目録小噺 『恋する書籍』
妹は、俺の顔より先に襟を見た。
「兄様、曲がっております」
玄関へ上がるなり、千代子は手土産を俺に持たせ、両手で羽織の襟を直した。紫の矢絣の袖から、細い手首が出ていた。俺が顎を引くと、じっとしていらして、と言う。もう子供ではないのだからと言おうと思ったが、言えばかえって子供じみるので黙った。
「今日は先生へのご挨拶だろう」
「ええ。兄様がいつもお世話になっておりますから」
妹は満足したように手を下ろした。髪の黄色いリボンが揺れた。俺が持たされた包みは、見かけより重かった。
客間では先生が待っていた。濃紺の着物の膝を揃え、千代子が頭を下げると、片眼鏡の奥で眼を細めた。妹が改めて差し出した包みを受け取り、紐をほどく前から楽しそうにしている。
「これは、どうもありがとう」
「羊羹でございます。お好きでしたらよろしいのですけれど」
「好きだよ。神崎君もね」
「俺の分まで仰らなくて結構です」
「では、私が余計にいただこう」
箱には羊羹が三棹、一本ずつ包まれて収まっていた。そのうち一本を切ってもらおうとしたところへ、菫が茶の盆を運んできた。
千代子の目が、そこで止まった。
菫は黒い服に白い前掛けをつけ、盆を傾けないよう、両肘を脇へ寄せていた。金髪の先が頬にかかり、その下で右目の紫が光った。左の眼窩には何もない。菫が盆を置いて顔を上げると、千代子は両手を合わせた。
「まあ、なんて可愛らしいの」
菫は一度、俺を見た。
「妹の千代子だ。こちらが菫。館の仕事を手伝ってくれている」
「初めまして」
菫が頭を下げると、千代子も丁寧に礼を返した。そのあとすぐ、妹の視線は少女の袖口へ移った。手首に露わな継ぎ目を見ても、気にする様子はなかった。
「今度、お洋服を持ってまいりますね。お着替えして遊びましょう。わたくしの小さい頃のものが、まだ取ってあるの」
「お仕事の時に着ても、よいものですか」
「お仕事の時のものも、お休みの時のものも」
「そんなに、あるのですか」
千代子は嬉しそうに頷いた。俺には一度も見せたことのない熱心さで、襟の形や袖のふくらみを指で描く。菫も、自分の袖を少し持ち上げて確かめていた。
茶が冷める、と俺が言う頃には、二人はもう隣り合って座っていた。羊羹を切りに立った菫を、千代子も手伝った。皿に載った黒い切り口が、窓の光を艶やかに返した。
女学校の話から、稽古事の話になった。千代子は茶と花を習っていた。どちらも母に勧められて始めたのだが、花の方は家へ帰ってからもつい触ってしまうのだという。
「お花を、どうなさるのですか」
「向きを変えたり、長さを変えたり。お部屋に合うよう、生けるの」
菫は窓の外へ目をやった。庭の桔梗が、葉の間に白く見えた。
「私にも、できますか」
「もちろんですわ。先生、あちらのお花を少し、いただいても?」
「どうぞ。花器は神崎君が知っている」
俺は羊羹を一切れ口へ入れたところだった。先生は自分の皿へ視線を戻し、茶を飲んだ。二人の少女が、揃ってこちらを見ていた。
*
花器は細い首を持った青磁の壺にした。低い卓に鋏と水を入れた鉢を並べると、客間の匂いが変わった。切った茎から青い匂いが立ち、湿った葉が菫の指へ貼りついた。
「こちらを向けると、どう見えます?」
千代子が壺を少し回した。白い桔梗が正面を向いた。菫が首を傾けると、妹は今度、茎の角度を変えた。花の内側が半分隠れ、細い影ができた。
「この方が、奥があります」
「ええ。全部のお顔が見えなくても、よいの」
菫は自分の手で茎を取り直した。力を入れすぎないよう、指を何度も開いていた。脇へ添えた葉が花を隠すので、千代子が切る場所を示す。鋏の刃が合い、葉先が菫の膝へ落ちた。
