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第七蒐集篇 『迷える三角形のレディメイド』


 背表紙を揃えると、書庫の奥まで細い影が一本通った。その影の真っ直ぐなことに、俺は少しだけ気をよくしていた。


 机の上には、まだ戻していない本が三山ある。先生が読みかけたもの、読み終えたもの、読むつもりで別の本の下へ置き忘れたもの。どれも同じように開かれ、煙草の灰や押し花を挟まれているので、区別するには本人へ訊くほかなかった。そして訊いたところで、棚へ返す許しが出るとは限らない。


 今日は先生が書斎にいるうちに、所在の確かなものだけでも片付けてしまうつもりだった。


「神崎さん。どこまで行けば、終わりなのですか」


 菫が、本の山越しにこちらを見た。淡い金髪を耳の後ろへ寄せているので、紫の硝子が入った右目と、左の空洞とがよく見えた。白い前掛けをつけた小さな身体の、袖から出る手首だけが少し青い。掌に載せた辞書を傾けぬよう、肘まで使って支えていた。


「全部の本が、あるべきところへ収まるまでだ」


「そこへ行けば、終わりなのですね」


「……そういうことだ」


 俺は辞書を受け取り、上の段へ差し込んだ。菫には届かないが、俺には背伸びも要らない高さだった。身体が大きくてよかったと思うことは、この館へ来てから増えた。


 手を下ろしたところで、棚の下から踵が出た。


 裸足だった。親指の爪が少し黄色く、踝の上には、履き古した足袋を脱いだあとのような窪みがある。それが床を探り、ぺた、とついた。もう一本が続いた。二本の脚の上へ、薄い植物図譜がすっくと立った。


「……菫」


「はい」


「あの本、昨日まで脚なんかなかったよな」


「ありませんでした」


「だよな」


「立派ですね」


「脚の感想を聞いたんじゃない」


 植物図譜は俺の脇を抜けようとした。捕まえて持ち上げると、生温かい踵が手首を擦った。思わず取り落としそうになったが、装丁を傷めるわけにもいかず、両脇を押さえて棚へ戻した。図譜はそこで膝を曲げ、次の瞬間にはまた降りてきた。


 隣の随筆集からは、血管の浮いた細い脚が伸びていた。重い薬学書は子供のような丸い足をぶら下げている。俺が一冊を戻す間に二冊が降り、机の向こうでも、ぺた、ぺたと音がし始めた。内容から脚を推測するのは早々に諦めた。推測の必要そのものを認めたくなかった。


 ひときわ重い足音が戸口へ向かった。


 黒革の分厚い本だった。菫が持つには重すぎるので、あとで俺が運ぶつもりで床へ置いていたものだ。逞しい脛を交互に出し、敷居を跨ぐ。床へ積んだことが気に入らなかったのかと思ったが、廊下へ出た本は、わざわざその真ん中へ座った。


 表紙の両側から腕が出た。成人の男の腕だった。肘を引き、指を脇へ差し入れ、両膝を外へ割って胡坐をかく。俺たちが追いつく頃には、もう何年もそこでそうしていたような恰好になっていた。


「神崎さん」


「なんだ」


「落ち着きましたね」


「そこで落ち着かれると困るんだ」


 革の背を掴んで持ち上げようとした。動かなかった。脛へ手を掛け直し、腰を落として引いた。自分の肩と背中に力が入るのが分かった。菫も反対側を持ったが、本の膝は床から離れなかった。


「お前……っ、本だろうが……!」


 腕がさらに深く組まれた。


「本のくせに俺より踏ん張るな!」


「何をしているんだい」


 顔を上げると、先生がいた。濃紺の着物に薄い羽織を重ね、銀白の髪をいつも通り撫でつけている。書斎から持ってきたパイプを片手に、片眼鏡の向こうで、実に楽しそうにこちらを見ていた。


