って来てもらってもいいですか?」

「分かったわ」

「おはよーございまーす!」


 遠くから聞き慣れない少年の声がこちらに届く。振り返ると丘の向こうから、バスケットを持った少年がこちらに手を振りながら歩いてくる。グランツ卿が「あっちも早かったか」と呟いた。


「今来ているのがパン屋の少年です。俺は馬の世話をしているので、代わりに受け取ってもらってもいいですか?」

「いいわ。空のバスケットを交換で良かったかしら?」

「そうです。お願いします」


 屋敷に戻って手早く手を洗い、空にして干してあるバスケットを持って戻ると、少年が敷地の入り口にやって来ていた。

 現れた私を見て驚いた顔をした後、戸惑いながら口を開く。


「えっと……」

「ご機嫌よう」

 

 柔らかく微笑んで、少しだけ背筋を伸ばしてから、続ける。


「挨拶が遅れたわ。この家の主人です」


 スカートを持って礼をすると、少年は慌ててびし、と背すじを伸ばした。


「は、初めまして! パン屋の息子です! おっとうが腰を痛めちまって、代わりに来てます!」

「まぁ、そうだったの。お父様の具合は良くて?」

「パンは何とか焼けるけど、まだしんどいって言ってました!」

「腰痛は辛いわね。お父様にどうかお大事にと伝えてね」

「は、はい!」


 バスケットを交換すると、少年はちらちらと馬の方を見ている。


「あ、あの! 馬がようやく来たのですか!」

「ええ。昨日来たの。良かったら触っていかれる?」

「いいんですか⁉︎」

「グランツ卿、この子にヴィオラを触らせてもいい?」


 馬房を掃除していたグランツ卿が、鋤を立て掛けて手招きする。少年は目を輝かせて近付こうとしたが、手元のバスケットを見てどうするか迷っていた。


「私が持っているから、行っておいで」

「あ、ありがとうございます!」


 少年から空のバスケットを再び受け取ると、少年は小走りでグランツ卿の所に駆けていく。グランツ卿は触りやすいように少年を抱き上げた。抱き上げられた少年がヴィオラに手を伸ばして鼻先に触れ、すごいと歓声を上げている。

 ……いいなぁ。お父さんと息子って、あんな感じなんだろうなぁ。グランツ卿、お父さんが似合うんだろうなぁ。

 思ってしまった感想にはっと我に返り首を振る。ひとまず配達で受け取ったバスケットを仕舞おうと、室内に入ったのだった。



    *   *   *



 少年が帰った後、朝食にして今日の洗濯も終わらせた。

 やる事はやったのだから、後はお楽しみの時間だ。いつもの服の下に伯母様が用意してくださった騎乗用のパンツを履いて、いざ乗馬の時間だ!


「では俺が動かないようにしておくので、まずは乗ってみてください」


 馬場に乗る用の台を用意して、グランツ卿がそこにヴィオラを連れて来てくれた。


「分かったわ」


 意気揚々と台に乗ってあぶみに足を掛ける。……想像よりも高い位置に鐙があるが、この位、前世だったら簡単に飛び乗れ、たっ!


「…………え」


 反対の足が、台を蹴っているのに全然上がらない。


「鞍を掴んで御自身の身体を引き上げてください」

「やって、みる……っ」


 鞍も掴んだ。鐙に乗せた足も踏ん張って、台を思い切り蹴った。それでも、上がらない。


「……………………」


 ヴィオラの尻尾が揺れた。グランツ卿も私とヴィオラを交互に見つめている。

 息が上がる。焦り始める。

 これで……! と思って勢い良く蹴ったら、台を蹴り飛ばしてしまった。


「あっ!」

「エリシア様!」


 落ちないように鞍にしがみつくが腕力が耐え切れず、ずるりと落ちる直前でグランツ卿に支えられた。鞍を握って登ろうと引き寄せたが全然駄目で、そのまま抱き抱えられるような形で地面に落ちてしまった。


