第八蒐集篇 『口伝怪談』 後編
その夕方のことを、千代子はあとで、絵を見に行っただけなのだと話した。
稽古は予定より少し早く終わった。門で待つまでに、まだ間があった。青年へ挨拶をして、図書室に置いた譜面を取ってくれば、ちょうどよいと思ったのだという。
「昼間、兄様のお話をして差し上げようと、思っておりましたの」
それを聞かされた俺は、知らないうちに自分の顔まで絵の中へ掛けられたようで、不愉快だった。
廊下には明かりがあったが、肖像画へはあまり届かなかった。千代子がその前へ立つと、いつもは椅子の後ろでぼやけている灰緑の壁が、奥まで見えた。窓もない部屋だと思っていたのに、青年の耳の縁に光が当たっていた。
千代子はもう帰るのだと告げた。兄が迎えに来るから、今日は一人ではないのだとも。
そこで、青年の手に気づいた。
彼が立ったかどうかは、覚えていないという。手はすぐ近くにあった。肘掛けまで伸ばすには長さの足りないはずの千代子の指が、相手の指先へ触れた。陶器とも布とも違う、爪のある指だった。冷えていたので、千代子は両手で包んだ。
「お寒いのでしょう、と思って」
そうするうち、手は少し温かくなった。千代子はそれが嬉しかったらしい。自分が手を離したらまた冷えてしまう。せめてもう少し温まるまで、と思った時には、青年の後ろにあった椅子の脚が、すぐ傍に見えていた。
千代子は一度、帰ろうとした。
「けれど、あの方、手をお放しにならないんです」
それでも怒っているとは思わなかったという。困っているのだろうと思った。
*
学校の門へ着いた時、千代子はいなかった。
下足袋を提げた二人の女学生が、小さく会釈して俺の脇を通った。門灯の下で時計を見た。七時だった。俺は柱に寄り、懐の煙草へ手をやりかけてやめた。校舎は木造の二階建てで、玄関の上に丸い窓があった。明るい窓は一階に三つと、二階に一つだけだった。
しばらくすると、一人の女教師が出てきた。髪を低くまとめ、黒い肩掛けを着けている。俺を見て少し足を止めたので、神崎の兄だと名乗った。女教師は玄関を振り返った。
「妹さんは、譜面を取りに戻られました。もうお帰りになったものと思っておりましたが」
「いつです」
「二十分ほど前でしょうか」
千代子が俺との約束を忘れるとは思えなかった。絵へ話しかけて長くなることはあるだろう。だが、俺を門へ立たせたままにしておく娘ではない。女教師が、見てまいりましょう、と言うのを待たず、俺は門を離れた。
「一緒に行きます」
玄関で履物を脱ぎ、狭い階段を上がった。前に立つ女教師の手燭が、磨かれた手摺へ黄色く映る。絵は二階の突き当たりにあり、その手前を右へ曲がれば図書室だと教えられた。途中の戸は皆閉じていた。手洗い場には、薄くなった石鹸が濡れたまま残っていた。昼に大勢の足が踏んだ床の匂いが、冷えて残っていた。
「神崎さん」
女教師の呼び声へ、図書室からは返事がなかった。扉は開いていた。暗い机に譜面が一冊載っている。俺はそこへ入らず、廊下の先を見た。
片方だけ、足袋が見えた。
藤色の裾の下から出て、床へ置かれていた。もう一方は、灰緑の薄暗がりに隠れていた。千代子は廊下の突き当たりに立っている。壁へ向かっているはずの肩が、ひどく遠かった。黄色いリボンだけが、手燭の明かりを細く返した。
「千代子」
妹の顔がこちらを向いた。男の黒い袖が、その腕の向こうを横切った。
「兄様」
俺は歩幅を広げた。背後で女教師が何か言い、足音がついてきた。千代子の足袋が半足分、奥へ滑った。
「動くな」
言いながら、もう手を伸ばしていた。妹の左腕を掴んだ。絹の袖の中に骨があって、その周りに柔らかな肉があった。引くと重みが返ってきた。千代子は俺を見ていたが、右手は奥へ伸びたままだった。