「見れば分かるでしょう!」


「本と相撲を取っている」


「分かってないじゃないですか!」


 先生はしゃがんだ。年齢の出た長い指で膝を包み、本と同じ高さになる。


「ここがいいのかい?」


「先生、本に訊かないでください」


「でも、ここまで歩いてきたんだろう?」


「そうですけど」


「では、何か用があるんじゃないか。この場所に」


「廊下ですよ」


 本は答えなかった。腕の下で、頁の小口が細かな白い層を作っていた。俺はその層へ指を入れようとして、やめた。本を傷めてまで退かすのでは、何のために本を片付けているのか分からない。


 先生がパイプを窓台へ置いた。


 その時、本の腕がほどけた。


 ばさり、と表紙が開いた。


 白い頁に、黒い道があった。三本に分かれた道の先が細くなり、指先で隠せそうな遠さへ続いていた。その遠くから風が来た。紙の匂いがした。俺の額へ落ちた黒髪が、廊下の窓とは反対へ吹かれた。


「……先生」


「うん」


「本の中に道があります」


「あるねえ」


「閉じていいですか」


「待ちたまえ」


「嫌です」


 手を伸ばすより先に、頁がめくれた。一枚の下から同じ道が現れ、それがまた剥がれ、下の道へ重なった。重なるたびに風が強くなった。俺は先生の袖を掴んだが、先生も一緒に前へ傾いた。爪先が床を離れた。


 背中で布の裂ける音がした。菫が俺の羽織を掴んでいた。小さな足が床を滑り、膝の継ぎ目が敷居へぶつかった。


「菫、離せ!」


「ですが」


「お前まで来るな!」


 指が離れた。俺は先生の袖を握ったまま、白い方へ落ちた。背後で本の閉じる音がした。




 掌の下は、乾いていた。


 指の腹を擦ると、かすかな毛羽立ちがあった。砂ではない。白い地面だった。顔を上げても白が続き、果てのあたりで薄い青へ触れていた。雲はなかった。身体を起こすと、先生が半歩先で羽織を直していた。


「菫は」


「向こうだね。君が離させたから」


 俺は息を吐いた。指がまだ先生の袖を握っていた。離すと、細かな皺が一本、腕の長さに沿って残った。


 爪先のすぐ先を、黒い道が通っていた。遠目には髪ほど細かったが、そこへ立てば二人並んで歩ける。縁に草も溝もなく、黒が白へじかに接している。その縁だけが、ときどき微かに滲んでいた。


 道は少し先で三つに分かれた。さらに先にも三叉路があり、曲がり角を結ぶ線が、寸分違わぬ正三角形を作っていた。隣にも、その隣にも。同じ大きさのものが並ぶかと思えば、遠くには、いくつもの三角形を納める大きな三角形が見えた。


 来た場所を振り返った。穴も、開いた本もなかった。俺が手をついていたあたりだけが、他の白より少し白く見えた。


「どちらへ行きます」


「まずは、こちらへ」


 先生は右を選んだ。俺も続いた。右へ曲がったはずなのに、次の辻へ出る時には、先ほど左へ延びていた道が背後にあった。振り返ると、通ってきた線は真っ直ぐだった。足の裏には確かに曲がった時の重みが残っていた。



 鳥が飛んでいた。九羽、と数えた。正三角形の三辺へ等しい間隔で並び、そのうち一羽が横へ抜けた。空いたところを左右の鳥が詰める。三角形は崩れなかった。もう一度数えると九羽いた。抜けた一羽は、まだ群れの外に見えていた。


 俺は立ち止まった。頂点から数え直しているうちに、三つの小さな群れが重なり、一つの大きな三角形になった。どの頂点を一羽目にしたのか、分からなくなった。


「几帳面だねえ」


 先生は眩しそうに目を細めた。


 ちりん、と風鈴が鳴った。軒も、家もなかった。空にも何も吊られていない。聞こえた方へ首を向けると、そこには俺たちがこれから歩く道だけがあった。




 辻を一つ過ぎた。次の辻にも、三本の道があった。




 右手の白い地面が、むくりと起き上がった。


 低い丘だと思っていたものだった。その下から二本の脚が出て、左右の膝が順に伸びた。上に腹も胸もない。腰紐で括られた白いステテコが、それだけで山ほどの高さに立っていた。縫い目が遠い川筋のように曲がり、膝下の毛が、疎らな林に見えた。


