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第九蒐集篇 『神を纏い、人を脱ぐ』


 菫が箒を止めていた。


 掃き集めた椎の葉の、そのすぐ先に細い尾が見えた。石の縁を伝って頭が動き、遅れて胴が茂みから出てくる。朝露の残る鱗には、庭木の影が小さく切れて載っていた。


「藤四郎さん、これはなんですか」


「シマヘビだ。害はないよ。手を出さなければ」


 俺は抱えていた本を縁側へ置いた。菫は箒を脇へ立て、黒い裾を膝の下へ収めてしゃがんだ。短い金髪が頬に沿って揺れる。左目のない顔を少し傾け、残った片目で蛇の頭を追っていた。


「瞳がつぶらですね……」


 蛇は敷石の上で止まった。薄い赤褐色の眼に、針の先ほどの光があった。菫が顔を近づけると、頭の下に隠れていた喉が少し持ち上がる。俺は少女の肩をそっと引いた。


「その辺までにしておけ」


「見ているだけでも、いけませんか」


「向こうには、そうとは分からん」


 菫は納得したのか、しないのか、両手を膝へ戻した。蛇の舌が一度出て、すぐに引っ込んだ。その短い舌まで見届けようとして、少女の顔がまた傾いた。


「蛇はね、神聖な生き物でもあるんだよ」


 先生が縁側へ出ていた。薄い濃紺の着物に朝の風が通り、銀白の髪の端が透けている。手には封筒を一通持っていた。


「神様のお使いですか」


「そういう土地もある。神様そのものだという土地もね」


 菫は敷石へ向き直った。蛇はもう、苔の陰へ頭を入れていた。礼をするように少女が顎を引く間にも、背中の縞はするすると葉の下へ消えていく。最後の尾まで見えなくなってから、先生は封筒を俺に差し出した。


「ちょうど、その神様のお祭りに招かれてね。白蛇郷というところだ。大学で郷土のことを調べている職員が、先方へ話を通してくれた」


 招待状には御影武夫という名があった。祭礼は三日後。長男の成人を祝うので、よければ前日から泊まってほしいと、折り目を避けた几帳面な字で書かれていた。


「神崎君も来るだろう」


「もう人数に入っているようですが」


「うん。君が断ったら、私が二人分いただくつもりだった」


「食事の話ですか」


 先生は笑って封筒を受け取った。菫が立ち上がり、箒を取り直す。蛇の消えた茂みの前だけ、落葉が小さな島になって残った。


「では、お留守の間は、こちらの方を見ております」


「庭の掃除も頼む」


「はい。通り道は空けておきます」


 誰のための掃除になるのか、少し怪しかった。俺は本を抱え直し、菫が箒で島を崩していくのを見ていた。葉の裏から水滴が飛び、まだ低い日を受けて、一粒ずつ白くなった。


     *


 白蛇郷では、水が道より先に曲がった。


 館の内側のベルを鳴らし、開いた扉の向こうへ出ると、山腹を縫う小道が続いていた。道端の流れは石垣へ潜り、しばらく行くと足の下からまた現れる。俺たちは水音の出たり消えたりする坂を下り、昼過ぎに村へ入った。


 家々の軒は深く、その下だけ緑の色が沈んでいた。日向では蝉が耳の奥を擦り、陰へ入ると、すぐ脇の樋を流れる水が聞こえた。洗い物をしている女が肘で額を拭き、先生の洋帽を見て、御影のお客さんですねと言った。


 案内された石段の途中に、青大将が横たわっていた。女は足を止め、手の籠を持ち替えた。蛇が石の隙間へ入るまで待ってから、何事もなかったように話を続ける。高太郎さんは小さい頃、この段から転がったことがある。明日はもう成人だ。早いものだ、と。


 石段の上で、屋根が大きく空を切っていた。


 門をくぐってから玄関まで、もう一軒建ちそうな庭があった。打ち水の跡を、数人の男が長い腰掛けを担いで横切っていく。奥には檜の柱を立てた小さな舞台があり、軒へ掛ける提灯を子供が数えていた。仕事をしていた人々がこちらへ会釈をする。手は止めず、通るだけの幅を、自然に空けてくれた。


 御影武夫は玄関の上がり口で俺たちを迎えた。四十を少し越したほどの、首の太い男だった。短く整えた髪に白いものはまだ少なく、眉の下の眼が深く澄んでいる。先生へ頭を下げたあと、俺の荷へ手を伸ばしたので、こちらが慌てて持ち直した。