男が、その手首を握っていた。
間近で見ると、千代子の話した通りの顔だった。頬が薄く、黒い髪が耳の上でうねっている。上唇へかかる影が青かった。肘掛けに置かれているはずの手は、千代子の肌を指の間へ押し込んでいた。その親指の付け根が動いた。
「手を離せ」
男は俺を見た。絵具の光沢が目の上へ浮き、次の瞬間には、濡れた眼球の光に見えた。どちらを見ている間にも、指は緩まなかった。
俺は右手で男の手首を握った。乾いた皮膚だった。袖の端が掌に挟まり、その下で筋が張った。男が引いた。俺の肩が前へ持っていかれ、千代子の息が短く止まった。
左足を踏ん張ると、踵に硬いものが当たった。金の縁だった。床を斜めに走り、そこから上へ折れ、俺の肩より高いところを横切っている。縁の右側には学校の腰板があった。左側には灰緑の壁が続いていた。同じ床の上に、椅子の脚と千代子の足袋が載っていた。
「兄様、あの方の手が」
「こっちへ来い」
「わたくし、帰ると申し上げたんですけれど」
男の手がまた強くなった。俺は妹を引くのをやめ、その分だけ自分の身体を前へ入れた。袖が頬に触れた。古い布の匂いがした。男は細かったが、手首は硬かった。力を入れる場所が、ちゃんとあった。
千代子の腕を挟んでいた親指へ、俺の指を掛けた。
「痛むぞ」
誰へ言ったか、自分でも分からなかった。男の手を外へ返すと、千代子の手首に僅かな隙間ができた。そこから妹を引き抜いた。空いた左腕へ千代子の身体を抱え込んだ途端、男の指が俺の手に食い込んだ。
近くで息をする音がした。細い、喉の奥へ引っかかる音だった。男の口が開いた。
「まだ」
その先は聞こえなかった。俺は男の指を振りほどいた。爪が手の甲を擦った。足を後ろへ送り、千代子を抱えたまま体重を移す。踵の下で金の縁が鳴り、木の床が一度、大きく軋んだ。
千代子の両足がこちらへ来た。
俺の膝が廊下へついた。妹を背中側へ押しやり、顔を上げた。突き当たりには絵があった。男は椅子に座っていた。少し下がった唇の端も、細い頬も、すぐさっきまで目の前にあったものだった。片手が肘掛けの上へ置かれている。指の間には誰の手首もなかった。
額縁の下端は床から離れていた。俺の踵には、まだ硬い角を踏んだ痛みが残っていた。
手燭の明かりが揺れた。女教師が俺たちの傍へ来て、千代子の名を呼んだ。振り返ると、妹は床に座り、俺の羽織を両手で掴んでいた。息をしていた。目も開いていた。俺はその肩へ手を置き、顔を覗いた。
「千代子。手を見せろ」
右の手首に赤い痕があった。指の幅ほどのものが、三つ、はっきり浮かんでいる。俺が掴んだ左腕も痛むかもしれなかった。袖を少し上げて確かめる間、千代子は黙って俺を見上げていた。
「立てるか」
「はい」
返事はしたが、羽織から手を離さなかった。俺は妹の膝の下へ腕を入れて抱き上げた。女教師が先に立ち、図書室の向かいにある小部屋の戸を開けた。千代子の重みが肘の内側へかかった。来る時より狭く感じる戸口を、肩を傾けて通った。
明るい部屋へ入っても、指に男の手首が残っていた。細い骨の周りで皮膚が引かれた感触が、手を開くたび戻ってきた。俺は千代子を椅子へ下ろし、今一度、廊下を見た。肖像画は戸の陰になって見えなかった。
女教師は、千代子が気分を悪くしたのかと尋ねた。
俺は腕を掴まれていたのだと答えた。誰に、と訊かれ、廊下の絵の男に、と言った。言ってから、これでは俺の方が気分を悪くしたと思われるかもしれないと気づいた。女教師はすぐには何も言わなかった。千代子の手首へ目を落とし、肩掛けを取りに隣室へ行った。
机の上のランプが、白い湯呑へ映っていた。水を飲ませようと差し出すと、千代子は両手で受け取った。口をつける前に、俺の手の甲を見た。
