目録小噺『虫干し』
梅雨が明けて三日目、蒐集館は朝から本で埋まっていた。空は水気を使い果たしたように青く、庭では洗われたばかりの葉が光っている。そこから返る緑の照りが、開け放した障子を越えて畳の上まで来ていた。
書庫の障子をすべて開け、棚から下ろした本を畳から縁側まで並べる。乾いた風が頁を撫でるたび、紙と埃と古い糊の匂いが入れ替わった。長く閉じられていた本には、それぞれ異なる季節の空気が挟まっているらしい。冷えた蔵の匂い、誰かの指に移った香油、遠い土地で吸い込んだ煙。頁がめくられるごとに、過ぎた時間がごく薄く室内へ戻ってきた。
いつもは柱と壁を兼ねている書棚が空になると、部屋は妙に広い。棚の暗い升目が幾つも口を開けている。骨を抜かれた獣の腹へ入り込んだようで、あまり居心地はよくなかった。
菫は窓際へ膝をつき、柔らかな刷毛で本の小口を払っていた。刷毛が紙を撫でる音に交じって、指の関節が時折かすかに鳴る。灰青の着物の袖口から、色の違う白い手首が覗いていた。片方だけの紫の硝子眼には庭の緑が入り、もう片方の空洞には書棚と同じ涼しい影があった。
「神崎さん。こちらは日へ当ててもよい本ですか」
「表紙が褪せる。風だけ通してくれ」
「はい」
俺が言い終える前に、菫は本を日陰の列へ移した。この館へ来てまだ日は浅いが、仕事を覚えるのは早い。朝になれば窓を開け、茶を運び、俺が何も言わなくても書斎から読み終えた本を回収する。今では廊下の向こうから聞こえる彼女の足音も、柱時計と同じほど館の日常へ馴染んでいた。
少なくとも、書棚から抜いた本を窓辺へ積み上げたまま煙管へ火を点ける館主よりは、遥かに頼りになる。
先生は縁側の籐椅子へ腰かけ、俺たちの働く様子を眺めていた。白地の単衣は袖と裾だけが紺の波模様で、白髪交じりの頭を夏の日が淡く透かしている。片眼にはモノクル。傍らの小卓には冷茶と灰皿があり、膝の上には開きもしない本が一冊載っていた。
「先生も手伝ってください」
「手伝っているとも。君たちだけでは、休憩の時刻を忘れるだろう」
「その役は時計で足ります」
先生は涼しい顔で煙を吐いた。菫はどちらの味方もせず、次の本を開いている。実に賢明である。
俺は革装の詩集を一冊取り上げた。頁の間へ風を入れようと開くと、細長い革の栞が畳へ落ちた。濃い茶色で、先には金の小さな房が付いている。拾おうと指を伸ばしたところで、その背がぱかりと二つに割れた。
割れ目の内側から、金と青緑に光る翅が開いた。
栞は六本の細い脚で立ち上がり、低く唸るような羽音を立てた。そのまま俺の手を避け、書庫の中央を横切っていく。飛んだあとには、ひと筋だけ色が残った。夏の日を受けるたび、革の背が紫に、翅が銅色に変わった。
「……先生」
「うん」
「虫が出ました」
「虫干しだからね」
「そういう意味ではありません」
先生が笑いを含んだ声で返した、その時である。
ぱち。
背後で音がした。次いで、ぱち、ぱちぱち、と書庫の方々から乾いた音が上がった。和綴じ本から白い紙の栞が這い出し、蜉蝣のような薄い翅を広げる。赤い組紐は房を尾のように引きずり、針ほど細い胴で空中を泳いだ。押し花の栞などは、透けた花弁をそのまま四枚の翅にしている。
ぱたたたた、と一斉に飛び立った。
「窓を閉めろ」
俺が立ち上がるより早く、菫が開いた障子の前へ回った。俺は天井へ逃げた革の一匹を払い布で追い、書棚の上へ着地した紙の虫を両手で包んだ。翅を閉じた途端、掌に残ったのは薄い和紙の栞だった。脚も触角もない。裏返すと、古い墨で『百二十七頁』と書いてあった。
百二十七頁を開いて戻そうとしたが、先ほどまで何の本に挟まっていたのか分からない。
「先生。見ていないで捕まえてください」
「見ているから、捕まえられないのだよ」
「理屈になっていません」
結局、竹の平ざるを二枚持ち出し、捕らえたものから縁側へ並べることにした。翅を畳んだ栞虫は、どれも栞にしか見えない。ところが日へ当てて温まると、もぞりと身じろぎ、背をぱかりと開こうとする。
俺は革の一枚を指で押さえた。
「飛ぶな」
栞は聞く耳を持たず、指の下でぶうんと震えた。
「神崎さん。こちら、裏も干しますか」
菫は白い紙の一匹を摘まみ、俺へ見せた。表には押し花が貼られ、裏には畳まれた翅らしき筋が浮いている。
「……干しておこう」
「虫を?」
「俺にももう分からん」
