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第六蒐集篇 『夢を患う』

 雪の上に、黒い洋傘が開いていた。


 一本ではない。低いもの、高いもの、風へ傾いだものが、見渡すかぎり白の上へ浮いている。傘の下にはそれぞれ歯があった。人の背丈ほどある臼歯の溝へ雪が積もり、尖った犬歯だけが黒い布を突き抜けていた。俺はそれらの間を、濡らしてはならない本を胸に抱いて歩いていた。


 足の下で畳が沈んだ。踏みしめるたびに藺草の目から雪が噴き、足跡の四角い窪みへ傘の影が溜まった。遠くの海は垂直に立っていた。空の途中まで濃い緑の水が続き、その向こうを軍靴が泳いでいる。片方ずつ、靴底をこちらへ向けて。鋲の列には小さな泡がついていた。


 汽笛が鳴ると、傘が一斉にこちらを向いた。


 首切り坂の上に耳が建っていた。いつもの館より幾分大きく、軟骨の縁に蔦が這い、耳朶へ玄関灯が吊られている。灯は消えていたが、奥の穴からは明るい声がした。


「神崎君」


 俺は本を返しに来たのだった。戸口へ足を入れると、両側に書棚があった。棚には濡れた鳥が並んでいる。みな嘴を上にして翼を畳み、互いの胸を押し合っていた。胸に抱いていたものも鳥だった。親指の下で心臓が鳴っている。戻す場所がないので一羽抜くと、空いた隙間から夜がこぼれた。


 黒いものは棚板を伝い、俺の爪先へ落ちた。ぱしゃり、と足を取られる。踝まで沈んだ水の下に、俺がいた。こちらより白い顔で見上げ、何か言おうと口を開いた。その口から赤い椿が出てきた。濡れた花弁が歯を一枚ずつ覆い、最後の一枚が開くと、先生が向こうから手を差し出した。


 その手へ届くために、俺は袖を濡らした。水は肘の上まで来た。先生の爪に触れる寸前、五本の指の先が白く裂け、細い根になった。根は俺の手首を一周し、脈のあるところから皮膚の下へ入った。痛くはなかった。ただ、入ってきた長さが分かった。腕を過ぎ、肩を過ぎ、首筋を上って、右の耳の奥で丸くなった。


 ぬる、と動いた。


「先生、耳の中に何か――」


 暗い天井があった。布団の中で、片腕だけが外へ伸びていた。


 息を吸うと寝間着が胸へ貼りついた。喉がからからだった。手首を握り、指で皮膚を押してみたが、汗のほかには何もなかった。どこかで鳥が鳴いたように思った。何を見たのだったか。手を伸ばしたことだけは覚えている。その手の先を思い出そうとするうちに、指も、水も、何か赤かったものも、暗がりの中でほどけていった。


 枕元の水を飲んだ。硝子の縁が歯へ当たり、思いのほか大きく鳴った。


 右の耳の奥だけが、妙に冷たかった。


     *


 翌日、同じ本を三度、違う棚へ戻した。


 三度目には、背へ貼った番号を声に出して読んだ。それでも手を離した途端、何か違う気がした。引き抜こうとして、隣の一冊まで落とした。受け止めるには間に合ったが、厚い角が掌へ食い込み、遅れて指が痛んだ。


 床に別の手が伸びた。先生は落ちた栞を拾い、俺の持っている本へ挟んだ。濃紺の袖が革表紙をかすめる。銀白の髪に窓の光が細く乗り、片眼鏡の下の皺が、こちらを見上げて少し寄った。


「神崎君。近頃、眠れていないね」


「……夢見が悪いだけです」


「どんな夢だい」


「覚えてません」


「毎晩?」


「毎晩です」


 口にすると、随分間の抜けた訴えだった。何も覚えていないものに、毎晩疲れさせられている。寝る前には充分に眠い。横になるとすぐ眠る。それなのに朝になると、布団の中で夜通しどこかへ運ばれていたように、肩も背中も重かった。