「暑かったでしょう。まずは足をお楽に」


 通された座敷の縁の外にも、水があった。細い溝を絶えず流れ、庭の石に反射を投げていた。お手伝いの女が運んできた徳利は冷たく濡れている。白露と申します、と武夫が注いでくれた酒は、口に含むと柔らかく、飲み下す頃にだけ澄んだ辛さが立った。


「旨いですね」


 思ったまま口にすると、武夫は嬉しそうに頷いた。


「ここの水で仕込みます。明晩、神前へ供えるのも同じ酒です」


 先生が盃を光へ透かした。その向こうで、庭の緑が浅く揺れた。


「ご長男が、十八になられたそうだね」


「はい。うちの長男は、その歳に舞を納めまして、奥で一夜を過ごします。それを済ませて、一人前ということになっております」


「奥、と仰いますと」


 俺が尋ねると、武夫は舞台のある方へ目をやった。


「お祖父様のお祖父様より、もっと昔のことです。御影の祖先が、あそこにいらっしゃる神様と契った。私どもは、その子孫だと伝えられております」


 そう話す途中で、小さな女の子が廊下から顔を出した。母親らしい女に肩を抱かれ、引っ込む。その向こうでは二人の少年が、盆の置き場所を言い合っていた。武夫は声をかけかけてやめ、俺たちに少し笑った。


「明日の支度で、落ち着きませんで」


「賑やかで結構じゃないか。村の皆さんも来られるのかな」


「ええ。舞うのはうちの者だけですが、お囃子は皆さんにお願いしております。祝い事ですから」


 盃を置くと、廊下にいた少年たちが急に静かになった。


 襖の外で、一人の青年が膝をついていた。黒髪を短く刈り、夏の着物をきちんと合わせている。顔にはまだ頬の丸みがあったが、襟の左右に立つ首の筋と肩の厚みが、その顔には不釣合いなほど強かった。畳へ置いた手も大きい。指を揃えて挨拶する間、伏せた睫毛の下で、眼だけが一度こちらを窺った。


「高太郎です。遠いところを、ありがとうございます」


 先生が挨拶を返し、明日の舞を楽しみにしていると告げた。高太郎ははい、と答えたが、顔を上げきらない。父親が脇を示すと、そこへ膝を進めた。座る前に自分の裾を確かめる仕草が、ひどく若かった。


「ずいぶん稽古をなさったようですね」


 俺はその肩を見て言った。


「冬からです。毎朝、川へ入って、それから身体を動かします。舞の稽古は午後に」


「川へは何時に?」


「四時です」


「冬も」


 高太郎が頷いた。俺が盃へ目を落としたのを見て、青年は初めて笑った。


「酒は、まだいただけません。明日の御神酒が初めてです」


「それは、先に失礼をしました」


「いえ。どうぞ」


 笑うと、眼尻が少し下がった。膝の上では右手が左の親指を包んでいた。指の付け根にある硬い皮を、爪で何度も押している。


 武夫が呼ばれて席を外すと、高太郎はその背中を見送った。何か言いかけた唇を閉じ、座卓の木目へ視線を戻す。先生は酒の香りをもう一度確かめ、青年へ無理に話を向けなかった。


 夕餉には家の者が揃った。祖母が高太郎の椀にもう少し飯を盛ろうとし、本人が掌でそっと止める。妹は明日の青い衣を見たがった。二人の弟は、自分たちが提灯を掛けた場所を兄に教えていた。高太郎は一人ずつ顔を見て答え、時々、奥で食事をしている父親を見た。


 膳の端に置かれた俺の盃には、灯の芯が小さく映っていた。飲めば消え、注がれると戻った。高太郎の前にある湯呑には、それより淡い光が載っていた。


   挿絵(By みてみん)


 翌朝、四時前に目が覚めた。


 いつもと違う枕のせいか、障子の向こうの水音のせいか、眠りが浅かった。隣の布団では先生が静かに寝ている。俺は浴衣の上へ羽織を掛け、煙草を持って縁へ出た。すると庭を横切る白いものが見えた。高太郎が、畳んだ手拭いを腕へ掛けて歩いていた。


 声をかけると、青年は足を止めた。


「起こしてしまいましたか」


「いや。見ていても構いませんか」


 少し間があって、高太郎は頷いた。門を出たところで柱時計が四つ鳴った。石段を下りる青年の背中は、まだ周りの藍色から分かれきっていなかった。


 禊の場所は、家々へ水を分けるところより上にあった。大きな石が流れを受け、その下だけ水面が静まっている。高太郎は草履を揃え、着物を脱いだ。褌姿になると、肩から腰へ絞られた線が、薄闇の中ではっきりした。胸も腿も厚く、昨夜の座敷で見た以上の身体だった。