菫は頷き、栞虫を裏返した。紙の翅を透かした日が、畳へ細かな文字の影を落とす。読もうと目を凝らすと、風に揺れてすぐに崩れた。菫は気にせず次の一匹を並べる。分からないことを分からないまま扱う点では、彼女は俺よりこの館の仕事に向いているのかもしれない。
昼を過ぎる頃には、逃げ回っていたものもおおかた平ざるへ収まった。先生はその間に三度ほど椅子の位置を変え、二匹を袖へ止まらせ、一匹を冷茶の杯から救い出した。それを手伝いと数えるべきかは、目録のどの欄にも書きようがない。
「先生は、こういうものを見ても驚きませんよね」
「驚いているよ」
「見えませんが」
「驚くことと、否定することは別だからね」
先生は平ざるから、最初に飛び出した革の一枚を取った。指先へ載せられたそれは、日の下では大人しい栞に戻っている。
「神崎君。これは何だい」
「栞でしょう」
「虫ではなく?」
革の端から、触角が二本だけ出た。俺は少し考えた。
「……虫でもあります」
「なら、それでいいじゃないか」
「よくありません。栞なら本へ戻しますが、虫なら書棚へ入れたくない」
「ほら。名前を一つ決めただけで、扱いまで決まってしまう」
先生の指の上で、栞虫が触角を振った。自分が本へ戻されるのか、窓から追い出されるのか、その二本で測っているように見える。
「名前は便利だが、便利なものは存外乱暴でね。頁へ挟まっていた時の顔だけで、これの全部を知ったことにはなるまい」
「では、目録には何と書けばいいんです」
「欄を増やしたまえ」
言うと思った。
既存の分類へ収まらないものが現れるたび、この人は嬉々として世界の方を広げる。その結果、苦労するのは目録を預かる俺である。
「見えるものが増えて、碌な目に遭った覚えがありません」
先生は一瞬、目を丸くした。
「ははっ」
次いで、声を立てて笑った。
「ははっ。そうだろうね」
普段の先生はよく笑う。客を迎える微笑も、珍品を値踏みする時の笑みも、俺の機嫌を取るための柔らかな顔も知っている。だが、今の笑いはそのどれでもなかった。不意に零れた声が存外明るく、縁側の板まで一緒に鳴った。乾いた頁のあいだを風が抜け、部屋じゅうの本が微かに応える。
笑われたのは俺である。それなのに、その声が耳へ残ると、胸の内側が少しだけ浮き上がった。笑顔の違いなど知らなければよかったのだ。知ってしまったものは、見なかった頃へ戻せない。甚だ面白くない。
「美しいものが増えるなら、まだ割に合うんですが」
「美しいものなら痛くないと思っているのかい?」
先生は革の栞を陽へ翳した。
もぞりと背が割れ、内側から翅が開く。初めは金だった。傾けると青緑が金を呑み、縁から紫が差した。さらに角度が変わると、どの色とも名づけられない光が一瞬だけ現れた。夏の日を薄い二枚へ閉じ込め、こちらの眼へまとめて返してくる。
眩しいのとは違う。鮮やかさが眼の奥へ細い針のように入り、胸骨の裏まで届いた。息をするのを忘れた俺へ、先生は栞虫を向けたまま言った。
「ほら」
それだけだった。
栞虫が翅を閉じる。光は消えたが、刺さったものはしばらく残った。傍らで見ていた菫の硝子眼にも、先ほどまでなかった金と青緑が沈んでいる。彼女が瞬きをすると、それも消えた。
「清一君なら、これをどう書くだろうね」
先生は茶を一口飲み、もう一度、革の背を眺めた。
「先生ならどうするんです」
「私は作らないよ。持って帰る」
「もう館の中です」
「では、私の机まで持って帰ろう」
「俺は?」
「君は書いておきたまえ」
先生はそれ以上何も言わず、革の一枚を自分の袂へ入れようとした。
「勝手に持っていかないでください。どの本の栞か、まだ分かっていません」
「分かったら返すとも」
「分からなければ先生のものになる言い方ですね」
俺は帳面を取り、日付を書いた。分類欄で筆が止まる。栞。虫。革製品。収蔵品。いずれも正しく、いずれも足りない。ひとまず観察事項から書こうと、平ざるへ目を戻した。
一匹が、翅を開いていた。
「……あっ」
ぶうん。
玉虫色の光が俺の鼻先を掠め、開いた障子へ向かう。続いて紙の翅がぱちぱちと立ち上がり、組紐がざるの縁から身を乗り出した。
「神崎君、記録の前に捕まえたまえ」
「先生も手伝ってください!」
菫が黙って障子を閉めた。木枠の触れ合う音が、書庫と青空をひとまず切り分ける。逃げ場をなくした栞虫たちは、干された本の上を夏の光のように飛び回った。金や紫の小さな影が開いた頁を横切るたび、印刷された文字はほんの一瞬、別の文章のように読めた。




