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第五蒐集篇 『人形師の偏愛』 後編

※本エピソードには、虐待や性被害を想起させる表現、身体的にグロテスクな表現が含まれる上、社会的倫理を主として取り扱っていません。苦手な方はご注意ください。



 翌朝、カインはルルワの髪を梳いていた。窓に背を向けた白髪が明るく、こけた頬はまだ灯を消していないように暗かった。眉間の深い溝は、少女へ微笑みかけても消えなかった。


「やはり少し長い。こちらへ替えた方が、手が綺麗に見える」


 腕を支える指に、昨夜と同じ小さな傷があった。あの指はアベルの罅を通り過ぎた。今は傷ひとつない腕の上で、次に切り離すところを確かめている。盆を運んできたアベルの左手首には、黒い糸ほどの罅が残っていた。


 ルルワが袖を上げた。カインは新しい手首を横へ並べ、先生に角度を変えて見せた。俺にはどちらも同じほど白く、よく出来ているように見えたが、先生はモノクルを直して顔を寄せた。


「なるほど。手の甲へ移るところが違うんだね」


「こちらなら、肘からの線を邪魔しません。ですが腕そのものは、この長さが最も――」


「うん。綺麗だ」


 カインが腕を伸ばした。先生は手先から視線を上げ、肩口で止めた。ルルワが少し身を傾けると、二つの白の境に細い光が入った。


「私は、ここが好きだな」


「……そこですか」


「この白と、この白。片方だけでは、こうは見えないだろう」


 先生の指は触れずに引っ込んだ。その場所へ、ルルワが自分の指を置いた。


「私も、ここが好きです。こちらへ向くと、線が明るくなるの」


 昨日も聞いた言葉だった。カインは頷き、腕をいったん下ろした。それから替えの部品を取ろうと棚へ向かい、途中で足を止めた。先生に場所を譲ったため、椅子から三歩ほど離れていた。


 その肩越しに、俺にもルルワの全身が見えた。袖を上げたままの腕は、左右で白が違った。片方の肩が僅かに高い。削られた頬に光が滑り、左の眼窩は、そこだけ光を入れる深さがないように暗かった。新しい小指が古い四本に添っていた。


 カインは棚に手をかけたまま動かなかった。ルルワが彼の方を向くと、髪の下の継ぎ直した線まで現れた。先生はまだ肩口を眺めていた。


「……いや。手首です」


 誰も返事をしなかった。カインは箱を持って戻り、替えの手首を当てた。少し離れて見る。戻って角度を変える。今度は先生の立っていたところまで回った。ルルワは腕を伸ばしたまま待っていた。


「これでは、腕が短く見える」


 別の箱が開いた。古い型らしい腕は、今の肩に近い乳色だった。ルルワの腕に沿わせると白の差が薄れ、その代わり、肘から手先へ落ちていた線が途中で鈍った。カインは元の腕を撫で、古い方を箱へ返せず、台に置いた。


 青い硝子眼が二つ出てきた。左の空洞の前へ一つを翳し、右目の隣にも置いてみる。青い眼はよく似合った。ただ、それを見ると、今ある紫の深さが分からなくなった。カインは青を下ろし、また上げた。


「これは、綺麗だった」


 彼は右の紫を見た。言い直すように唇を開き、何も言わずに閉じた。小指を替えるための細い鋏が出てきたが、刃は開かなかった。頬に引いた鉛筆の線は、引いた本人の親指で擦り消された。


 俺は時計を見た。朝食の皿を下げに来たアベルが、冷えた茶も持っていった。戻ってきた新しい茶が冷めるまで、カインは箱と椅子の間を行き来していた。交換されたものはまだ一つもなかった。


「どれも、美しい」


 カインは新旧の腕を並べた。その二本から目を離せないまま、椅子を引いて座った。


「美しいものしか、使っていないのに」


 指先には、さっき消した鉛筆の黒が付いていた。彼はそれをルルワの頬へ近づけ、汚れに気づいて止めた。布は膝の上にあった。指を拭けばいい。俺までそこを見ていたが、手はいつまでも宙にあった。


 昼過ぎ、カインは戸棚から酒を出した。グラスを置いたのは、部品を並べる白布の上だった。底が引っかかり、酒が薄く広がった。近くの筆の柄が濡れ、肘に押されて床へ落ちた。


