第五蒐集篇 『人形師の偏愛』 前編
※本エピソードには、虐待や性被害を想起させる表現、身体的にグロテスクな表現が含まれる上、社会的倫理を主として取り扱っていません。苦手な方はご注意ください。
冬の終わり、蒐集館へ薄青い洋封筒が届いた。先生は昼の光に便箋を透かすようにして読み、ときどき声を出さずに笑っていた。濃紺の袖から出た手が、二枚目をもう一度、一枚目の後ろへ戻す。随分と丁寧に読む手紙だった。
「先生、どなたからですか?」
「別れた奥さんだよ」
「……奥さん」
俺は机へ置くはずの目録を持ったまま立っていた。奥さん。見知らぬ女が、俺より先にこの館の暖炉へ足を投げ出していたようで、どうにも気に入らなかった。先生はモノクルの鎖を指で払い、平然と次の行へ目を移した。
「ご結婚を、なさっていたんですか」
「別れるには、まず結婚しなければね」
「そういう順序の話ではありません」
「ヴィヴィアンというんだ。今も取引で世話になっているよ。今回は人形師を紹介してくれるそうだ」
取引。今も。俺が目録に入れていなかった事柄が、二つずつ増えていく。先生はもう人形の話をしていた。彼女の知人に金のある蒐集家がいて、カインという人形師を援助しているらしい。なかなか工房を見せたがらない男だが、その後援者から話を通してもらったという。
「腕がいいそうだよ。会いに行こうじゃないか」
「その、ヴィヴィアンさんとは、いつ頃――」
「神崎君、帳面を頼むよ」
帳面は頼まれた。元妻については何ひとつ解決しなかった。先生がソフトハットを手に取ったので、俺は目録を置き、外套を取りに行った。
カインの工房には、よく陽が入った。窓の下に作業台が二つあり、片方には裁ちかけの衣装、もう片方には白布を敷いてビスクの手足が並べてある。筆を立てた瓶、蓋に色の付いた顔料壺、糸巻き、細い鋏。硝子眼は浅い箱に綿を詰めて収められ、人毛の束には色と長さを記した札が結ばれていた。
首のない胴と、胴のない頭を同じ棚に置くのは、人形師の仕事場なら当然なのだろう。少なくとも俺の帳面に、まだ特別な注記は要らなかった。暖炉の側では接着剤の壺がぬるくなっていて、木と布と、かすかな薬品の匂いがした。
カインは袖口を細く折った黒い上着の男だった。頬がこけ、眉間には、長年の陰鬱が深い溝を刻んでいる。白い髪は耳へかかっていて、人を見るより、見られることの方を嫌う顔だった。挨拶の間にも俺たちの靴先を見て、それから作業台までの距離を確かめた。
「そちらは昨年作ったものです」
台の上の椅子に、青い衣装の婦人人形が座っていた。先生が身をかがめると、銀白の髪が帽子を脱いだ癖のまま一筋浮いた。
「触れないでください」
「ええ。近くで見ても構わないかね」
許しを得た先生は、パイプをしまって、しばらく黙っていた。カインも黙った。俺はその間に、婦人人形の寸法と衣装の色を記した。先生の目は顔から耳へ、それから襟の下へ移っていた。
「耳の縁を、よくここまで薄くしたものだね。正面からは見えないのに」
「横顔にも、厚みが出ますから」
「それにこの肩。首だけをこちらへ向けても、服に引っ張られたように見えない。襟の方を合わせたのかな」
カインが半歩近づいた。初めて、人形のそばへ他人がいることを忘れたようだった。
「襟は三度作り直しました。最初は、肌が布に負けてしまって」
「うん。今の方が、布の下まで続いて見える」
先生は人形の右手を指し、指先がわずかに反っていることを言った。握らせるものはないのか、と聞いたのだ。カインは引き出しから小さな扇を出した。俺にはただ優雅な手に見えていたが、扇を持つと、空いていた指の間に寸分の余りもなかった。
「……よくお分かりになりましたね」
その言葉を境に、カインの説明は長くなった。焼いた窯によって白に差が出ること。硝子眼をほんの少し奥へ据えたこと。先生がひとつ尋ねると、見本が三つ出てくる。いつの間にかカインは自分で人形を抱え、耳の薄さを光へ向けて見せていた。
俺は棚の隅で帳面を支え直した。狭い場所へこの骨太な身体を収めるのは骨が折れる。肩を縮めていても、後ろの箱に外套が触れそうだった。今日はどうにも面白くない。会ったこともない元妻に押し出されてここへ来て、今度はこの男が先生を独り占めにしている。
「神崎君、君も見てみたまえ」
「はい」
すぐに行った。先生の隣には、ちょうど俺ひとりが入れる場所があった。
ひととおり見終えて帽子を受け取ったとき、カインは奥の扉に目をやった。鍵穴へ指を触れ、それを引っ込めた。その指が再び伸びたのは、先生が礼を言って踵を返しかけたときだった。
「……お待ちください。もう一体、お見せしたいものがあります」
