第18話 幼馴染の号泣
「茉莉~? ……あれ、誰もいない」
トイレへ避難してからしばらく。
意を決して玄関に戻ってみたものの、そこに人影はなかった。
荒れていた下半身はどうにか鎮まったが、胸の奥にくすぶる熱までは消えてくれない。
重い足取りでリビングに向かうと、テーブルの上にそれはポツンと残されていた。
さっき茉莉のカバンから転がり落ちた『凄漢 EX』の小瓶だ。
(効き目、マジでエグかったな。一体何が入ってんだ……?)
気になって成分表を確かめようと持ち上げた瞬間、手に伝わる違和感。
――やけに、軽い。
「ん……?」
首をかしげながら瓶の中を覗き込んで、俺は凍りついた。
――中身が、空っぽ。
…………。
…………。
……おい、あいつも飲んでるやん。
一気に嫌な汗が全身から噴き出し、思わず頭を抱え込んだ。
マズい。絶対にマズい。
今あいつと顔を合わせたら確実に事故る。
二人きりであの妙な空気が生まれたら間違いなく一線を越えて最後まで行ってしまう。
――それだけは絶対に避けないといけない。
「避難だ、避難……!」
俺は逃げるように自室へ駆け込み、ドアを閉めてベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げながら嵐のように過ぎ去ったさっきの出来事を思い出す。
(……そういえば、あのとき凛の顔を見ても大丈夫だったな)
あのとき俺の脳内は茉莉のことでいっぱいだった。
……着替えに遭遇するという刺激の強い体験の後にアレを飲んだせいで一時的に気を逸らすことができていたのかもしれない。
「へえ……意外と助かったかも……。ふあぁ……」
思考を辿っているうちに緊張の糸が切れたのか強烈な眠気が襲ってきた。
(……だめだ、眠い。少しだけ寝よう……)
瞼の重さに勝てず、俺はそのまま眠りに落ちた。
◇ (水無瀬茉莉 視点)
あのバカ女にお灸を据えてあげた帰り道。
わたしはまだ収まりきらない苛立ちを纏ったまま、家へと足を進めていた。
(何が『蒼を奪わないで』よ。こっちのセリフだわ……)
内心で毒を吐きながらも高鳴る胸を抑えられない。
だって、これでやっとあーくんと二人きりになれるのだから。
今日は彼にもう一度好きになってもらう。
……でも正直なところ、彼に対してはめちゃくちゃ腹が立っている。
だってそうでしょう……。
幼馴染か知らないけど他の女に夢中になって。
その女とその取り巻きにまんまと陥れられて。
挙句の果てにわたしのことを忘れているだなんて。
(……本当はわたしが幼馴染だったはずなのに)
腹立たしいにも程がある。
だから二度と忘れないように。
そして他の女にうつつを抜かさないように。
――『水無瀬茉莉』という存在を、彼の心と身体に深く、深く刻み込む。
◇
「ただいま~♪ あーくん、いる?」
家に到着するなり、待ちきれずに声を張り上げた。
けれど返事はない。
(……どこ?)
トイレのドアを開けても空。
リビングにも姿はない。
(……あーくんの部屋かな?)