 もう一着が立った。さらに向こうでも白が折れ、長い裾が垂れた。地面と布の白が同じなので、動き出すまでどれだけあるのか分からなかった。列になったステテコは、黒い道をまとめて跨ぎ、何もない方へ歩いていった。風がこちらへ届く頃には、先頭の裾はもう遠かった。


「先生」


「なんだい」


「あれは道を使わないんですね」


「ステテコだからね」


「理由になってませんよ」


 俺も道から足を下ろしてみた。白はちゃんと体重を受け止めた。二、三歩進んでも、沈みも破れもしない。道へ戻ろうとすると、黒い線が今度は前にあった。先生はその上で俺を待っていた。俺は跨いだ覚えのない線を、もう一度跨いだ。


  挿絵(By みてみん)


 半ズボンの裾が、日に透けていた。


 そこから出た少年の膝は擦りむけていた。少年は両手に紐を持ち、缶の上へ足を載せて歩いていた。からん、からんと、道とは関係のない間隔で鳴る。片方の缶がへこんでいるので、そちらだけ音が低い。


 俺の肩ほどだった頭が、先生の頭より高くなった。見上げるほどになっても、膝の擦り傷は同じ赤さだった。



 紐を握っていた手が、今は二本の竹を握っていた。竹馬の先が白へ刺さった。少年は棒を握り直し、ひょいと片足を出した。長い竹の影が黒い道を横切る。どちらも細く真っ直ぐなので、足元を見ると、道が一本増えたようだった。


 俺はその影を踏まないように歩いた。踏まなかった理由は、自分でも分からない。


「……先生」


「うん」


「本にもステテコが必要では」


「どうしてだい」


「脚が裸でしたから」


「なるほど」


 口を閉じた。先生は真面目な顔で頷いていた。しばらく歩いてから、俺は立ち止まった。


「神崎君?」


「先生。今、俺は何を言いました?」


「本にステテコを穿かせる相談だね」


「忘れてください」




 少年は走っていた。手にした棒の先で、輪が転がっていた。輪の内側へ、遠くの木が一瞬収まった。一本きりの若い木で、根元に幼児がしゃがんでいた。子供の手が地面へ触れるところまでは見えたが、何を拾っているのかは分からなかった。




 輪が走っていた。棒も、少年もいなかった。輪は倒れず、道の縁を舐めるように進んだ。転がる音はしなかった。



 からん、と、さっきの缶の音がした。




 三つの車輪が、空の座席を運んでいた。小さな三輪車だった。後ろの二輪が黒い線を外れ、片方だけ白へ乗っても、座席は傾かなかった。漕ぐ足のないペダルが回っていた。


 俺は上着の内から帳面を出した。輪、と書いて、続ける語を探した。三輪車と書けば、その前の輪をどこへ置けばいいのか分からない。別の行へ書く間に、前輪だけが急に遠くなった。



 自転車の荷台で革鞄が揺れていた。


 乗っているのは郵便屋だった。詰襟の古い制服を着て、裾を留め、両手で把手を握っている。首から上は白鷺だった。長い嘴の先が進む方を正確に指し、羽毛の白い頬には、人の顔より静かな黒い眼がついていた。


「すみません」


 鷺の頭がこちらを向いた。自転車は止まらなかったが、俺たちのすぐ横を通るまで、妙に時間があった。


「ここから外へ出る道は――」


「郵便ですか」


「違います」


「では、失礼」


 ちりん。


 俺は把手のあたりを見た。鈴があったかどうか、もう確かめられなかった。鞄は遠ざかり、三叉路の一つへ消えた。




 木は左にあった。


 今は枝いっぱいに青葉をつけ、その下に少年が立っていた。輪回しをしていた子供より、少し背が高いように見えた。こちらへ顔を向けているのに目鼻は判然としない。ただ子供だということだけが、指の本数などよりもはっきり分かった。