 水へ入る前、彼は指を少し開いて閉じた。


 足首、膝、腰と流れに隠れる。胸まで浸かった時、息が短く切れた。そのあとは音を立てなかった。水を掬って頭へかけるたび、腕の下で肋骨の形が変わった。俺は岸の石へ腰を下ろし、取り出した煙草を箱へ戻した。


 空が白み始めた。水に濡れた背中へ、ごく細い明るさが通る。滴が肩の丸みに沿って下り、そこで途切れた。高太郎は水中で向きを変え、しばらく山の方を見ていた。眼のくぼみには闇が残り、見開いているのか閉じているのか、こちらからは分からなかった。


 岸へ上がると、彼の歯が一度鳴った。手拭いで身体を拭く指は赤く、爪だけ白い。俺は足元の草履を、履きやすい向きへ少し寄せた。


「寒いでしょう」


「今は、ずいぶんましです」


 言ってから、自分の声の震えに気づいたように笑った。下がった眼尻へ水が溜まっていた。俺は、冬も、と昨夜聞き返した自分の声を思い出した。


「舞は、お父上に習ったんですか」


「はい。何度も間違えて。腕を上げるところで、いつも顎も上がってしまうんです」


 濡れた腕を少し持ち上げかけ、彼は手拭いごと下ろした。


「今夜は、間違えないといいんですが」


 俺には舞のことは分からない。大丈夫だと請け合う代わりに、昨夜は弟たちが楽しみにしていたようだ、と言った。高太郎は唇を噛むほどの小さな笑いを浮かべた。


「あの部屋も、父は入ったんです」


 舞の話から離れたので、俺は返事が遅れた。青年は着物の紐を結びながら、こちらを見ていた。


「十八の時に。祖父も。その前も、みんな」


「中は、見たことがあるんですか」


 首を横に振った。その眼が、俺の顔から、肩、脇の流れへと逃げた。訊いてはいけないことだったのかと思ったが、高太郎はすぐに頭を下げた。


「戻りましょう。お腹が空きました」


 草履の踵から水が落ちた。俺は立ち上がり、青年の後へついた。山の端はまだ光っているだけで、道には二人とも影がなかった。


   挿絵(By みてみん)


 夜になると、昼のあいだ葉に潜っていたものまで、庭へ出てきたようだった。提灯の下を小さな羽虫が巡り、参列する人々の袖が交わった。白い襟と歯が、明かりの切れ目から浮いた。腰掛けの場所を譲り合い、子供を膝へ抱き上げる声があった。


 俺たちは武夫に勧められ、舞台の左寄り、前の方に座った。先生は帽子を膝へ置いた。舞台脇の灯が片眼鏡の縁に入って、そこにだけ細い金の輪ができた。


 檜の板は昼より白く見えた。舞台の奥には閉じた扉があり、その上に神棚が設けられていた。左右を渡したしめ縄から紙垂が下がり、扉へ淡い影を落としている。舞台の両脇には火が焚かれた。風が吹くたび板の白さが暖まり、また冷めた。


 武夫が進み出た。扉へ向けて頭を垂れ、声を上げた。


 言葉の切れ目が分からなかった。腹から出た低い声が一音を長く保ち、末のところで喉へ巻き戻る。知っている言葉を聞き取ったと思うと、次の音に引かれて違うものになった。人々の話し声は消えた。子供の履物が一度、腰掛けの下で鳴った。


 米と榊が供えられ、白露を満たした瓶子が神前へ置かれた。高太郎は青い狩衣を着て出てきた。まだ面をつけていなかった。広い袖の中で手が隠れ、顔だけがひどく小さく見えた。


 父の前へ膝をつき、深く頭を垂れる。武夫が襟をわずかに開き、うなじへ酒を注いだ。刈り込んだ髪の下で、一筋が光った。高太郎の肩が小さく上がったが、頭は動かなかった。酒は襟の内へ入り、青に濃い染みをつくった。


 神前の酒が下げられ、参列者へ順に回された。俺の盃へ注いでくれた老人が、ゆっくり召し上がってくださいと言った。


「中からも清めますのでね。神様へ差し上げたものを、こちらにもお迎えするんです」


 老人は自分の胸を押さえて一礼し、隣へ進んだ。舞台では高太郎も盃を受けていた。一口で飲もうとして、途中で止める。俺は見ない振りをして自分の盃を傾けた。白露は、やはり旨かった。昨夜と同じ辛さが、喉の奥を通った。