トントンと階段を駆け上がり、彼の部屋のドアを静かに開ける。
――そこには、ベッドで仰向けになって気持ちよさそうに眠るあーくんの姿があった。
「すぅ……すぅ…………」
その無防備な寝顔を見た瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられた。
可愛い……。
引き寄せられるようにベッドの端へ腰を下ろし、彼の顔をじっと見つめる。
そして、そっと体を倒して彼の胸元に耳を寄せた。
――ドクン、ドクン。
規則正しく響く、力強い鼓動。
それを聴いているだけで、すっと心が満たされていく。
声も、容姿も、漂う匂いも、この心臓の音さえも。
彼のすべてが愛おしい。
昔、わたし達がどんな約束を交わして離れ離れになったのか。
――わたしだけが覚えていて、彼は何も覚えていない。
ふとした拍子に絶望に近い感情が顔を出しそうになる。
そのたびにわたしは『彼が彼であることに変わりはない』と自分をなだめ、もう一度関係を作り直せばいいのだと言い聞かせていた。
(ねえ……これくらい、いいよね)
ベッドで無防備に眠る彼の顔を見つめていると、胸の奥から静かに、けれど逃れられない熱が込み上げてくる。
ゆっくりと顔を近づけ、その柔らかい唇に自分の唇を重ね合わせる。
触れた瞬間、彼の身体がびくりと跳ね、瞼が開いた。
見開かれた瞳に一瞬だけ動揺と驚きが走る。
(あーくん起きた……)
あーくんが何かを言いかけるより早く、彼の顔を両手で優しく、けれど逃がさないように包み込んだ。
「……ん」
驚きに固まっていた彼の力が、ふっと抜けていく。
わたしの強引さに一瞬呆気にとられながらも、彼はわたしの唇を受け入れた。
素直な反応が愛おしくて、さらに深く熱を込めて唇を重ねる。
吐息を分け合うように何度も角度を変えながら、引き寄せるように身体を寄せ、自然な流れで彼の上に覆い被さっていった。
――その時。
太もものあたりにゴツリとした硬いモノが当たった。
(これって……)
ズボン越しにもはっきりと伝わってくる、その熱と脈動。
あーくんが口では何も言わなくても、身体がわたしをどう受け止めているのかが一瞬でわかってしまう。
『男の子』としての素直すぎる反応。
それがあまりにもいじらしくて、胸の奥が甘く痺れる。
嬉しくて、愛おしくてたまらない。
心の中でほくそ笑みながら、わたしはあえてその熱を感じ取るように、さらに腰の重みをかけていった。
そこへ――インターホンが鳴った。
不意の音にあーくんの眉がかすかに寄り、体を起こそうと身じろぎする。
けれど、わたしは彼の胸に手を置いたまま、『離れる気なんてサラサラない』というように上から軽く押さえ込んだ。
「待っ……茉莉」
困ったような声でわたしを見上げるあーくん。
その拍子にベッドから彼のスマホが滑り落ち、ドンッと床を叩く大きな音が部屋に響いた。
だけどインターホンの音も、スマホが落ちた音も気にせず、わたしはさらに重なるように彼へもたれかかる。
すると、
――ガチャリ。
ドアノブが下がり、部屋の扉が開いた。
そこに立っていたのは、青ざめた顔で固まる夏野さんだった。
彼女の顔は、見事なまでに絶望と嫉妬で歪み切っている。
一番見たくなかった光景を目にしたのだと、その表情が如実に物語っていた。
立ち尽くす夏野さん。
わたしは彼の身体に体重を預けたまま、くすぶる熱を帯びた瞳でゆっくりと夏野さんへ首だけを向けた。
彼女は震える唇を開き、今にも崩れ落ちそうな声で呟いた。
「な……なにを、してるの……?」
その問いかけに、わたしは答えない。
あーくんの顔を見つめ直すと、夏野さんの視線を全身で浴びながら、ゆっくりと彼の唇へ自分の唇を重ね直した。
「……んッ」
彼のわずかな吐息を閉じ込めるように、今度は遠慮なく舌を割り込ませる。
夏野さんが見ている。
その事実が、わたしの奥底にある独占欲と優越感をどこまでも煽り立てていた。
水無瀬茉莉という存在を刻みつけるように深く、深く舌を絡め合わせる。
水音が静かな室内にいやらしく響き渡った。
唇を離すと、銀色の糸がふたりの間に一筋引かれた。
わたしはあーくんの上に跨がったまま、ゆっくりと首を傾げて彼女を見つめる。
……口元に、隠そうともしない優越感をにじませた、小さな笑みを浮かべて。
「……っ、う……あ…………」
その光景を目にした夏野さんの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
嫉妬と絶望、そして自分自身に対する猛烈な後悔と罪悪感が、彼女の表情をぐしゃぐしゃに崩していく。
「ごめ……なさい……っ、ごめんなさい……っ!」
ついに夏野さんは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「私が……私が、……っ! あんなごどをじたがら……っ!」
部屋の入り口で膝から崩れ落ちる夏野さん。
しゃくりあげる声で何度も、何度も彼に向かって謝罪を繰り返す。
その涙は、彼女が自分の過ちに気づいた時にはもう遅すぎたのだという、あまりにも惨めな敗北の証だった。
……ごめんなさい、夏野さん♪
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