 俺は木を目当てに道を選んだ。次の角を曲がれば近づけるはずだった。ところが道は木の手前で横へ逸れ、曲がった先では、木が右側に立っていた。


「あの木、さっきは左にありませんでしたか」


「あったね」


「今は右ですよ」


「あるねえ」


 先生に異存がないことだけは分かった。


 今度は黒い道を離れ、木へ真っ直ぐ歩いた。白い地面が続いた。足元に何もないぶん、見ている木だけが近づくはずだった。だが百を数えた時にも、その下の少年は同じ大きさだった。先生の足音が右から聞こえた。そちらを向くと、俺たちは別の三叉路へ着いていた。


 青葉の一枚が赤くなっていた。


 帳面へ簡単な地図を引いた。三角形を一つ、隣にもう一つ。木の印をつけようとして、鉛筆が止まった。道のどちらへ描いても、紙を顔の方へ傾けた途端に違って見えた。


 先生は俺の帳面を覗き込んだ。


「よく似ているね」


 俺は紙の白いところから目を上げた。目の前も、同じ白さだった。




 木の葉が赤くなるまでに、俺たちは三つの辻を過ぎた。


 下に立つ者は青年になっていた。幼児が育ったのか、別の誰かが来たのか、顔を見分けられない俺には言えなかった。肩の幅と腰の高さだけが、先ほどの少年とは違う。青年は片手を幹へ添えていた。指が触れたあたりから、一枚の葉が落ちた。


 木が左へ移っても右へ移っても、それを見る時には、そこが眺めの真ん中になった。道の先を見ていたはずの眼が、気づくと赤い葉へ戻っている。俺は帳面を閉じ、今度こそ近づいて、何という木か確かめようと思った。


 地面が暗くなった。


 雲の影かと思った。見上げると、空いっぱいに白い弧が重なっていた。弧の縁には縫い目がある。黒く塗られたところがたわみ、白いところが膨れた。ひとつひとつが家ほどもある模様の向こうに、丸い眼があった。その眼の端を見るために、俺は首だけでは足りず、身体ごと向きを変えた。


 空の下を、大きな口が通った。


 中は空洞だった。向こう側の青が、遠い筒の底に見えた。風がそこへ入り、長い身体を持ち上げた。あの重なった弧は鱗だった。二つに分かれた尾が、俺たちの頭の上を、ゆっくり払い過ぎた。


 鯉のぼりだった。


 竿も綱もなかった。地上のステテコが小さく見えた。布で作られた腹が空を押し、口がさらに高い方を向いた。水のないところで、滝を登るように身体を立てる。尾が下へ垂れ、その先で、淡い青が激しく皺になった。


 先生は顔を上げたまま歩いていた。俺も足を止められなかった。見えなくなる前に、腹の模様の端まで見たかった。鯉はどこまでも昇り、口が小さくなっても、尾の方はまだ頭上に残っていた。


 頂点で、ぱん、と鳴った。


 腹の縫い目から光が出た。裂けたと思った部分には、もう布がなく、白いものが青へ散っていた。赤も、黒も、金色もあった。どれも小さな紙片になり、落ちる速さを探すように、ひらひらと空を漂った。


「……先生」


「なんだい」


「今のは何だったんですか」


「鯉のぼりだろう」


「それは見れば分かります」


 先生の頬を、一枚の赤い影が過ぎた。先生はそれを追って目を動かした。口元の皺が深くなった。俺にはまだ、布の腹の中へ吹き込んだ風が、自分の胸の中に残っていた。




 白い紙片が落ちてきた。


 一辺が折れ、折れた端が裏へ回った。黒い角が立った。落ちる途中で二つの脚が開き、胸の前へ細いものが添えられた。帽子の庇が眼のあるはずの場所を暗くした。銃剣の先だけが、まだ紙の白さを残していた。