 盃が集められる頃には、高太郎は舞台脇へ退いていた。武夫が笛を取り、村の楽師たちが小鼓と締太鼓を構えた。鈴を手にした男の指には、昼間、腰掛けを運んでいた時と同じ布が巻かれていた。


 笛が、火の上へ細く伸びた。


 青い袖が現れ、その奥から翁の顔が出た。白い眉と深い皺を持つ面だった。細く開いた眼の穴は暗く、さっきまでそこにいた青年の眼差しを探せなかった。右手には扇がある。高太郎が一歩進むと、青は大きく膨らみ、身体が止まってからゆっくり鎮まった。


 腕が水平に運ばれた。開いた扇の要から肘、肩へ、一本の長い線が通った。袖がその下へ垂れ、青い水を満たしたように重く見える。足は板を離れずに進んでいた。裾が触れるすれすれで、爪先だけが時々見えた。


 面が神棚へ向いた。顎は上がらなかった。


 俺はそれを確かめ、朝の川で言いかけたことを、少し遅れて胸の中で言った。高太郎は扇を胸の前へ引き、身体を返した。笛の高い音へ、青い衣が持ち上がる。跳んだのだと気づいた時には、もう足が板へ帰っていた。袖の先が遅れて宙を打った。


 着地の音は短かった。あの厚い身体がどこへ重みを預けたのか分からないほど、次の歩みは滑らかだった。翁の面がこちらを通り過ぎ、明かりの中へ入る。彫られた口は笑っていた。面の内側で高太郎がどんな顔をしているか、俺は考えずにいられた。


 小鼓が鳴った。


 扇が閉じられ、舞台の隅へ置かれた。高太郎は戻りながら狩衣の結び目へ手を添えた。袖の青が片側だけ下がった。抜け出した腕が、先ほどと同じ高さへ伸びた。


 しかし、肘の先が帰ってこなかった。


 手首だけが内側へ折れ、指が肩の後ろに残る。胸は前を向いているのに、腕の付け根がその胸を少しずつ横へ引いた。衣はもう片方の肩からも落ちた。白い衣を残した上体が、その落下についていくように傾き、戻るはずのところを越えて、低く沈んだ。


 翁は相変わらず笑っていた。


 狩衣を青い山にして残し、高太郎が一巡した。足取りにはまだ、さっきのすり足があった。だが肩の左右の高さが揃わない。片方が沈むと、他方は上がる途中で止まり、その止まった肩の下を腰がくぐるように動いた。白い胸に斜めの皺が走る。皺はほどけず、次の捻じれに巻き込まれた。


 笛が一音を引き延ばした。締太鼓が、下からその音を叩いた。


 高太郎はもう一度跳んだ。身体が浮く直前に、膝が妙な方へ引き寄せられた。裾が空中で潰れ、着地した足は離れなかった。片方の踵へ重さが偏り、そのまま腰が深く落ちた。俺の腿に力が入った。転ぶ、と思ったところで、上体だけが持ち上がった。


 袴の紐が解かれていた。ゆっくり下がる布を、高太郎は膝で押し下げた。足を抜く動きまで舞の中にあった。布から外れた脚が板を長く擦り、その脚を追って、低い腰が進んだ。爪先から膝へ何かを吸い上げるような、途中で止められない動きだった。


 鈴が鳴り続けている。その細かな音の下で、鼓と太鼓が互いの間を狭めていった。


 白い衣の背中が膨れた。肩甲骨だった。片方が鋭く張り出し、布の内側を上から下へ通った。頭を低くしたまま、高太郎は両肩の間を押し広げる。翁の顎が胸へ埋まり、白い眉ばかりが客席へ向いた。首がなくなったように見えた。


 俺は膝の上の拳を開いた。掌が濡れていた。


 衣の合わせが割れ、喉から胸へ肌の線が露わになった。高太郎の腕は、布を脱ぐには遠回りなほど大きく後ろへ回った。肘が背中の陰に消え、その陰から指だけが先に出てくる。白い衣が引きずられ、肩を離れた時、胸の筋が激しく縮んだ。深く息を吸ったのに、身体は小さくなった。


 そのまま、高太郎は床へ頬を寄せた。いや、面の頬だった。檜の上を白い笑いが擦る。その後ろから、まだ薄い肌着を着た背中が高く盛り上がった。顔の位置と腰の位置が、同じ人間のものに見えなかった。


