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第15話 ちょっと不穏な夏休み

 七月の中旬。

 茉莉が転校してきてから約三週間、この半月余りは色々なことがあった。


 期末テストでは茜の提案により『マリーの夏休み同居計画』の可否を賭けて茉莉と点数勝負をすることになり、要領の良い彼女に呆気なく敗れたことで、めでたく同居が決定した。


 ……茜が茉莉とハイタッチして喜んでいたのは記憶に新しい。


 伊藤さんはその話を聞いて大激怒していた。

 しかし茉莉が茜を盾に必死に説得した結果、とある条件を呑むことでどうにか納得してもらったようだ。


 その条件というのが『伊藤さんが定期的にうちに来る』というものらしい。


 本人いわくこれも護衛の一環なのだとか。

 よく分からないが、そういうことにしておこう。


 そしてなんと――


『護衛ガチ勢に変わり果てた伊藤さん』と、俺の忠告を華麗に無視して『人前でもお構いなしにベタベタしてくる茉莉』のダブルコンボのおかげで、『洗脳のプロ』という新しい称号をゲットした!


 ……このペースなら、卒業までに不名誉をコンプリートすることも可能だろう(棒読み)



 そうして今に至る。


 今日は待ちに待った夏休みの前日だ。

 午前授業を終えた俺は、茉莉と伊藤さんの三人でいつもの通学路を歩いていた。

 頭上からの強烈な日差しと、アスファルトから立ち上る熱気に煽られ、制服のシャツは早くも汗でべっとりと肌に張り付いている。


 まあ至って普通の光景だと思う……

 しかし、一つだけ問題がある。


 ……そう。言うまでもなく、隣を歩く茉莉だ。


 彼女は今、俺のシャツの裾をぎゅっと掴んで歩いている。

 袖や裾を掴まれるくらいは日常茶飯事だからいい。


 だがここ最近は暑くなったこともあり、シャツが汗でぐっしょりしている。

 

 にもかかわらず、だ。


 茉莉は特に気にする素振りもなく、平然とその裾を握りしめているではないか。


(……他人の汗とか気にしないタイプなのか)


 ……普通、汗で濡れてたら嫌だよね?


 こっちが気まずくなってしまい、横目でチラチラと茉莉の様子を窺いながら声をかけてみる。


「……あのー、茉莉?手汚れるよ?」

 

 すると茉莉はどこか嬉しそうにふにゃっと目を細め、ニッコリ笑顔でこう答えた。


「いいの♪」


 ……いや『いいの♪』じゃねえよ!


 気を取り直して、俺はさらに言葉を重ねる。


「その、汗やばいからさ……」


 俺の必死の訴えに、茉莉は『そう?』と首をかしげ、ようやくシャツの裾からスルスルと手を離した。


 『よかった……』

 思わず胸を撫で下ろそうとした、その直後――


 茉莉はその手を、こともあろうに自分の鼻先へとスッと近づけ……


 ――クンクン。


 ニオイを嗅ぎやがった。


(うそだろおい!? やめろ……ッ!)


 俺は目を大きく見開いたまま、心の中で盛大に絶叫する。


 ――くさいと言われたら。

 ――顔をしかめられたら。


 そんな絶望的な想像が頭の中でぐるぐる回る。


 しかしそんな俺の想像とは裏腹に、茉莉の表情はみるみるうちにトロンとした恍惚のものへと変貌していった。


「……へへ、えへへ……いいにおい♡ ……へへっ」


 こいつ……間違いない。変態だ。


 俺は真顔でスッと視線を前に戻し、隣を歩く伊藤さんに声をかけた。


「……伊藤さん、いこっか」

「う、うん……」


 伊藤さんも何かを察したのかどこか引きつった笑顔で頷き、俺たちは歩き出す。


 すると――


「ちょっと待ったー!」


 後ろから底冷えのする茉莉の声が飛んできた。

 振り返ると、彼女は完璧に作り込まれた天使の笑みを浮かべて言い放つ。


「置いて行くのはナシ♪」


 いつもの完璧な笑顔だ。

 だがよく見ると顔の筋肉が若干引きつっており、美しい眉元がピクピク動いている。


「……ごめん、悪かったって」


 さすがに少し反省し、素直に謝罪の言葉を口にすると、茉莉は「ふふっ♪」と機嫌を直したように笑い、再びピタリと隣に寄ってきた。


 そうして俺たちは、伊藤さんとの別れ道であるいつもの公園へと向かって足を進める。

 ちなみに茉莉は、何食わぬ顔で再び俺のシャツの裾をぎゅっと握りしめてきた。


 ……本当に微塵もブレない女だ。




 公園に到着すると、伊藤さんは決意を固めたような真剣な表情を浮かべ、ピタリと茉莉を見据えた。


「――水無瀬さん、少し二人で話せる?」


(あれ? ……伊藤さん怒ってる?)