一本切るたびに、そこにあった狭さがなくなった。花の白い先と細い葉の間を、向こうの壁の色が通るようになった。俺は手伝うところがなくなり、卓の端で、切り落とされた茎を集めた。
出来上がったものを菫はしばらく見ていた。桔梗は一輪だけだった。花の首がわずかに横を向き、青磁の口から伸びた葉が、その下で長い弧を描いている。
「どこに置きましょう」
「廊下の突き当たりはどうだい。窓から少し離れていて、日も強くない」
先生の言葉に、菫が壺を抱えた。俺は先に行って、小卓の上の古い雑誌を片づけた。
廊下のもう一方の端には、本がいた。
例の黒革の分厚い書籍である。白いステテコを穿き、逞しい腕を組んで胡坐をかいていた。表紙の端には以前、菫がこぼした夕日の染みが残っている。磨いて落ちるものでもなく、もう乾いているので、そのままにしてあった。
菫は壺を小卓へ置いた。千代子が少し後ろへ下がり、そこから見て頷いた。俺も確かめた。窓を背にして立たなければ、花の白さがよく見えた。
「兄様も、ご覧になって。菫さんのお花、素敵でしょう」
「ああ」
妹が俺の袖を引いた。俺はもう一歩下がった。背後で、革の軋む音がした。本が腕を組み直していた。ぶつかったかと思って足元を見たが、まだ間はあった。
帰り際、千代子は二、三日したらまた来ると菫に約束した。次は着物ではなく洋服の包みも持ってくるらしかった。菫は玄関まで見送り、妹の姿が消えてからも、しばらく戸口に立っていた。
翌日、本は開いていた。
いつものように腕を組んでいなかった。両手で表紙の左右を支え、花のある方へ、頁を高く掲げている。脇を通りながら覗くと、白い紙の中央に細い文字があった。
『一花 臨素壁
清影 滿空堂
欲寄千行字
無言 對晚香』
俺は廊下の突き当たりを見た。白い桔梗は昨日と同じ方を向いていた。その手前には水の入った青磁があり、廊下には朝の明かりがあった。
本を見た。頁は動かなかった。
「……そうか」
ほかに言うことが見つからなかった。俺は本の前を避け、壁際を通った。書庫へ入るまで、紙をめくる音はしなかった。
午後にも、同じ頁が開かれていた。窓の明かりがずれて、紙の端だけが光っていた。花はそちらを向かなかった。細い葉の陰が壁へ映り、人が通る時の風で少し揺れた。
次の日には、文が変わった。
『寒燈 照孤影
展卷 待知音
咫尺 花無語
空廊 夜已深』
花器は動いていなかった。本も同じ場所にいた。俺はそこにしゃがみ、台までの廊下を眺めた。歩けばすぐだった。
「もう少し近くへ行ったらどうだ」
本はゆっくり頁を繰った。
『尺素無由達。』
文の届くすべがない、とあった。俺はしばらく待ったが、あとは白かった。運んでやろうかとも思った。しかし、以前この本を動かそうとして、俺と菫の二人がかりでも駄目だったことを思い出した。手を伸ばすのはやめた。
立ち上がって脇へ退くと、本は元の頁へ戻った。恋文を邪魔していたのは俺の身体だったらしい。
三日目に、千代子がまた来た。今度は大きな風呂敷包みを持っていた。菫の肩へ服を当て、袖が少し長いので、次に直してきますと言う。菫はその長い袖を気に入ったようで、手の隠れるところまで指を入れて見ていた。
「藤四郎さん、背中を留めていただけますか」
千代子が包みの中から別の服を出している間、俺が小さな釦を留めた。俺の指にはいささか小さすぎた。菫は辛抱強く待ち、済むと、ありがとうございます、とこちらを振り返った。
ばたん、と本が閉じた。
「……戸を開けたか」
「いいえ」
菫が答えた。本は廊下の端で、腕を固く組んでいた。客間の戸は開いていたが、窓は閉じている。俺は本の前へ出ていた裾を引っ込めた。これでよかろうと思ったのに、腕はほどかれなかった。