 靴先の少し向こうへ、玩具の兵隊が降りた。


 かち、と踵を揃えた。


 次の一体が隣へ降り、同じ音を立てた。背丈は俺の脛ほどだった。紙の薄い端が襟に見えていたが、立った身体には硬い艶があった。触れれば木の音がしそうだった。無数の兵隊が同じ方向へ顔を向ける間、誰の声も聞こえなかった。


 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ。


 揃った歩幅が俺の足元を通った。膝が勝手に伸びた。次の一歩を同じ足で出しかけて、俺は遅らせた。遅らせた方の踵が妙に重かった。


 兵隊は黒い道を歩いていた。白い方へは一体も出なかった。三叉路に先頭が着くと、その一体が止まり、後ろも同時に止まった。間隔は詰まらなかった。道の上から足音だけが引き抜かれた。



 同じ姿勢で、全員が立っていた。




 隊列は三つに分かれた。一列は俺たちの横を戻り、二列は左右へ進んだ。次の辻でも三つに分かれた。流れはどちらへも等しく続き、遠くでは黒い線そのものが這っているように見えた。俺は自分の足を置く隙間を探してから、白い方へ退いた。


 木の葉はすっかり落ちていた。裸の枝の下に、壮年の男がいた。片手を腰へ当て、もう一方を幹へついている。肩が先ほどより幾分下がっていた。白い土地には落葉が見当たらなかった。


 俺は木の根元から眼を離さず、次の辻まで歩いた。何か変わるなら、そのところを見ていようと思った。枝先へ小さな芽がついていく。男の背は少しずつ丸くなった。どちらが先だったかを確かめるために、眼を上下させねばならなかった。


 足音へ、車輪の軋みが交じった。


 鷺頭の郵便屋が向こうから来た。同じ革鞄に見えた。兵隊はその進路を横切っていた。玩具の銃剣は自転車の輪まで届く高さで、どちらも止まる気配がなかった。俺は口を開いた。





 郵便屋はこちらへ走ってきた。


 向こうでは兵隊が行進していた。前輪にも、革鞄にも、何も挟まっていなかった。俺は開いた口を閉じられず、舌の上へ乾いた風を受けていた。


「神崎君」


 先生の声で、顎を戻した。


 郵便屋が通り過ぎたあとに、缶の低い音がした。振り返ると、巨大なステテコの列がまだ地平を歩いていた。後ろの一着だけが立ち止まり、片足を上げていた。その裾の中を三角形の鳥が抜けた。鳥は抜けた先で位置を変え、元と同じ形に並んだ。


 胃の底が、少し持ち上がった。


 目の前にはちゃんと道があり、遠くにはちゃんと物があった。輪の縁も、鷺の嘴も、見間違えようのない明瞭さだった。それらを見た順に頭へ置こうとすると、さっきの場所が空いていなかった。新しい輪を入れると、前の輪が転がり出した。



 目を閉じた。




 開けた。


 道は三本あった。俺はそれだけ確認して、少し安心した。何に安心したのか、自分でも分からなかった。


「少し休むかい」


「いえ」


「顔色が悪いよ」


「元からです」


 先生は返事をせず、俺の歩幅へ合わせた。俺はそれを感じながら、木を見た。幹の下には老人がいた。手を添える高さが低くなっていた。曲がった指も、痩せた首も見えるのに、顔だけは見えなかった。枝には青い芽が膨らんでいた。


 俺は帳面を開いた。三角形の隣に、輪、と書いてあった。その先は空いていた。何を書き足しても、さっき見たものを消すことになる気がした。鉛筆を挟んで閉じると、指に汗がついていた。


 歩く。道が分かれる。また歩く。黒い線の向こう側へ出るたびに、さっきよりよく見えるものが一つあった。老人のいた場所へ小さな影が残り、次の辻ではその影も消えていた。木には葉が増えた。人がいないことを、初めて近く感じた。