 アベルが拾った。食事の盆を脇へ置き、筆を洗い、新しい布を出した。カインはグラスを持ち上げたが、布を替える手は出さなかった。俺は椅子の後ろから声をかけた。


「少し、召し上がった方が」


 返事はなかった。アベルが皿を近づけると、カインの目がその顔へ上がった。鼻先の色が擦れた、いつもの薄い眼だった。少年は皿を持ち、父が受け取るのを待っていた。


「……そんな目で見るな」


 グラスの底が卓を打った。アベルは答えなかった。皿を置いても顔は下げなかった。俺はカインを見、それからもう一度アベルを見たが、どの目のことを言ったのか分からなかった。


  挿絵(By みてみん)


 夕方、先生は帽子を取った。カインは椅子から動かず、ルルワの袖には朝からの折り目が残っていた。俺が先生の外套を渡さずにいると、袖を通すための手がこちらへ伸びた。


「……このまま置いていくんですか」


「今日は帰ろうか、神崎君」


 先生は工房をもう一度見た。視線が止まったのはルルワだった。俺は外套を持ち上げた。戸口で振り返ると、カインはルルワを、アベルはカインを見ていた。扉が閉まるまで、誰も言葉を継がなかった。


     *


 手紙は四日後、蒐集館へ届いた。封筒の宛名だけは読めた。中の紙には署名も挨拶もなく、折り目を越えて文字が続いていた。右の余白から逆さに入り込んだ一行を、俺は紙を回して読もうとした。回す前には読めていた文字が、今度は別の行へ繋がった。


 白を 白が 私の前の前

     まだ二本ある 昨日の肘から

 小さな馬を 車輪の片方だけ父 父を廻すな

 石盤は朝であったから鉛筆の 膝 違う

 拾う 拾った私を削ってまだ書ける

 美しい腕だ この腕は この腕でなら白が

     仕上げる

 違う 消すのは黒 だけのはず 白まで返せ

 靴下の中へ木馬の昨日 私が小さいころは

   ころは ころは 右を向いて眠る義手

 机の下の鉛筆を母の 母という字に足首が

 削った 削っていない 屑が巻いた髪を拾って

       お前の眼は机だった

 左を返せば右の朝がない 青い 青いまで戻れ

 美しい義体 義体の字はどこに置いた 白い

 箱から指だけ眠り 私が先に書かれていた

   石盤いっぱいの爪に 誰の は

     責任

   の車輪を買った なかった 綺麗な脚だ

 昨日は明日より細い 細い腕には昨日を嵌めるな

 白 白 その間の消し忘れだけがこちらを

 上は私であった 下の鉛筆をまだ私と呼んで

   紙の膝を折ると 折った方に子供がいる

 鳴らない馬 鉛筆の馬 美しいから箱に戻せない

 ここへ お前たちが 机の下は朝まで乾かない

        見届けろ

 眼から書くな 字が見る 見ていた腕は私では

 きれいだ 違う きれいだ 違う方を箱に

 箱へ入らない白を 閉める 閉めたところから

   まだあの玩具の脚が 私の袖にはないのに

 石盤の裏にも窓を描いた 帰らなかった朝の

 鉛筆は 白い脚だけ帰ってきます 綺麗だった

     明日はそこにいた そこだけを

 白くない 白が そこだけまだ


 紙の下端には、最後の「まだ」がもう一つあった。そこから筆圧だけが裏へ抜けていた。俺は最初の行へ戻った。腕の話をしていたはずが、どこかで書く手を取り替えられている。読む順番を変えても戻らなかった。


「これ、なんですかね」


「さあ。意味が言葉から逃げ出したのかな」


「逃げ出したって……」


「君にも覚えがあるだろう、藤四郎」


 俺は紙の縁を握っていた。文字と物の境が水に溶け、意味を掴もうとするほど自分の手が文章の中へ入っていった、あの時の感触が戻った。今ここで、そのときのことを喋りたくなかった。先生は俺の指の下からそっと紙を引いた。


「仕上げるつもりらしいね。私たちに見届けろと。責任も、あるらしい」


「そう書いてありますか」


「そう読めるところはある」


 先生は紙を畳みかけ、折り目の文字を見て広げ直した。俺が行くのかと尋ねると、もちろん、とすぐに返った。


「カインさんが心配なんですか」


「いや?」


 先生は不思議そうに俺を見た。


「完成するんだろう?」


     *


 再び工房へ入ったとき、まず靴底に白い粉を感じた。硝子眼の箱は開いたままで、青い二つのうち片方が綿から落ちていた。作業台の染みは茶色く乾き、その上に短くなった鉛筆が何本もあった。