 小鼓を打つ指が速くなる。締太鼓には乾いた、逃げ場のない音があった。笛は消えていなかったが、どこから始まってどこで息を継ぐのか、もう聞き分けられなかった。俺の耳のすぐ後ろで鳴っているようでもあり、あの面の内側から洩れているようでもあった。


 高太郎の身体が、床に近いところでうねった。右へ行く力を左の脇腹が引き留め、逃げた力が背中を通り、尻の方へ膨れた。汗を吸った肌着の布目までが、その膨らみに引かれて斜めになった。僅かに伸びるたび、次の縮みがもう始まっていた。


 気味が悪かった。それなのに、衣の端から現れた腰の曲線が、火を受けて一度だけ細く光った時、俺は息を止めた。次にどこが光るかを待ってしまった。


 肌着の紐がほどけた。低い身体から布が剥がれ、汗のある肩へ貼りつき、また離れる。高太郎はそれを振り払わなかった。布を残したまま身体が少しずつ先へ行き、最後に肘が抜けた。舞台の上には、青と白の衣が、主のいない肩や膝の形をつくっていた。


  挿絵(By みてみん)


 褌だけになっても、翁の顔は残っていた。


 鍛えた背中の上に、年老いた笑いが載っていた。高太郎は腰を落としたまま、首の後ろへ両手をやった。面の紐を解く指は、驚くほど静かだった。白い顔が少し浮く。その下から濡れた顎が出た。面が離れ、青年自身の額へ火の光が届いた。


 高太郎は眼を開いていた。


 濡れた睫毛の奥で黒目が高く寄り、下側に細い白が覗いていた。唇が少し開いている。息を吸う時、上唇が歯へ張りつき、離れた。俺は朝の川から上がって笑った顔を知っていた。しかし、その顔を今どこへ重ねればよいのか分からなかった。


 面が板の上へ伏せられた。高太郎の手が離れた瞬間、胸の中央が大きく落ちた。


 喉が伸びた。喉だけが、身体から抜けようとしていた。


 顎を押し上げる力に肩が追いつかず、首筋が二本、皮膚の下へ浮いた。身体は低いままだった。背中が反り、腹が斜めに絞られ、その絞りの奥へ肋骨が一本ずつ沈む。胸から腹へ落ちた汗が、途中で横へ曲がった。身体のどこにも、まっすぐ下がる場所がなかった。


 やがて頭が落ちた。髪の先が板へ触れる直前で止まり、眼だけがこちらへ向いた。俺を見ているのだと思った。次の瞬間、顔はもう膝の向こうへ滑り、こちらへ向いていたのは肩の丸みだった。誰かが首を挿げ替えたように、全身の向きが変わっていた。


 締太鼓が重く続いた。高太郎の腹は、その音より細かく震えていた。大きく波打つ背中の内側で、別の小さな動きが休まず育っている。肩が一つ跳ねる。喉が引き攣る。それでも、床を進む身体の線は切れなかった。切れないまま、どこまでも捻じれた。


 膝が胸の下へ入り、片腕が長く残った。床についた指先が白くなるほど力がかかっていた。あの手が外れれば、顔から落ちる。俺にはそう見えた。だが高太郎は手を離し、脇腹を板へ預け、なお同じ速さで進んだ。身体を支える場所が移るたび、肉の陰から新しい骨の線が出た。


 立っている時には隠れていた厚みだった。川で見た強い胸も肩も、ここでは一度ほどけ、違うところでつながっていた。背中の窪みに火が入り、次の捻転で追い出される。追い出された明かりは腕へ走り、肘の突端で鋭く砕けた。


 俺は気づくと、身体を前へ寄せていた。掌を自分の膝に押しつけていた。押していないと、舞台の板へ触れてしまいそうだった。


 高太郎の口が横へ引かれた。笑ったのではなかった。頬から首へ続く筋が口の端まで引いていた。片方の眼が細まり、もう片方が開いたまま残る。顔までが舞っていた。その眼に火が映り、揺れるはずの小さな炎が、瞳の端へ貼りついて動かなかった。


 身を折り畳んだ青年が、板の上で止まった。


 囃子は続いていた。止まっているように見えた身体にも、息が通っていた。踵から腿、腰、反った胸へ、震えがゆっくり上がってくる。その先にある頭だけが、上がれなかった。顎は肩へ押し込まれ、眼は舞台の奥を向いていた。神棚の紙垂が、遠くでひとつ裏返った。