 茉莉は「うん♪」と軽快に返事をして、伊藤さんと共に少し離れた場所へと歩いていく。


(さすがに喧嘩はないと思うけど……一応見ておこう)


 蒼は二人のやり取りを、さりげなく観察することにした。

 

 伊藤さんはどこか気まずそうに、けれど少し怒気を孕んだ表情で茉莉に何かを問いかけている。

 対する茉莉は、話を最後まで聞き終えると、くすっと上品に口元に手を当てて何やら楽しそうに目を細めて何かを言った。


 ――その瞬間。

 伊藤さんは数秒間フリーズした後、次の瞬間には湯気が噴き出す勢いで顔をまっ赤に染め上げていく。


 さらに茉莉が、ここぞとばかりに意地悪で可愛い笑みを浮かべ、伊藤さんの耳元に顔を寄せて何かを囁くと……。

 伊藤さんは目を見開いたまま、金魚のように口をパクパクさせて魂が抜けたような表情に変わり果てた。


(うわあ、茉莉は何をしたんだ……)


 詳しい内容は聞こえなかったが、茉莉の方が何枚も上手だったのは分かる。


 やがて二人がこちらへと戻ってきた。

 先ほどのやり取りが響いているのか、どこか魂の抜けた顔で茉莉の後ろをとぼとぼと歩く伊藤さんと、いつもの涼しい顔でにっこりと微笑む茉莉。


 ……伊藤さん、まじで大丈夫かよ。

 まあ相手が茉莉だしな、仕方ないっちゃ仕方ない。


「……伊藤さん大丈夫?」


 伊藤さんのことが本気で心配になり、俺はそっと声をかけた。

 すると、伊藤さんは何か言いたげな表情で俺をチラチラと見て言った。


「あ、うん……あの、左条くん……ッ」

「どうしたの?」

「ッ…………」


 伊藤さんは言いかけた言葉を一旦飲み込むように唇を噛み締める。


 あれ……?


 だが、やがて意を決したように深く息を吸い込むと、必死の形相でぎゅっと目を瞑りながら言い放った。


「……ッ! 《《そういうこと》》はしちゃダメだからね~!!」


 彼女は腹の底からそう叫び、そのまま走って帰ってしまった。


(……あー、《《そういうこと》》?)


 だが伊藤さん、心配には及ばない。

 これからの夏休み期間中、茉莉は俺に構っている暇などほとんど無いはずだからな。



 ――茜は茉莉との同居生活を本気で楽しみにしている。


『マリーと一緒にお料理して~』

『マリーと一緒にお買い物して~』

『マリーと一緒に寝て~』

『マリーと一緒にお風呂に……』――これは止めた。


 こんな感じで、茜は茉莉を独り占めする気満々なんだ。


 だから大丈夫。


 大丈夫……だよな?


(気を引き締めろ……! 俺がしっかりしていれば何も起きないはずだ)


 弱気になった自分に喝を入れる為、両の掌で自分の両頬を力いっぱい叩いた。


 ――バチンッ!


「……ちょ!? あーくん? 急にどうしたの、大丈夫?」


 その乾いた音に驚き、茉莉が心配の色を浮かべてすぐさま駆け寄ってくる。

 彼女の綺麗な指先が赤く染まった俺の頬をそっと優しくさすり、息がかかるほどの至近距離から、色素の薄い綺麗な瞳でじっと覗き込んできた。


 ……心配してくれてありがとう!

 でもさっきはあなたのことを考えながら自分にビンタしました!


 

「……ああ、ありがと。そろそろ俺たちも帰ろっか」


 気まずさを誤魔化すように頭を軽く振り、俺は茉莉を連れて帰路に就いた。


 あ、そういえば。

 実は、茉莉は今日このままウチに来ることになっている。

 着替えや日用品は毎朝ウチに来る時に少しずつ持ってきていたらしい。


 そうして家までの道を歩き出すと、茉莉が思い出したように口を開いた。


「ねえ♪ 寄りたいところがあるんだけど、良い?」


 

 

 

 

 

 ◇


 茉莉に連れられてやってきたのは、少しお高めだが品揃えが良いことで有名なスーパーマーケットだった。

 俺の家からもそう遠くない。


(……夕飯の材料を買うのかな)


 俺はテキパキと買い物かごをカートに乗せ、いつでも動けるようにスタンバイする。


 茉莉は迷いのない足取りで野菜コーナーを進むと、ジャガイモ、ニンジン、ナス、山盛りの生にんにくといった具材を次々と手に取り、丁寧にかごへと入れていった。


 にんにく多くね?


 さらには定番のカレールウ、牛肉のパックを入れていく。

 どうやらカレーを作るらしい。


 ――まあ、ここまではごく普通のカレーの材料だ。


 そう安心しかけた、その時だった。


「あ、これも♪」


 軽やかな声とともにかごに入れられたのは、パック詰めの新鮮な生牡蠣とすっぽんの切り身。


(……あれ、なんかおかしくないかい?)


 違和感と嫌な予感が頭をよぎる。

 だが、楽しそうな茉莉を前にツッコミを入れるタイミングを見失ってしまう。

 

 結局そのまま会計を済ませ、買い込んだ食材をビニール袋に詰めていると、茉莉が『あっ!』と思い出したように口を開いた。


「アレ買い忘れちゃった……!すぐ戻るから、あーくんは入口のベンチで待ってて!」


「えっ? あ、おい――」


 茉莉はくるりと振り向き、再び売り場へと戻っていってしまった。

 残された俺はずっしりと重い袋を手にぽつんと取り残されるのだった。




 ◇


 スーパーの入り口のベンチで待つこと、およそ五分。

 灰色のビニール袋を持った茉莉がこちらへ向かって歩いてきた。


「お待たせー♪」

「おかえりー。何買ったの?」

「……エナドリ♪」


 なんだ、エナドリか。

 さっきのスッポンといい、茉莉の食生活について興味が沸いてくる。

 まあ疲労回復にはいいのかもしれない。


 そうして茉莉は俺の隣にピタリと並び、重たい袋の取っ手を片方ずつ持ってくれた。



 他愛もない会話を交わしながら、俺と茉莉は再び夕暮れ前の帰路に就いた。

 特別深い話をしたわけではないけれど、不思議と心地がよかった。




 そしてこの日、蒼の貞操が危機にさらされる。


 ――そんなことは知る由もなかった。

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