第八蒐集篇 『口伝怪談』 前編
千代子は、俺の珈琲が来るより先に勘定を済ませていた。
「兄様のお時間を頂くのですもの。これくらいは、わたくしにさせてくださいまし」
そう言って、口金のついた小さな財布を膝へ仕舞った。細い指が袂を直し、そのあとでようやく俺の顔を見た。黒髪を結った後ろに、淡い黄のリボンが覗いている。鼻筋のすっきりした、色の白い娘だった。俺と同じ家に生まれたにしては、目の下に隈もなければ、人を睨む癖もない。もっとも、千代子に言わせれば俺は睨んでいるのではなく、物を深く見ているのだそうだ。
「手紙にも書いたが、今は給金を貰っている」
「存じております。ですから今日は、お祝いに」
「もう何月も経つ」
「それでは、続いていらっしゃるお祝いに」
何を言っても千代子の勘定になる。卓の下で窮屈な膝をずらすと、向かいの藤色の袴が少し揺れた。千代子は笑いを堪えていた。兄を招いて一杯奢るというだけのことが、よほど嬉しいらしかった。
学校の近くにあるカッフェだった。硝子戸の金文字が逆向きに卓へ落ち、砂糖壺の陰で途切れている。休日の午後で、客はまばらだった。千代子は演奏会の稽古の合間に、俺をここへ呼び出したのである。休みの日まで学校へ通うくらいなら家で休めばいいと思うが、そう言うと、兄様こそお休みにならないから、と返ってくるに決まっていた。
珈琲と一緒に、焼菓子が二つ運ばれてきた。頼んだ覚えはなかった。
「昼は食ったぞ」
「ええ。何を召し上がりました?」
「飯と、汁と、魚だ」
「まあ、ようございました」
千代子は本当にほっとした顔をして、菓子の皿を俺へ寄せた。食っていた場合にも菓子は来るらしい。俺は諦めて一つ取った。妹の前では、食事と睡眠について少しでも口ごもると、その先が長い。
「ルシアン先生には、一度きちんとお礼を申し上げなければなりませんね」
「俺は働いているんだ。預けられているんじゃない」
「はい。兄様がお仕事をなさりやすいようにしてくださる方へ、お礼を申し上げたいのです」
俺は菓子を噛んだ。甘い粉が上顎へ貼りついた。千代子はそれ以上言わず、匙の先で自分の珈琲をかき混ぜていた。小さな渦の底へ、窓の光が巻き込まれていく。
「わたくしも、いずれは自分のお金で、こういうことをしたいと思っております」
「今のは違うのか」
「今は、父様から頂いたお金です。まだ威張れませんの」
威張っていた自覚はあるようだった。俺が顔を上げると、千代子は匙を受皿へ揃えて置いた。
「お嫁に行けば食べさせて頂けるから、学問もお稽古も程々でよいと、よく言われますでしょう。でも、わたくし、自分の食い扶持くらいは自分で稼げるようになりたいのです。誰かに養って頂けなければ暮らせないのは、心細うございますもの」
琴を教えるにしても、語学を身につけるにしても、人から金を貰えるほどになるには今のままでは足りない。千代子はそのことを、俺よりよほど真面目に考えていた。出来るかどうかは別として、悪い心掛けではない。
「それは、いいんじゃないか」
「兄様なら、そう仰ってくださると思いました」
千代子はぱっと顔を明るくした。その喜びようを見て、俺も少し気が緩んだ。妹にまで、家にいる上の兄たちを見習えと言う必要はない。
「自分で暮らしてゆければ、お慕いする方にお金がなくても困りませんでしょう」
珈琲を飲む手が止まった。
「……そこへ行くのか」
「ええ。わたくし一人が食べられるようになったら、もうお一人分、工夫をすればよろしいのです」
「一人と二人は違うぞ」
「ですから、今のうちから勉強をしております」
筋道は、本人の中ではきちんと通っているらしかった。千代子は菓子を小さく割り、欠片を落とさずに口へ運んだ。所作の端から端まで躾が行き届いている。その真ん中にある考えだけが、どうも家の者の予想した場所にない。
「働く気のある男を選べば済むだろう」
「働くのがお上手な方ばかりでもございません。お手紙はあんなに美しくお書きになるのに、郵便をお出しになるお金がない、という方だって」
「手紙を書く前に働けばいい」
「でも、お手紙は読みたいでしょう?」
俺の読みたいものを勝手に決めないでもらいたかった。
上の兄たちはどうかと、試しに聞いた。千代子は、もちろん御立派です、と即座に答えた。答えてから、珈琲の縁へ唇を寄せた。その先の言葉が出るまでに、少し間があった。
「ただ、わたくしがいなくても、何一つお困りにはならないでしょうね」