 先生は本を受け取り、自分で棚へ戻した。


「一度、診てもらおう」


「寝不足くらいで」


「その寝不足が、君の仕事まで始めている。放っておくと目録を書きかねないよ」


 言い返す元気もなく、俺は棚の番号を見た。今度は合っていた。


 出掛ける前、洗面台の鏡を覗いた。大柄な男が、狭い鏡の中へ首を折るようにして顔を入れていた。寝癖のついた黒髪、白目の目立つ眼、その下には、元からあった隈へ誰かが墨を足したような影。水で顔を洗っても、その影だけが乾かなかった。


     *


 館の内側のベルが鳴ったあと、玄関の向こうから薬草を煎じる匂いがした。


 石畳はまだ濡れていた。雨上がりらしく、軒先の硝子瓶に細い水の筋がある。広くはない通りの両側へ、医者の看板と薬屋の暖簾が続いていた。二階の窓から白い包帯が干され、その下を、籠に卵を入れた女が歩いていく。向かいの店では薬包を畳む音がしていた。


 夢下し。一服八銭。


 硝子戸の内側に貼られた紙を、二度読んだ。隣には夢散らしとあり、そちらは値が書いていない。


「あれで済むんじゃありませんか」


「胃へ落ちたものならね。君はどこが悪いのか、まだ分からない」


 どこが、と言われて右耳へ手が行った。先生はそれを見たが、何も言わず、一軒の戸を開けた。


 待合の長椅子には、手首へ湿布を巻いた老人と、眼に黒い布を当てた娘が座っていた。奥で男が咳をした。続いて看護婦らしい声が、まだ肺に残っていますね、と言った。娘は付き添いの女へ、目を開けると知らない駅へ着くのだと小声で話していた。女は慣れた手つきで、娘の膝から落ちかけた巾着を直した。


 俺は膝の上で手を組んだ。爪の間は綺麗だった。朝、あれほど念入りに洗ったのに、指先にはまだ、何か濡れたものを持っていた気が残っていた。


 呼ばれて入った診察室には、背の低い医者がいた。胡麻塩頭を短く刈り、丸眼鏡の片方が少し下がっている。白衣の袖口は丁寧に折られていた。机の上の砂時計を返してから、俺の手首を取った。


 脈を数え、舌を見て、瞼を上げる。胸へ当てられた聴診器は冷たかった。夢を見るのはいつからか、食事は取れるか、熱はないか。問われることは普通だったので、答えているうちに少し気が抜けた。


  挿絵(By みてみん)


 最後に、右の耳が冷たいと話した。医者は耳鏡を取り、俺の顔を横へ向けた。


「ああ。いますね」


「……何がです」


「夢です」


「夢?」


「かなり奥にいます」


 先生の椅子が鳴った。


「見ても?」


「どうぞ。奥の白いところです」


 俺の耳の後ろで二人が入れ替わった。見えないところを他人同士で譲り合われるのは、どうにも落ち着かない。先生は幾らか屈み、ほう、と息を漏らした。


「こんなところへ貼りつくのか」


「夢蛞蝓です。食った夢をまた吐きますからね。居つかれると、だんだん夢が濃くなる」


「取れるんですか」


 俺が訊くと、医者はもう鉗子を選んでいた。


「取ります。右を上にして、そちらへ寝てください」


     *


 診察台は俺には少し短かった。膝を曲げ、左の頬を枕へつけた。白い枕布から、日に干した匂いがする。その清潔な匂いと、今聞かされたものとが、同じ頭の中へうまく収まらなかった。


 医者が耳の下へ布を差し入れた。器具の触れ合う細い音がした。目を動かすと、先生の帯と、そこから下がる片眼鏡の鎖が見えた。近い。


「……先生、見ないでください」


「どうしてだい」


「俺の耳ですよ」


「知っているよ」


「知ってるなら見ないでください」


 先生は少し横へずれた。見物に具合のいい場所へ移っただけだった。


 耳の穴へ金物の冷たさが入った。医者が頭を動かさないようにと言い、俺は台の縁を掴んだ。親指のつけ根へ力が集まる。すると先生の手が俺の手の下へ布を一枚挟んだ。縁の革が軋む音は止んだ。