 アベルが俺たちの外套を受け取った。煤けた金髪にも白い粉が付いていた。床に転がる空瓶を足元から除けると、少年は黙って拾った。奥にもう三本あった。


 カインの黒い上着は肩から滑りかけていた。頬は前よりこけ、白髪の間から覗く耳だけ妙に大きかった。俺たちを見た目は、いったん背後へ抜けてから戻ってきた。


「……来たなら、そこで見ていろ。終わるまで」


 ルルワは作業台に横たわっていた。衣装は外され、肩と脚を布で覆ってある。胸元から腹へ続くビスクの殻に、鉛筆の線が何本も引かれていた。消された灰色の帯の中を、濃い線が一つ下り、途中で枝分かれしていた。


 脇の紙にも同じ形があった。初めの方は肩や指の小さな写しだったが、端へ行くにつれ線ばかりになっていた。重なりすぎて黒くなったところには、紙が擦り切れた穴があった。いつ、どの線から始めたのかは、俺には分からなかった。


 カインはルルワの肩口に指を置いた。耳の後ろへ移し、今度は新しい小指の付け根をなぞる。それから、線を引かれた胴の中央へ手を戻した。


「私は此処へ帰る」


 先生は台の向こうへ立った。カインはその返事を待たず、鉛筆を取った。


「これが無くては、かえれない」


 彼は線を一本消した。胸元の印からもう一度引き、途中で曲げ、止まって肩を見た。下へ向かう線を僅かに外へ膨らませる。先端は左右で揃えなかった。ルルワの右目が、近づいた彼の手を追っていた。


 アベルが水の鉢と、細い穿孔具を出した。カインは布を口元に結び、印へ砥粒と水を置いた。先を押し当て、ゆっくり回す。硬いものを擦る音が続き、水が乳色に濁った。一度引き上げて粉を流し、また同じ場所へ戻す。小さな穴が、ようやく向こうへ抜けた。


 次の穴も、その次も、同じように開いた。俺は台が揺れぬよう端を押さえた。指を動かすと、古い木の角が掌へ食い込んだ。カインは穴と穴の間を細い鋸で繋いだ。砥粒を足すたびに音が低くなり、やがてまた乾いて高くなった。


 最初の細長い欠片が外れた。アベルが下へ敷いた布ごと受け取った。切り口の奥に暗い空間が見え、ルルワの胸元から腹まで、白い殻が大きく開き始めた。


 カインはすぐには次を切らなかった。顔を横へ倒し、切り口の影を見た。鉛筆で残りの線を引き直す。俺には、今のままでも充分に大きな傷に見えた。だが彼は腹へ近い方をもう少し広げ、片側にだけ白い張り出しを残した。


 窓の明るさが変わっていた。アベルが水を替えた回数を、途中から数えなくなった。カインは鑢を求めるために一度その顔を見上げた。薄い眼と目が合った。鑢を受け取った手は、そのまま切り口へ戻った。


 粗い縁が少しずつ斜面になった。内側を薄く削ったところでは、白が透けそうに明るくなり、すぐ隣の厚い部分は古い骨の色をしていた。カインは濡らした研磨材を当て、幾度も拭って確かめた。片方を磨けば、もう片方の影が濃く見えた。


「この白も、違いますね」


 ルルワが言った。指しているのは、今削り出されたばかりの縁だった。


「ああ」


 カインはそこを塗り直さなかった。細い折り返しをもう少し残すか迷うように、鑢の先を置いた。離す。別の角度から見る。最後は先端をほんの僅か落とした。白い粉が水に混じって、アベルの受ける布へ垂れた。


 最後の白い粉が縁から落ちたとき、俺は息を飲んだ。そして猛烈な吐き気を催して、思わず手で口元を覆った。ルルワの胸元から腹へ、大きな女陰が開いていた。


 それは花にも見えた。次に顔を動かすと、乾く前の濡れた傷だった。縁の一部が内へ折れ、別の一部は外の光を受けていた。閉じようとする形と開こうとする形が、一枚の硬い殻の中にあった。


 少女の形をしたものに与えられたのは、母胎への入口であり、生まれ得なかった者たちが渇望する出口であった。


 最後の粉が払われた。カインとアベルがルルワを起こし、椅子へ座らせた。俺は震える拳を、しばらく開けずにいた。


 左目はない。紫の右目の下を削られた頬が流れ、白の違う腕が脇へ下りていた。あちこちの継ぎ目が、今は胸腹部の開いた縁へ続いて見えた。肩にあった細い光が、身体の真ん中で深い影になっていた。


 凄惨だった。目を逸らそうとして、もう一度、正面へ戻った。


 なんとおぞましく、美しい。


 俺は先生の顔を見るのが嫌だった。カインが鑢を置いた。ほかの道具に手を伸ばさず、指を開いたまま言った。


  挿絵(By みてみん)