「ならない方がいいだろう」
「そうでしょうか。お顔が綺麗で、少しお寂しそうで、本をお読みになるうちに夕飯をお忘れになるような方なら、わたくしが帰るのを待っていてくださる気がいたします」
皿に残った二つ目の菓子を、俺は見た。千代子は何も言わず、それをまた少しこちらへ押した。
「千代子。お前、男を見る目が悪いぞ」
「あら。兄様のお顔は、わたくし、大好きです」
「俺の話はしていない」
「はい」
返事ばかりはよかった。
*
学校に、好きな絵があるのだと千代子が言い出したのは、そのあとだった。
古い校舎の二階、図書室へ曲がる手前に、若い男の肖像画が掛かっている。暗い洋服を着て椅子に腰を下ろし、片手を肘掛けへ置いている。黒い髪は耳の上で少しうねっていて、頬が痩せている。千代子は顔の輪郭を指で空中へ描きかけ、途中で恥じたように手を引っ込めた。
「唇の端が、ほんの少し下がっているのです。笑おうとして、おやめになったように」
「誰を描いたんだ」
「分かりません。学校へ絵を下さった方のお名前は、下の札にございますけれど。それがあの方なのか、描いた方なのか、先生に伺っても御存じありませんでした」
絵の隅にも名らしい文字があるが、黒ずんで読めないという。最初から学校にあったのではなく、どこかの屋敷から運ばれたものだと聞いた生徒もいる。千代子の同級生の母親が通っていた頃には、もう同じ廊下に掛かっていた。
「随分、詳しいな」
「好きな方のことは、知りとうございますもの」
「絵の話だろう」
「ええ」
千代子は不思議そうだった。俺は珈琲を飲んだ。冷めると苦味が下へ溜まっているようで、飲むほどに口が重くなる。
肖像画には、よくある噂がついていた。夜になると目が動く。前を通るたび顔が違う。惚れた女の夢へ訪ねてくる。ここまでは俺も聞き流していたが、いつの間にか、男に連れていかれた女学生が一人いることになった。
「死んだのか」
「お帰りにならなかった、と。けれど、あの方が連れていったのではなくて、娘さんの方から追っていらしたのだと仰る方もございます」
「誰が」
「上級のお姉様です。その方は、卒業なさったお姉様から伺ったと」
死んだという話もあった。女学生は夜ごと青年のもとへ通い、最後には二人で池へ入った。池ではなく井戸だという者もいる。学校の井戸は浅くて人など沈まないと反駁すると、今は埋められた昔の井戸だということになるらしい。
「二人とも死んだなら、夢に来るのは誰なんだ」
「あの方でしょう」
「女の方は」
「さあ。娘さんは、その後のお話には出てまいりませんの」
千代子は少し眉を寄せた。聞かせる者によっては、青年は女を騙していた。別の話では、女学生が相手の迷惑も顧みず押しかけていた。顔ばかり見ている愚かな娘だったとも、男狂いだったとも言われる。名字も学年も分からない女について、その性分だけは皆、よく知っていた。
「お友達のお母様は、もっと違うお話をなさったそうです。絵をご覧になるたび、泣いていた娘さんがいらした、と。それだけ。亡くなったとも、姿を消したとも仰らなかったんですって」
「それなら、まだありそうな話だ」
「わたくしは、待っていらしたのだと思います」
「誰が、誰を」
「あの方が、その娘さんを。だって、あんなふうに戸口を見ていらっしゃるのですもの」
千代子は窓の金文字へ目を向けていた。文字の向こうを、人力車の車輪が横切った。俺には見えない男の顔が、妹の前にはかなり細かなところまで見えているようだった。
「何度も見に行っているのか」
「はい。稽古の帰りにも。昼間は窓が明るくて、お顔がよく見えませんけれど、夕方は本当にお綺麗なのです」
「図書室へ本を借りに行くんじゃないんだな」
「本も借ります。こないだは、少し読んで差し上げました」
絵にか、と言いかけてやめた。千代子は幼い頃、庭の石燈籠にも留守の挨拶をする娘だった。俺が捨てようとした欠け茶碗に、可哀想だからと布団を作ったこともある。これは今に始まったことではない。
「そうすると、昨日より嬉しそうになさるのです。わたくしが帰ろうとすると、また、少しだけ」
千代子は口をつぐんだ。薄い陶器の取手を撫でていた指が止まっている。その指先を見て、俺は、一人でぼんやりしていると稽古へ遅れるぞ、と言った。
「分かっております。今日は七時に終わりますから、ちゃんと帰ります」
「随分遅いな」