その日、千代子は花の水も見た。菫と二人で壺を持っていき、戻してから向きを整えた。空いた小卓を向いていた本は、桔梗が戻ると、すぐに頁を開いた。
『花影 日漸薄
餘香 猶滿堂
願分書上墨
為汝 補殘妝』
俺は小卓の脇で足を止めた。桔梗の白い先が、昨日より透けていた。壁に映る影は、葉のものばかりが濃かった。
千代子が帰ったあと、廊下を掃こうとして菫が花器を持ち上げた。本の掌が、開いた頁の上で止まった。
「また戻す。掃除をするだけだ」
俺が言うと、掌は下がった。
それから俺は、用がない時には廊下の真ん中を歩かなくなった。水を替えた菫が花を戻す時も、本から見て、なるべく間に立たないようにした。花の向きを直してしまうのは余計なことだと思ったので、そこには触れなかった。
五日目、花の縁が茶色くなった。
菫は水を替え、茎を少し切り戻した。花はしばらく頭を上げたが、夕方には、また低くなった。白い花弁の内側に細かな筋が見えた。そこへ明かりが入ると、一度くしゃくしゃにして伸ばした紙のようだった。
その夜、頁には四行だけが残っていた。字と字の間が広く、墨は下の二行ほど濃かった。俺は立ち止まって読んだ。
『不求花解語
但願少遲回
今夜休零落
明朝為我開』
廊下のランプは本にも花にも遠かった。俺は灯を消す時刻を、少しだけ遅らせた。
翌日、花は起きなかった。菫が壺を回すと、乾いた先が一つ落ちた。青磁の肩を滑り、小卓へ残った。菫はそれを掌に載せ、もう一度花を見た。右の紫の眼へ、茶色い花弁が小さく映った。
俺が書庫から戻る頃には、花器は片づけられていた。小卓には、濡れた輪が残っていた。本はまだ開いていた。文字のある面を、そこへ向けていた。
その翌朝には、表紙が固く閉じられていた。
俺はいつも通り脇を通り、少し行ってから振り返った。腕は膝の上に置かれていた。組まれてはいなかった。指の一本が頁へ入り、ほんの僅か、紙が開いた。
『嗚呼。』
すぐに閉じた。
小卓の濡れた輪も、もう乾いていた。俺は本に声をかけず、そのまま書庫へ入った。
*
昼過ぎ、本がまた開いた。
『天道是邪非邪』
天道、是か非か。『史記』の伯夷列伝にある一句だった。俺はそこまで思い詰めたかと、少し困った。何か言うべきかと思って足を止めると、本は頁をめくった。
『神崎藤四郎、実ニ憎ムベシ。』
俺は自分の名を二度読んだ。
「なぜだ」
紙が返った。
『容貌端正。妹アリ。少女慕フ。』
「待て」
どこから訂正すればよいのか、分からなかった。
「俺はお前の花に、何もしていないぞ」
頁が勢いよく閉じた。返事になっていなかった。俺はしばらく黒革を見下ろしたが、それ以上何も出ないので、話を切り上げて客間へ行った。
そこで先生に呼び止められ、書庫から一冊持ってくるよう頼まれた。廊下へ戻る時には、俺はもう書名を頭の中で繰り返していた。どこの棚へ入れたか思い出しながら、例の本の脇を通った。
表紙が開いた。
『誅スベシ。』
読んだのと、頬に黒いものが当たったのは、ほぼ同時だった。
ビタンッ。
「痛ッ! 何だ!」
甘い匂いがした。振り向くと、本が羊羹を握っていた。包み紙が足元へ落ち、剥き出しの長い一棹が、その拳から突き出している。千代子が持ってきた、まだ開けていなかった方だった。
見ている間に、二度目が来た。顔を引いたので、今度は顎から首へべったり当たった。
「おい、やめろ! 何をする!」
俺はその手首を掴んだ。太かった。引きつけて押さえようとすると、反対の手が俺の袖を掴んだ。羊羹を握った方の腕が、俺の握りの中でゆっくり返った。逃げようとしていた頬の方へ、黒い先端が向き直った。
ビタンッ。
「だから、やめろと言ってるだろうが!」