 ずる。


 音は耳の外ではなく、頭蓋の内側だった。


「ああ、掴めました」


 返事は出来なかった。歯を噛み合わせると、掴まれているものまで噛んでしまう気がした。口を僅かに開けたまま、枕布の織り目を見ていた。


「少し長いですね」


「長い?」


 ずる、ずる、ずる――。

 痛みよりも、まだ続いていることが嫌だった。耳の奥へ、濡れた袖を裏返しに引き抜かれるような感触があった。引かれるたびに、冷たさが少しずつ外へ移っていく。医者の肘はもう、俺の眼の届く場所にはなかった。


 最後に、吸いついていたものが離れた。


 べちゃ、と器へ落ちる音がした。


 医者は耳をもう一度覗き、布で外側を拭った。もう起きていいと言われても、しばらくは枕から頭を上げられなかった。右側の音だけが広くなっていた。窓の外で荷車が通る。その車輪の一つ一つが聞こえるようだった。


 起き上がると、脇の台に膿盆があった。白い琺瑯の内側で、半透明のものが幾重にも折れ重なっていた。俺の耳へ入るには幅も長さも足りない。いや、足りないのは俺の耳の方だった。


「これですね」


 眼らしいものはなかった。白濁した背を透かして、内側の暗い筋が見えた。筋は身体の曲がりと関係なく動き、ときどき薄紅のものを押し流した。端がゆっくり持ち上がり、膿盆の縁を探った。そこへ医者が硝子の棒を添えると、ぺたりと巻きついた。


「ずいぶん肥えてますよ」


 俺は耳を押さえた。そこに詰まっていたのだということと、つい先刻まで俺がこれを入れたまま本の番号を読んでいたことが、順番にやってきた。


 先生は片眼鏡を掛け直し、膿盆の上へ顔を寄せた。


「いただいても?」


「どうぞ」


「ダメです! これだけは、絶対!!」


 待合の方で咳が止まった。医者の手も止まった。先生だけが、残念そうに俺を見た。


「神崎君。せっかく、これほど綺麗に取れたのに」


「取れたから嫌なんです。俺から取れたんでしょう」


 瓶へ入る。棚へ並ぶ。番号が振られる。目録を書くのは俺である。採取地の欄へ自分の右耳と記し、夢蛞蝓一体、状態良好などと書くのか。さらに客が来れば、先生はあの上機嫌な声で言うのだ。これは神崎君の耳から出た夢でね、と。嗚呼、最悪だ。


 ヴィヴィアンという名前まで頭へ浮かんだので、俺は強く首を振った。空になった耳の奥がふわりと揺れた。


「処分してください。今、ここで」


 先生は俺の顔を見て、それから膿盆を見た。硝子棒へ巻きついたものは、自分が揉め事の種だとも知らず、ゆっくり下へ垂れている。


「分かったよ。これは諦めよう」


 先生が膿盆から手を引いたので、ようやく俺も診察台の縁を離した。


     *


 医者は棚から小さな壺を出した。蓋を取ると、白い粒が見えた。


「……塩?」


「ええ」


「蛞蝓だからですか」


「蛞蝓ですから」


 さらさらと、乾いた音がした。


 背へ乗った塩が濡れ、粒の角を失った。蛞蝓は片端を縮めた。縮めたところから白濁が薄くなり、内側を動いていた筋が、急に広い場所へ出たようにほどけた。肉の厚みがなくなっていく。医者は硝子棒を外して別の皿へ置いた。棒の先には何も残らなかった。


 膿盆の底へ液体が溜まった。


 窓の光を受けたところだけ、青い。それを追って眼を動かすと、もう赤かった。赤の底に、花弁に似た丸みが一枚あった。見覚えがあると思うより先に沈み、次には、細かな白が底一面へ散った。雪だったかもしれない。黒い点がその上へ並び、並び終わらぬうちに流れた。


 息を止めていることに気づいた。あの夜も、こんなふうに息を止めていた。ただし、何を恐れていたかは戻らなかった。


 琺瑯の縁に薄い土色がついた。弾痕の並ぶ斜面にも見え、寝巻の皺にも見えた。光の筋が横切ると、そこを黒い靴が通った気がした。目で追うと、もうただの薄い緑だった。暗い廊下があった。廊下の先へ小さな灯が点り、灯の下を銀色のものが過ぎた。


 先生の髪と同じ色だった。


 俺は顔を上げた。先生はそこにいて、膿盆の底を見ていた。窓の明るさがその頬へ落ちている。液面にも同じ明るさがあったので、どちらを先に見たのか、一瞬分からなくなった。