「お迎えにいらしてくださいます?」
待っていたような早さだった。千代子の目が上がる。俺は明日の仕事を頭の中で数え、今夜でなければ済まないものがないのを確かめた。
「門で待っていろ。寄り道はするな」
「嬉しい。兄様と、今日は二度もお目にかかれますね」
本人には一度を引き延ばすための稽古であるかのようだった。俺が立つと、千代子も鞄を持った。硝子戸を開けてやると、袖が俺の手に触れた。細い織り目のある、温まった絹だった。
*
「絵に恋をした妹さんか。それは、会ってみたいねえ」
館へ戻って話すと、先生はすぐにそう言った。妹に会いたいのか、絵を見たいのか、どちらとも取れる声だった。窓辺の椅子で濃紺の袖を膝へ重ね、火の入っていないパイプを指の間で遊ばせている。モノクルの鎖へ、細い西日が留まっていた。
「昔からそうなんです。人の話を聞くと、その先を自分で作る。今回は顔が気に入っている分、余計に」
「どんな顔なんだい」
俺は千代子から聞いた通りに話した。話し終わると、先生はパイプを置いた。
「君は、その絵を見たことがあるのかい」
「ありません」
「私には今、かなりよく見えたよ」
先生の膝の上には書きかけの原稿があった。細かな文字の間へ、さらに細かな文字が差し込まれている。俺はそれを見て、妹の話を小説にするのはやめてください、と先に断った。
「まだ何も書いていないじゃないか」
「先生は書く時には断らないでしょう」
「では、今のうちによく聞いておこう」
まるで予防になっていなかった。俺は卓上の紙を端へ揃えた。千代子には適当なところで手を打たせなければ、夜の学校へ居残って、絵の男へ夕飯を運ぶようになる。そのあたりで話を切り上げるつもりだった。
「怖がっているわけではないんです。千代子の想像ですから」
先生は俺の手元へ目を落とした。紙の端は揃っていたが、一枚だけ角が折れていた。
「想像なら、どこへ置いておくんだい」
「どこ、と言われても。あいつの頭の中でしょう。実際に絵が喜んだり、寂しがったりしたわけじゃない」
「それは、まだ見ていないね」
俺は紙の角から手を離した。先生は火を点けようともせず、パイプの皿を指でなぞっていた。
「泣いた娘さんがいたとしよう。それを誰かが話した。次に話した人は、恋をしていたのだろうと思ったかもしれない」
「尾鰭がついたんです」
「うん。ずいぶん長いものがついた。それで、千代子さんはその顔を見に行く。今日、君を通って、ここまで来た」
先生は片手を軽く広げた。何も載っていない掌だった。俺はつい、その上を見た。
「元の話と同じではありません」
「そうだろうね。泣いた娘さんも、噂を聞いて見に来ていたかもしれない」
「では、どこまで遡ればいいんです」
「君は何を取り戻したいんだい?」
答えようとして、俺は口を閉じた。泣いた娘がいた。いなかった。絵は動く。動かない。それぞれを別の欄へ入れてしまえば、少なくとも俺の仕事は済むと思っていた。だが、千代子が椅子の上で指を止めたところは、どこへ入れるのだろう。妹はたしかに、あの男を一人で置いてきたような顔をした。
俺は椅子へ腰を下ろした。窓の外で庭木が揺れている。少し前まで、千代子の言う青年は、妹の頭の中にだけいると思っていた。今は俺にも、暗い袖の先へ置かれた白い手が浮かぶ。どの指の形も見たことがないのに、手がそこにないとは思えなかった。
「それでも、絵の前で誰かが泣いたことと、絵が人を連れていったことは、別でしょう」
「別にしておいていいんじゃないかな」
「先生は、繋げて話しているように聞こえます」
「両方あるかもしれないからね」
俺は黙った。机の角へ重ねた紙の、その一番上を取り直す。折れた角の内側に、さっきは見えなかった一字があった。伸ばしてみれば、ありふれた助詞だった。それ以上のものではない。俺は紙を置いた。
時計を見ると、出かける時刻になっていた。
「千代子を迎えに行ってきます」
「ああ。よろしく伝えてくれたまえ」
先生は原稿を膝から下ろした。もう一度、俺へ目を向けたが、何も付け足さなかった。俺は外出用の羽織を取りに行った。怪談の話をしに戻ったつもりはなかったのに、廊下を歩く間、学校の壁へ掛かった顔が離れなかった。
『好事家ルシアンの蒐集館』 蒐集余話――物語はどこから来る?
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