「……できた」


 窓の外で枝が鳴った。ルルワは肩を動かし、胴に落ちる影を右目で見下ろした。カインはその前へ膝をついた。開いた縁に顔を寄せ、しばらく奥を覗いていた。


 俺にも中が見えた。乾いたビスクの内側だった。外からは見えなかった、焼かれたままのざらつきがある。奥へ粉が少し残っていた。カインは筆を取った。柄を差し入れ、底に触れたらしい。小さな音が返った。


 筆を抜く。見る。もう一度差し入れる。先生は何も言わなかった。ルルワの胸の中で、硬く、浅い音がした。


 カインは筆を持ったまま立ち上がった。椅子にぶつかり、腰を下ろした。ルルワの髪が片方の肩へ落ちた。切り口にひと筋かかっていたが、彼は払わなかった。


 アベルが筆を受け取ろうとした。指はなかなか開かず、少年が柄をそっと引くと、するりと抜けた。カインの手は同じ形で膝に残った。道具がなくなったことに、まだ気づいていないようだった。


     *


 アベルは父の肩へ上着を掛け、冷めた皿を下げてきた。新しい食事が置かれても、カインは顔を上げなかった。少年はその傍へ立ち、父の袖を摘んだ。布だけが僅かに持ち上がった。


「君はどうするんだい」


 先生が尋ねた。アベルはカインを見ていた。


「僕はここにいます」


 袖を摘む親指の爪が欠けていた。初めて泊まった夜、あの灯の下で触れられていた爪だった。


「最期まで見届けます」


 俺はその顔を見た。何か言おうとして、どんな声なら邪魔にならないのか考えた。考えている間に、ルルワが先生の帽子を持ってきた。衣装は自分で着たらしく、襟の片方が内へ折れていた。


「私も行きます」

 

「君も来るかね」


「はい」


 ルルワは父の返事を待たなかった。椅子の傍を通ったとき、カインの目が少し動いた。それだけだった。アベルが扉を開け、俺たちは三人で外へ出た。


 来た道を戻る間、ルルワの歩みに合わせて足を緩めた。先生も同じ速さで歩き、時折、彼女の横顔を眺めていた。


「先生。人をあまり煽てないでください」

 

「煽ててはいないよ。素晴らしい仕事だった」

 

「そこが問題なんです」

 

「何がだい?」


 先生は俺の返事を待った。ルルワの髪が風に持ち上がり、耳の後ろの細い線が見えた。俺はその光を目で追ってしまい、言い損ねた。


   *


 蒐集館へ戻ると、ルルワは俺たちの茶碗を下げた。翌朝には箒の場所を尋ね、その次の日には、俺より先に書斎の窓を開けていた。棚の上へ手が届かず、台を持ってこようとしたので、俺が代わりに埃を払った。


「ルルワ、そっちの布を」


 呼ぶと、布はすぐに渡された。ただ、名前の方には小さく首を傾げた。


「その名前、あまり好きではありません」

 

「じゃあ、何と呼べばいい?」


 彼女は箒の柄に両手を置いて考えた。俺も幾つか挙げたが、どれにも頷かなかった。決まるまでは呼ぶ前に顔を見ることにした。片方だけの眼がこちらを向けば、用は足りた。

 ルルワには、黒い制服が与えられた。彼女はそれをたいそう喜び、胸に大きな穴を開けた。


 それから数日後、先生の机へ目録を運んだときだった。開いた窓の下に、紫がちらついた。庭石の脇の土から、小さな花が幾つも出ていた。


「菫が咲き始めてますね」

 

「……菫」


 窓辺で雑巾を絞っていた彼女が、手を止めた。右の硝子眼に庭の光が入った。長いこと花を見て、それから俺を振り向いた。


「それがいいです」


 俺は目録を開いた。ルルワの名に細い線を引き、横へ菫と書いた。墨が乾くまで、彼女は机の傍で待っていた。


 翌朝、先生の姿が見えなかった。書斎には読みかけの本と、まだ温かい茶があった。俺は廊下へ出て、窓の掛金を上げている白い手を見つけた。


「菫、先生を見なかったか」

 

「先ほど裏庭へ行かれました」


 また余計なことをしているらしい。俺は外套を取りに戻った。菫は開けた窓の縁を拭いていた。袖が少し上がり、二つの白の境が朝日に光った。


 俺は以前、先生にこの人形は生きているのかと尋ねた。結局、答えは出ていない。


 だが今となっては、それで構わない。


 蒐集館には、菫という人形の女中がいる。


ルシアン先生の蒐集余話――人形と身体

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