「兄様、お怪我を」
「少し擦れただけだ」
皮が一筋剥けていた。血はもう止まりかけていた。千代子は懐から畳んだ手巾を出し、俺へ渡そうとしたが、湯呑を持ったままでは上手くいかなかった。俺は先に水を飲めと言った。妹は、はい、と飲んだ。その素直さに、かえって腹が立った。
「門で待っていろと言っただろう」
「間に合うつもりでした」
「あそこへ、一人で行くな」
千代子は湯呑を置いた。しばらく膝の上を見ていた。俺は向かいの椅子へ腰を下ろし、ようやく息を吐いた。脇腹まで汗が冷えていた。妹を引く時に力を入れすぎなかったか、そればかり気になって、もう一度腕を見せさせた。
「お前は、あれとどこへ行くつもりだったんだ」
「どこへも。そばにいて差し上げようとしただけです」
千代子はそのあとで、少しずつ、手に触れた時のことを話した。俺は聞いた。相手は寂しかったのだろうかと、妹は何度も言った。寂しかったかどうかは俺には分からない。ただ、千代子の手を離さなかった。それは見た。
「お顔は、変わりませんでしたね」
「何が」
「怒っていらっしゃるようには、見えませんでした」
俺も、そう思った。人の手首をあれほど強く握りながら、男は昼間の千代子が話していた顔をしていた。俺の記憶の中でも、爪の痛みと、唇の端の下がり方がうまく重ならない。
女教師が戻ってきた。千代子へ肩掛けを着せ、譜面の入った鞄を俺へ渡した。今夜は家の者へ伝えておいてほしいと言われ、頷いた。絵については、明日、ほかの先生にも訊ねるという。俺には、明日の昼にあの廊下を歩いて、何が見えるのか分からなかった。
玄関を出る前に、千代子は女教師へ丁寧に頭を下げた。声にはもう、いつもの柔らかさが戻っていた。門までの砂利道は乾いている。虫が鳴いていた。千代子の歩みは確かだったが、俺は腕を差し出しておいた。小さな手が、すぐに肘へ添えられた。
「兄様」
「痛むか」
「いいえ。……迎えにいらしてくださって、嬉しゅうございました」
「約束したからな」
千代子は俯いて微笑んだ。門灯に照らされた頬に、薄く血の色が戻っていた。俺の方はまだ、絵の前へ誰かが立ってはいないかと、二階の窓へ目をやっていた。もう明かりは消えていた。
「あんなふうに、おいでになるのですね」
「何がだ」
「兄様が。わたくしを見つけたら、すぐに」
千代子は俺の腕へ添えた手を少し握った。こちらを見上げる目が妙に明るかった。俺は足を止めた。妹も止まり、そのせいでかえって、顔をじっくり見られることになった。
「千代子。何を考えている」
「危ないところへ迎えに来てくださる殿方というのも、たいそう素敵なのだと、初めて知りました」
俺は夜道の先を見た。坂の下に人力車の明かりがあった。あそこまで行って妹を乗せ、家へ届ければ、今夜の仕事は一応済む。済むはずだった。
「世話の要る男で、頼りにもなるなんて、無理だ」
「でも、兄様はいらっしゃいましたでしょう」
返す言葉がなかった。千代子は少しもからかっていなかった。肘に添えられた指をほどこうとすると、今度は羽織の袖を摘ままれた。俺はそれを、そのままにした。
坂を下りながら、千代子は、夕飯がまだでしたね、と言った。俺が頷くと、妹はようやく役目を見つけた顔になった。家には何かあるでしょう、なければわたくしがお作りいたします、と、もう献立を考えていた。
袖を摘む右手には、男の指の痕がまだ赤く残っていた。千代子はその手を離さず、俺の歩幅に合わせて、嬉しそうに歩いた。
『好事家ルシアンの蒐集館』蒐集余話――現実の拡張
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