 もう伸びるところはないと思った。


 そこから、肩が開いた。


 左右へではなかった。片方は床へ深く沈み、もう片方が闇の方へ持ち上がった。その間に胸が長く引き延ばされ、息が洩れた。音にならない息だったのに、俺の奥歯へ響いた。胸の下の陰が一瞬、身体より濃く膨れた。


 笛が途切れた。鈴も、鼓も止んだ。


 最後の太鼓だけが鳴り、高太郎の背中を、首から腰まで長い動きが通った。下りきったところで、身体が板へ落ち着いた。掌が伏せられた。大きく開いていた眼が、一度閉じた。


 火のはぜる音がした。


 俺はそこで初めて、自分が長く息を止めていたことに気づいた。吸った空気は酒と汗の匂いがした。隣で先生が、膝の帽子からゆっくり手を離した。片眼鏡には舞台の明かりが映っていて、その奥の眼は見えなかった。


     *


 高太郎が起き上がり、神棚へ礼をした。肩にはまだ汗が浮いていた。武夫が笛を置いて近づき、白い布で息子の背を拭いた。高太郎は片手を床について、もう片方で父の腕を掴んだ。その指を見て、俺はようやく膝の力を抜いた。


 人々が帰り始めた。よかった、立派だった、と声をかける者があった。眠った子供を背負い、落とした手拭いを捜す者もいた。提灯を持って石段を下りていくと、明かりは塀の向こうで一つずつ低くなった。夜の村に、水の音が戻った。


 武夫が俺たちのところへ来た。


「このあと、奥へ入ります。どうぞ、こちらで」


 俺と先生だけが舞台脇に残った。片づける家人たちも母屋の方へ下がり、武夫が燭台を扉の前へ運んだ。高太郎は新しい白衣を肩から掛けていた。袖へ通した腕を身体の前へ抱え、父親の後ろへ立っている。


 しめ縄に刃が入った。武夫は片側を手で受け、紙垂が床へ落ちないよう脇へ置いた。扉が内側へ開いた。


 燭台を持った武夫の足元から、板の継ぎ目が奥へ伸びていた。家具のない部屋だった。壁の高い位置に細長い明かり取りがあり、夜空の色が一筋だけ見えた。人の手を伸ばしても、届く高さではなかった。


 座敷牢という言葉が浮かび、俺は扉の金具を見た。


 正面の壁の下方に、穴が開いていた。燭台が近づいても、穴の奥は明るくならなかった。縁の古い木だけが照らされ、その内側で光が切れた。人が屈めば入れるかもしれなかったが、先に床が続いているのかも分からなかった。


「あちらに?」


 先生が小さく尋ねた。武夫が頷いた。


「初めにうちの祖先と契られたお方です」


 それだけ言って、高太郎を振り返った。


 青年は敷居を越えられずにいた。白衣の襟を掴んでいる手が震えていた。舞台でどれほど捻じれても途切れなかった呼吸が、今は喉の狭いところに引っかかっていた。眼は穴へ向きかけ、そのたび父親の顔へ戻った。


「父さん」


「夜が明けたら、迎えに来る」


 武夫は空いた手を息子へ差し出した。高太郎はそれを握り、ようやく中へ入った。白衣の下から覗く足首が、敷居の陰で細く見えた。父は部屋の中央まで付き添い、そこで手を離した。


 高太郎がこちらを見た。


 俺は何も言えなかった。朝の川辺で、先に笑ってしまったあの眼だった。今は笑えず、燭火を二つ入れたまま、俺と先生の立っている明るいところを見ていた。武夫が戻ってくると、その顔の半分が父親の影に隠れた。


 扉が閉じた。金具へ南京錠が通された。


 鍵を回してから、武夫は取手を一度引いた。確かめ終えると俺たちへ向き直り、長くお座りで疲れたでしょう、と言った。声は少し嗄れていた。笛を持つ指に、赤い圧痕が残っていた。


 客間へ戻る途中、井戸端に冷やしてあった水を貰った。飲み干すと、喉から胸まで一筋に冷えた。母屋ではまだ女たちが明日の膳のことを話していた。母親が、朝は高太郎の好きなものを、と言うのが聞こえた。


 部屋に戻っても、俺の肩の奥には、まだ舞が残っていた。衣を脱ごうと腕を引くと、あの胸の捻じれが浮かんだ。浴衣を着直してから、俺は自分の手を見た。普通に開き、普通に閉じた。