「大丈夫ですか? お怪我は?」

「………………」


 地面に座ったまま鞍を見上げる。元々大きいとは思っていたが、あんなに近かった鞍が、とても高く遠く見える。

 悔しい。何も出来ない自分に腹ただしくなる。


「病床できっと力が落ちているのでしょう。最初はこんなものですよ。気落ちせずに」


 そう言って、グランツ卿は台を起こしてヴィオラの横に置く。


「ヴィオラが大人しくしているので、次は俺が持ち上げてみます。もう一度やってみましょう」

「……いいえ。もういいわ」


 立ち上がって服に付いた汚れを叩く。


「出来ないと分かっているのに何度もやるのは無駄だもの。……もう、いいわ」

「エリシア様」

「先に部屋に戻っているわね」


 顔を上げずに、グランツ卿とヴィオラに踵を返す。ヴィオラが小さく鼻を鳴らしたのが聞こえた。

 ……なんて、かっこ悪いのだろう。出来るとあんなに意気込んでいたのに、楽しみにしていたのに、馬鹿みたいだ。

 どうせ私は、もう前みたいには動けないのだから。これから先、出来ない事はきっと増えていく。だから、受け入れなきゃいけない。我慢しなければならない。

 唇を噛み締めて、馬場を出ようと数歩進んだ——


「エリシア様!」


 ヴィオラを連れたグランツ卿が私の側に駆け寄ってきた。私の横に立ち、手を差し出す。


「折角外に出たのですから、このままヴィオラと散歩しませんか?」


 ヴィオラを見ると、円な瞳をこちらに向けている。


「散歩したって……」

「歩くのもいい運動になります。こちらに来てまだ外を出歩いていないでしょう? 空気が澄んで気持ちがいいですよ」

「……………………」


 差し出した手に戸惑いながらも手を重ねると、彼は微笑んでエスコートのために私の手を自身の腕に乗せた。


「そんなに落ち込まないでください。今日は乗る日ではなかっただけです」

「でも、支えがあったら簡単に乗れるものではなくて?」

「ヴィオラは大型ですから、背が高くて乗るのも一苦労です。騎士の養成所でも大型の馬に乗るのは初めての者が多く、皆苦戦しますよ」

「そうだったの」


 グランツ卿が歩き出す。私もヴィオラも、その歩調に合わせる。


「あなたは乗れたの?」

「子供の頃父に教わりました。農耕用の大きな馬で、それに鞍無しで乗るように言われました」

「鞍無しで⁉︎ それは、とても難しいのではなくて?」

「はい。だから大型の馬は、慣れていないと苦戦します」


 片手でヴィオラの手綱を引いて、片腕に私の手を乗せて、グランツ卿は馬場を出る。お出かけか? とヴィオラの耳がぴんと立って顔が上がった。心無しか足取りが軽くなり、グランツ卿の横に並んだ。まるで「早く行こう」と言っているみたいだ。


「どうどう。エリシア様のお母様も乗馬が得意だったのですか?」

「ええ。馬術が得意で、学園時代に大会で優勝したと聞いているわ」

「それはすごいですね」

「小さい頃、私を連れて侯爵家に避暑で帰った時に、前に乗せてもらって遠乗りに連れて行ってもらったの。風を切る感覚が楽しくて、ずっと笑っていた記憶があるわ」

「それは、いい思い出ですね」

「ええ。とても」


 敷地の外に、一歩出た。風がぶわりと駆け抜けて行く。私が来た時よりも、季節が進んだようだ。丘が更に草が伸びて青々としていて、風が吹く度に揺れている。


「気持ちのいい風ね」

「そうですね。この辺り一帯は白花の丘と街の住民は呼んでいるようです」

「白花の丘?」

「はい。パン屋の少年が言っていました」


 グランツ卿を見上げると、私を見つめて柔らかく微笑んでいる。


「春になると丘一面に白い花が咲くそうです。とても綺麗だと言っていました」

「……春、か」


 グランツ卿から視線を外して、青々とした草原を見渡す。


「それは、とても綺麗でしょうね」

「来るのが少し遅かったですね」

「そうね……」


 一つ息を吐き出す。


「少し気分が晴れましたか?」

「ええ。ありがとう、グランツ卿」

「どういたしまして」


 グランツ卿に回している腕を後ろから押された。振り向くとヴィオラが構って欲しそうにしていたので手を離し、その鼻先を撫でる。


「……ヴィオラがまだ持て余しているようです。体調がよろしければ、このまま遠乗りに出掛けませんか?」


 目を丸くしてグランツ卿を見上げる。


「でも、私は乗れなくてよ?」

「俺が上から引っ張ってみましょう。いざと言う時はヴィオラに乗って侯爵邸まで走るのです。俺の練習に付き合ってもらえませんか?」


 反対側でヴィオラの頬を撫でながら、グランツ卿が微笑んでいる。


「そうね……そういうことなら」

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