「これは、まだ生きているんですか」


「いいえ。残っているのは夢です」


 医者は壺の蓋を閉めた。蛞蝓の輪郭はどこにもなかった。あれほど嫌だった濡れた背も、縁を探る端も、消えていた。


 匙一杯ほどしかない。なのに底の青を見ていると、椅子へ腰を下ろしたまま、ずっと遠くへ眼だけが行った。指を浸してみたいと思い、そう思った自分に驚いた。右耳へ触れた指を、そのまま膝へ戻した。


 先生が外套の内側を探った。小瓶の触れ合う音がした。


「……先生」


「神崎君。これは蛞蝓ではないよ」


「駄目です」


「まだ何も言っていないだろう」


「言わなくても分かります」


「夢そのものだよ」


「俺の夢です」


「うん」


「駄目です」


 先生は小瓶を出しかけた手を止めた。俺はその手を見ていた。細い指だった。節の皺も、爪の際の僅かな赤みも、今日はひどくはっきり見えた。


「藤四郎」


 返事をしそうになって、唇を閉じた。


 その呼び方をする時、先生は声を大きくしない。かえって少し低くなる。館のどの部屋から呼ばれても聞き分けられる声が、今は椅子一つ分の距離にあった。さっきまで右耳の中で擦れていたものとは違って、その声には、来た場所があった。


 俺は膝に置いた手を握り直した。先生は待っていた。こちらの機嫌が変わるところを、標本の色が変わる時と同じように、見逃すまいとしている気がした。


「……ずるいですよ、先生」


「もらってもいいかい」


 俺は膿盆を見た。小さな灯がまた底へ点っていた。帰り着いたことのある灯に見えたが、どこの窓かは分からなかった。これを先生が見るのだと思うと、処分してくださいという言葉が出にくくなった。それはそれで腹立たしかった。


「客間へ置くのは駄目です」


「うん」


「人を呼んで、これは何だと思う、などと訊くのも」


「しないよ」


「俺がいない時でもです」


 先生は頷いた。俺はもう少し条件を探したが、探している間も、先生の手にある空の瓶を見てしまった。


「……他人様に見せないなら、いいですよ」


「では、これは僕だけのものとして仕舞っておこう」


 先生は小瓶を机へ置いた。底が木に触れる、かすかな音がした。


 俺は畳んでいた上着を取り、まだ着なくてもいいのに肩へ掛けた。襟の陰へ隠した右耳が熱かった。綺麗になったばかりの耳まで、先生に見られたくなかった。


「それならいいだろう?」


「……はい」


 医者が小さな硝子の漏斗を持ってきた。膿盆を傾けると、夢は縁へ集まり、細い口を通って瓶へ落ちた。あの斜面も、海らしい緑も、灯も、何ひとつ引っ掛からなかった。最後の一滴だけが琺瑯へ長く留まり、それからふっと離れた。


 先生は瓶を明るい方へ向けた。中には、色とも景色とも決められないものが揺れていた。栓をする指の下で、暗い赤が一度だけ開いた。


     *


 その晩は、枕へ頭を置いたところまでしか覚えていない。


 次に眼を開けると、障子が明るかった。汗はかいていなかった。寝間着の袖も胸元も乾き、布団の重さが、掛けた時のまま身体の上へあった。耳の奥へ何かを探すように意識を向けてみた。遠くで箒の音がしただけだった。


 朝食のあと、先生の書斎へ行った。昨日の瓶は展示棚にはなかった。先生は机の浅い引き出しを開け、畳んだ布の間へそれを寝かせた。中で僅かな白が動いた。こちらへ瓶を掲げて見せることも、名前をつけろと言うこともしなかった。


 俺は持ってきた小さな紙へ、『夢 一瓶』とだけ書いた。乾くのを待って差し出すと、先生は瓶の脇へ置いた。引き出しを閉める直前、俺はその手を止めた。


「……蛞蝓まで一緒に仕舞ったら怒りますからね」


「まだ疑っているのかい」


「先生ですから」


 先生は笑って、引き出しを閉めた。俺の耳には、その小さな音がよく聞こえた。


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