「あんなふうに、動くものなんですね」


 先生は窓辺に座っていた。パイプへ火を入れ、俺の方を見た。


「君は、どこを見ていた?」


「背中を。……途中からは、顔も」


「私は、あの肩が忘れられない」


 先生は自分の肩へ触れなかった。ただ煙を吐き、庭の暗がりへ眼を戻した。俺も窓の方を向いた。舞台はここからは見えなかった。


 床に近いところを長く進んだ身体が浮かんだ。続いて、敷居を越せなかった足が浮かんだ。どちらも高太郎のものだった。布団へ入って目を閉じても、閉じる前よりはっきり見えた。明け方には眠ったらしい。次に目を開いた時、障子の下が薄く白んでいた。


     *


 舞台の板に露が光っていた。


 東の山から日が出たところだった。庭にはまだ深い陰があり、屋根の上の空だけが白く眩しい。武夫が南京錠へ鍵を入れた。妻と祖母、その後ろに子供たちがいた。俺たちは一歩離れた場所から見ていた。


 扉が開くと、部屋の中には、もう朝が入っていた。


 高窓から斜めに落ちた光が、奥の壁を途中で離れ、板の上へ長い四角を置いていた。窓枠の影がその四角を細く分けている。光の中だけに塵があった。ゆっくり下りてくるものと、いつまでも同じ高さに留まるものが、別々の明るさを持っていた。


 高太郎は、その光の端に座っていた。


 白衣を合わせ、片膝へ手を置いていた。首から肩へかけて、朝日が幅広く載っている。昨夜は汗の粒ごとに砕けた光が、今は肌を静かに滑り、袖の折れ目で止まっていた。肩の陰は濃く、布の白さがその陰を青く見せた。


 顔は、半分ほどが日陰にあった。


 頬の丸みがなくなっていた。鼻梁から口元へ落ちる影が長く、顎の線が強かった。首も太い。高太郎が顔を上げると、襟の内側にあった喉が動いた。昨夜の声を待っていた俺の耳へ、落ち着いた、少し低い声が届いた。


「おはようございます」


 武夫が息を吐いた。母親が一歩前へ出た。


 俺はまだ、その顔を見ていた。昨日までの高太郎の顔立ちは残っていた。眉の端の形も、唇の片側がわずかに下がるところも覚えていた。だが、それを含んでいる顔全体が、俺とそう違わない歳の男のものになっていた。


 高太郎が立った。白衣の裾が床から持ち上がった。


 その下に、もう一つ顔があった。


 初めは、脱いだ布だと思った。薄く黄ばんだものが、光の四角の半ばまで広がっていた。肩らしい丸みがあり、その先の腕が潰れている。指は五本とも先まで残っていた。板の節が、掌を透かして見えた。


 頭の部分だけは、まだ形があった。横を向き、頬を床へつけていた。内側には何もなかった。それでも頬の丸みは昨日のものだった。短い鼻の下に唇の形があり、少し開いた口が、朝の光を薄く通した。


 眼のところが窪んでいた。


 顔から首、胸へと続く皮が、そこで縦に裂けていた。裂け目の片側がわずかに立ち上がり、床に細い影を落としている。その影だけは、皮より黒かった。腹の皺へ溜まった光が蜂蜜のように濃く見えたが、武夫の足が近づいて陰になると、たちまちただの薄皮になった。


 俺はそこに、昨夜の高太郎の手を見つけた。親指の付け根に硬くなったところがある。座敷で彼が爪を押しつけていた、小さな場所だった。今は爪も、爪を載せていた指も、同じ厚さに透けていた。


「よく、済ませたねえ」


 祖母が言った。


 声に胸を突かれたようになって、俺は顔を上げた。高太郎は母親の手を受けていた。頬へ添えられた指に逆らわず、少し顎を引く。母親は何度も頷いた。後ろの弟が、その肩越しに兄を見ようとした。


 妹だけが、母親の袖の陰に隠れていた。


「おいで」


 高太郎が呼んだ。少女は兄の声を聞き直すように顔を上げ、それから小さな歩幅で近づいた。高太郎は膝を折り、目の高さを合わせた。昨日、青い衣を見たがっていた妹が、その袖を摘んだ。布を確かめてから、ようやく笑った。


 俺は立ち位置を変えた。高窓の光を正面に受けて、眼が痛くなっていた。敷居の脇へ寄ると、立ち上がった高太郎と目が合った。


 視線が逃げなかった。


 失礼にならない頃合いを測る、あの小さな揺れがなかった。俺の顔を見ている。俺が見返しても、そのまま見ている。眼尻には昨日と同じ、穏やかな皺が寄った。


 その時、背筋がぞくりとした。


 眼の形がおかしいのではなかった。黒目も、白目も、人間のものだった。高窓の光が左右にひとつずつ映り、暗いところにある瞳まで見えた。ただ、俺の目つきに怯えるでもなく、笑って済ませようとするでもなく、こちらを見ることに少しのためらいもなかった。