柔らかいから痛くない、ということはなかった。角が当たる。重い。しかも離れる時に皮膚を引いた。唇の端についたものを舐めてしまい、それがちゃんと旨かったので、いよいよ腹が立った。
背表紙へ手を掛け、床へ伏せようとした。本の膝が踏ん張った。俺も腰を落とした。革が軋んだので、思わず手を緩めた。その僅かな隙を、本は逃さなかった。
今度は耳の下だった。
「装丁を気にしてやってるんだぞ、こっちは!」
『不公平。』
「それはこっちの台詞だ!」
紙がばらばら鳴った。細かな字が一面に走り、読む前に次の頁になった。羊羹を持つ腕だけが休まず動いた。俺はようやく肘の上まで抱え込み、振り下ろす力を止めた。肩へぐっと重みがかかった。顔の横に黒い棹が震えていた。
「神崎君、何を――」
先生が来た。
俺と本を見て、その手元を見て、口を押さえた。声をかけた口の形のまま、一瞬だけ耐えていた。それから肩が揺れた。
「先生!」
「いや、すまない。君、顔が」
「分かっています! どうにかしてください!」
先生は片手を出しかけたが、また笑い出して、戸の縁へその手をついた。役に立つはずの手が、柱の代わりになっていた。
本の頁が止まった。
『憤怒』
見開きいっぱいに二字だけだった。俺が読んでいる間に腕が捻られ、羊羹の先が頬へ押しつけられた。殴れなくなったので、塗っていた。
「もういいだろう! お前の気持ちは分かった!」
分かったわけではない。口へ入るのを避けて言っただけだった。本は聞かなかった。声を持たないくせに、こちらの話まで聞く気がなかった。
「藤四郎さん」
菫が廊下へ来た。手に盆を持ち、その上には濡らした布と空の皿が載っていた。俺の顔を見ると、少し足を速めた。
「こちらで拭いてください」
その声で、本の腕にもう一段、力が入った。
「今それどころじゃない!」
黒い欠片が飛び、開いた頁へ落ちかけた。本の空いた手が、素早くそれを受けた。菫は盆を床へ置いた。
「紙についてしまいます。お手も拭きましょう」
本の動きが止まった。
自分の頁と、握った羊羹を交互に向いた。俺の頬は、どうでもよかったらしい。菫が皿を差し出すと、本はしばらく躊躇してから、潰れた棹をそこへ置いた。俺も、その手首をゆっくり離した。
菫に掌を拭かれている間、本は片方の手で頁を閉じた。俺の袖から離れた指には、小豆色の筋がついていた。俺は自分の首を触り、同じものがついてくるのを見た。
「羨ましかったんだろうね」
先生はまだ、時々声を詰まらせた。客間の椅子へ座り、濡れた布を頬に押しつけている俺を見るたびに、それが起こった。
「誰が、誰をです」
「あの本が、君を。呼べば返事が来るじゃないか」
俺は布を外した。茶色くなったところを内側へ折り、きれいな面で顎を拭いた。あの白い花は、たしかに一度も返事をしなかった。
「だからって、俺を殴ることはないでしょう」
「うん。それはないね」
「笑いながら言わないでください」
菫が新しい布を持ってきた。使った方を渡すと、襟の後ろにもついています、と教えられた。俺は目を閉じた。千代子に直された襟だった。
「羊羹が、まだ一本ございます」
「しまっておいてくれ」
「どちらへ?」
「あいつの手が届かないところへ」
先生がまた笑った。
顔を洗って廊下へ出ると、本はいつもの場所で胡坐をかいていた。表紙は閉じ、腕を組み、白いステテコの裾から足の指を少し出している。夕日の染みも、そのままだった。膝の傍らに、羊羹の小さな欠片が一つ落ちていた。
廊下の向こうの小卓は空いていた。
俺はもう二度と、この本に同情するものかと思った。欠片を布で摘み取り、脇を通った。耳の下が、まだ少し熱かった。
失恋したのはあいつである。俺の頬が痛む筋合いはなかった。