 ちりん。



 俺は先生の袖を見た。風の向きは変わっていなかった。




 木の下に幼児がいた。


 しゃがみ、何かを拾っていた。最初の子供に似ているとも、似ていないとも言えなかった。若い枝がその頭の上へ影を差していた。あの木にどうにか辿り着けば、立っている者の顔を見られる。そう思っていたはずなのに、今は立っている者さえいなかった。


 俺は辻で止まった。三本とも、先が見えた。どこにも通行を遮るものはなく、今まで選んだ道も、それぞれちゃんと次の辻へ続いていた。行き止まりへ出たことは一度もなかった。


「……先生」


「うん」


「もしかして俺たち、もう着いてるんじゃないですか」


「どこへ?」


 俺は黒い道を見下ろした。靴の下で、その線は少しも動いていなかった。


「……辿り着けないところに」


 先生が辺りを見渡した。遠くで輪が走り、鳥は正三角形のまま飛んでいた。木の葉の間に幼児の頭が隠れた。先生は頷きもしなかった。ただ、しばらく眺めていた。


 俺は自分の言ったことを、もう一度頭の中でなぞった。言い直すところは見つからなかった。言えたことで気分がよくなることもなかった。


「で、先生」


「うん」


「帰り道は?」


 先生は三本の道を順に見た。最後に、俺が立っている方を見た。


「先生?」


「困ったねえ」




 館でのことは、あとで菫に聞いた。


 本は閉じたまま廊下の真ん中に座っていた。腕を組み、胡坐をかき、菫が通る時にも膝を引かなかった。ただ、内側から俺たちの話す声が聞こえていたので、菫はそばでしばらく待っていたそうだ。こちらの声へ返事をしても、返事はなかったという。


 やがて菫は仕事へ戻った。書庫で倒れた本を拾い、先生のパイプを窓台から書斎へ運び、茶の支度をした。夕陽を少量移した小さな器も、その盆へ載せた。海辺から持ち帰ったものを、先生は時々、紅茶へ落として飲んでいた。


 廊下へ出ると、やはり本がいた。菫は横を通ろうとした。本の張り出した膝を避け、身体を壁へ寄せた時、盆の端が壁に当たった。


 器が滑った。菫はそれを受け止めた。


 中身の方は、受け止められなかった。




 白い地平の端に、橙色がついた。


 小さな染みだった。縁が枝分かれしながら広がり、幾つもの三角形へ同時に触れた。黒い道を横切っても止まらなかった。地面の細かな毛羽へ、一本ずつ明るさが吸われていった。


「……先生」


「うん」


「日が暮れます」


「そうだね」


「さっきまで、暮れなかったでしょう」


「ああ」



 俺は自分の影を見た。さっきまで靴の近くにあったものが、白の上へ長く延びていた。先生の影と斜めに交わり、そこだけ少し濃くなった。暖かい色が足元へ来た。海辺で嗅いだ、煮つめた果実のような匂いがした。


 空の青は上の方へ寄った。巨大な白いステテコの裾が橙になり、その裏の皺へ紫が溜まった。鳥の列は一辺から暗くなった。玩具の銃剣にも、輪の片側にも同じ色が乗った。木の下には少年がいた。その顔を見るには、もう暗すぎた。


 俺は立っていた。先生も立っていた。足を進めなくても、橙は向こうから来た。白い地面の端が湿り、さらに遠くで、紙を重ねるような乾いた音がした。葉はまだ枝で揺れていた。三本の道は、三本のまま足元へ続いていた。


 日が暮れる。


 それを見ているうちに、俺はようやく、膝が疲れていることに気づいた。先生の横顔にも夕陽が当たっていた。銀白の髪が赤く透け、目尻の皺がいつもより深く見えた。その頬が暗くなった。色は地面の方へ沈み、最後には道と白い土地の区別もつかなくなった。