「早くから、お越しくださったんですね」


 俺は頷いた。高太郎は僅かに頭を下げ、先生にも礼を言った。声が途中で小さくならなかった。視線は相手から相手へ、静かに移った。


 先生は朝の挨拶を返した。その横顔には驚きも笑いもなかった。片眼鏡を外し、裸の眼で、高太郎の立っているところを見ていた。


 武夫が白い布を取りに出て、戻ってきた。床へ膝をつき、青年の形をしたものを布に収め始めた。薄い肩が指に押されて潰れた。顔の片側も折れ、昨日の頬が内側へ入った。誰もそれを止めなかった。母親は高太郎に、まず着替えましょうと言った。


 彼が部屋を出ると、その背に隠れていた光が、再び床へ届いた。板の上には、細かな粉のようなものが少し残っていた。正面の穴は暗かった。朝日が届いているのは、穴の縁から、もう少し手前までだった。


  挿絵(By みてみん)


 朝餉には赤飯が出た。


 高太郎の前へ、新しい膳が据えられた。祖母が椀を寄せると、彼は礼を言って受け取った。昨夜は止めた二度目の飯も、今朝はそのまま盛らせた。弟たちが舞のことを一度に話し出し、母親に順番にしなさいと言われていた。


 高太郎は笑った。目尻が下がった。


 俺は箸で摘んだままの豆を口へ入れた。噛むと甘かった。縁側の向こうでは、庭を掃く音がしていた。誰かが門口へ来て、成人のお祝いを申し上げる。武夫が立ち、高太郎も続いた。父の後ろへ行く時、彼は裾を確かめなかった。


 出立する頃には、日が庭へ届いていた。俺は荷を持ち直し、玄関で家の者へ礼を言った。母親が菓子を包んでくれた。館に残してきた少女の話を、先生が昨夜していたのだった。


「お口に合えばよろしいんですが」


「きっと喜ぶよ。ありがとう」


 先生が受け取り、俺へ渡した。包みはまだ少し温かかった。


 高太郎は門まで見送ってくれた。俺たちが敷石を下りると、日向に立ったまま頭を下げた。


「また、おいでください」


「ええ。どうぞ、お元気で」


 俺は顔を見て言った。青年は、はい、と答えた。眼の奥には朝の光が収まっていた。俺たちが歩き出しても、門の脇にある白い袖は、しばらく動かなかった。


 石段の下では、昨日と同じ女が籠を洗っていた。立派にお済みになったでしょう、と声をかけられた。俺は頷いた。籠の網目から光る水が落ち、足元の流れに入った。


 村を出ても、先生はしばらく黙って歩いていた。俺も話さなかった。道が登り返して家々が見えなくなった頃、先生が小川のほとりで足を止めた。


 対岸の苔に、白いものがあった。


 蛇だった。細い頭を水の方へ向け、ゆっくり進んでいた。白い鱗に葉影が渡り、影を出たところからまた白くなった。郷へ入ってから、初めて見る白蛇だった。


 眼は淡い色をしていた。小さく、丸く、こちらからは動いたとも分からなかった。舌が一度出た。蛇は石の脇へ身を寄せ、水辺の草へ頭を入れた。


「神崎君、そこを」


 先生が指した枝に、薄いものが掛かっていた。蛇の抜け殻だった。湿った苔から枝先へ続き、尾の方だけが垂れていた。先生は足場を確かめて手を伸ばし、裂けたところを広げないよう、両手で受けた。


 鱗の一枚ずつに、水の反射が入った。白い蛇から脱げたものなのに、向こうの緑も、先生の指の色も透けて見えた。頭の部分には眼を覆っていた薄皮が残り、光を受けると、そこだけに小さな丸い艶ができた。


 先生はしばらく眺めてから、懐紙を出した。俺は荷から空の小箱を取り出した。抜け殻が収まると、窓のない箱の中にも、まだ鱗の光が残っていた。


 小川の向こうを見た。蛇はもういなかった。草の根元に白く見えるのは、日に当たった石の端だった。


 先生が蓋を閉じた。俺は箱を受け取った。その軽さが掌に馴染むまで、しばらく持っていた。


 門口の日向に立つ高太郎の眼が浮かんだ。その下には、床に頬をつけた薄い顔があった。俺は二つとも、今朝、見てきた。


 見送っていた彼は、誰だったのだろうか。


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