 夜が来た。


 何かを掴もうとした手へ、先生の袖が触れた。その布の感触が分かったところで、足元がなくなった。


     *


 尻から廊下へ落ちた。


 肩が壁へ当たり、そのあと先生の膝が俺の脛へ当たった。先生を支えようとして肘をつくと、板の継ぎ目が掌へ食い込んだ。見慣れた茶色の床だった。それを見ても、まだ黒い道の端に座っている気がした。


「……気持ち悪い」


「大丈夫かい」


「道が……まだ動いてる気がする」


「ここは館だよ」


「分かってます。分かってるんですけど……」


 菫の前掛けが目の前にあった。膝をついて俺を覗き込み、紫の目を少し傾けた。左の眼窩はいつも通り暗かった。その暗がりが別の何かにならないことを、俺はしばらく確かめていた。


「申し訳ありません。夕陽をこぼしました」


 すぐ横に本がいた。閉じた小口へ橙の染みがついていた。胡坐は崩れていない。菫が布を差し出したので、俺は片手を上げた。


「……しばらく、そのままでいい」


 先生は先に立ち上がった。羽織の埃を払い、裾を直し、膝のあたりを一度撫でた。手は空だった。俺のそばへしゃがんで顔を覗く時にも、まだ外の明るさが目に残っているようだった。


「思いがけず、良い散歩になったね」


 俺は床を見ていた。


「神崎君?」


「俺は具合が悪いんですよ」


「それはいけない」


「誰のせいだと思ってるんですか」


「本じゃないかな」


「先生が『待ちたまえ』って言ったからでしょう!」


 大きな声を出したら、余計に気持ちが悪くなった。先生の差し出した手を借りて立った。廊下の先に椅子があった。そこまで歩くと椅子は近づき、手を伸ばせば背へ触れた。俺はそこへ座った。先生は椅子をもう一つ寄せた。


 菫が水を持ってくる間、二人とも何も言わなかった。窓の外で葉が擦れた。水の入った硝子を受け取ると、その向こうに映った俺の顔はひどいものだった。元から白目の目立つ眼がさらに据わり、隈の下まで青かった。先生はそれを見て、今度は散歩の感想を控えた。


     *


 三日経つと、廊下を歩いても道が増える感じはしなくなった。


 書庫の本も、棚へ戻せるものは戻した。例の黒革の本だけは、どうにもならなかった。夕陽の染みは乾き、小口の一角を淡い蜜色に変えていた。手を触れなければ、頁は開かなかった。俺は手を触れずに脇を通ることにした。


 その朝、菫が畳んだ白い布を持ってきた。


「神崎さん」


「なんだ」


「本のステテコができました」


 俺は布を見た。腰紐が二本、きちんと揃えて外へ出してあった。左右の裾も縫われていた。冗談で置いてあるものには見えなかった。菫は白い布の角を直した。


「採寸しておきましたので」


「聞こえていたのか」


「はい」


「どこまで」


「本にもステテコが必要では、から」


「忘れてくれ」


 菫は少し考え、出来上がったものをもう一度見た。


 俺たちが廊下へ出ると、本はいつもの場所にいた。菫がその前でステテコを広げた。しばらく何も起こらなかったが、俺が諦めて戻りかけたところで、片膝がほどけた。菫は片方ずつ足を通し、裾を引き下ろした。本が腰を浮かせた間に腰紐を回し、腹に相当する表紙の下で結んだ。


 床から離れたのだから、今なら退かせるのではないかと思った。


 思っている間に、本はまた胡坐をかいていた。


 白い木綿に覆われた膝が廊下へ張り出していた。大きさはぴったりだった。腕は組まれ、裸足の指が片方の裾から少しだけ覗いた。通れる幅を測るように、俺は本と壁の間を見た。


「……もういい。そこにいろ」


 本は何も答えなかった。


 菫が裁縫箱を持って横を通り、俺も続いた。背後で足音はしなかった。本はそこにいた。






『好事家ルシアンの蒐集館』 蒐集余話――マルセル・デュシャンとレディメイド

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