扉を開けたカインは、先生だけを先へ通そうとした。俺も続くと、彼の目が俺の肩の高さまで上がってきた。あなたも、という顔だった。
「司書ですので」
口にしてから、その理由で何が通るのか少し考えた。ともかくカインは扉から手を放し、俺も奥へ入った。
薄いカーテン越しの光の中に、少女が座っていた。工房の人形よりずっと大きい。淡い金色の髪が椅子の背へ流れ、灰青の絹の裾から、小さな靴がきちんと二つ覗いている。残った右目は紫がかった硝子だった。左の眼窩には何もなく、睫毛の作る細い影が、暗い穴の入口にかかっていた。
「ルルワです。この子は、私の最高傑作です」
名前を呼ぶ声から、硬いものがすっと抜けた。カインは膝をついて髪を梳き、頬に触れた。少女が彼の方へ顔を向ける。椅子の座面に置いていた手が持ち上がり、父親を迎える子供のように、そっと袖へ添えられた。
カインはその指を包んで下ろし、襟の皺を伸ばした。すぐに髪へ戻り、肩にかかったひと束を背後へ払う。ルルワはされるまま、右の硝子眼を先生に向けていた。
「綺麗だ。今日はこの色がよく似合う。……だが、ここは少し違うな」
今しがた伸ばした襟へ、また指が入った。彼の手が離れた場所から順に、少女は出来上がっていくように見えた。ただし手は、いつまでも離れきらなかった。
ルルワは襟の端を少しずらし、肩口へ指を添えた。
「ここ、綺麗でしょう」
指の先に、細い線があった。古い肩と継ぎ直された腕とで、白の深さがわずかに違う。ルルワは俺たちに見えるよう、その境を指先で辿った。
「そこではなく、この腕をご覧ください。以前より線がよくなった」
カインは腕を下から支え、肘を伸ばした。肩から手首へ落ちる曲線を、窓の光へ向ける。
「ええ。父さまが作ってくださったの。父さまは、この腕がお好きです」
ルルワは嬉しそうに言い、肩口へ指を戻した。
「私は、ここの白が違うところが好き」
カインは腕を膝へ戻し、満足そうに頬を撫でた。
背後で茶器が鳴った。振り向くと、黒い服の少年が盆を持って立っていた。少女と同じくらいの背丈で、煤けた金髪を耳の上で短く揃えている。色の薄い眼、鼻筋、唇の形までルルワによく似ていた。並べば双子としか思えない顔が、こちらでは古び、鼻先だけ薄く色が剥げていた。
もう一体いる。俺がカインを見るより先に、受け皿が小さく鳴った。
「音を立てるな。客人の前だぞ」
「申し訳ありません、父さま」
少年は盆を低い卓へ置いた。ルルワの頬に添えられていた手は動かなかった。
「そちらのお子さんは?」
「アベルです。それより、こちらの眼をご覧ください。虹彩に、少し灰色を入れてあるのです」
先生はルルワへ顔を近づけた。アベルは背を丸め、茶を注いでいた。肘の関節が袖の中で鳴る。盆を取り落としたわけでも、茶をこぼしたわけでもないのに、その肩はカインの声がしたときの低さから戻らなかった。
渡された茶碗を受け取る際、俺の指がアベルの手の甲に触れた。硬く、冷たかった。湯気はその指を避けるように上がっていた。喉にも胸にも呼吸の動きがない。卓へ戻る足取りは静かで、機械を巻く音も聞こえなかった。
「先生。この人形は生きているんですか?」
「君は命を知っているのかね」
「はい?」
「命とは何だい」
「……またそういう話ですか。脈があるとか、息をするとか」
「それは命の条件の話だろう。私は命とは何かと聞いたんだよ」
アベルが砂糖壺を差し出したので、俺は一匙もらった。命の説明より先に、茶の味が決まった。先生は何も足さずに飲んでいる。ルルワは椅子の上で足を揃え、アベルが空の盆を持って出ていくまで、一度もそちらを見なかった。
窓の脇には姿見があった。カインはルルワをそこへ座らせ、背後へ回った。鏡に二つの顔が重なる。カインの目は髪から顎へ、顎から肩へと移っていた。鏡は靴先まで映していたが、ルルワの目は、その中の袖口から覗く手首の境目に留まっていた。
「違う。顎を、もう少し」
指で押し上げられた顎の下に、半円の影ができた。髪を耳へかけると、その下から細い筋が現れた。首を動かすための合わせ目とは別に、耳の後ろを斜めに走っている。磨いてあるのに、光の曲がり方がそこだけ違った。
「ここを直そう。もっと美しくできる」
持ち上げた袖の奥に、白さの違う部分があった。肘から上は乳色で、下は僅かに青い。ルルワの指が、その境目へ触れた。手の小指だけ艶が新しく、他の指にある、ごく薄い色の沈みがない。先生が扇の人形について話した焼き色の差を思い出したが、そればかりではなかった。髪に隠れた継ぎ直し、指の交換、古い腕に取り付けられた新しい手。少女の身体には、違う季節に焼かれた白が集まっていた。
アベルが替えの燭台を運んできた。持ち手を握る親指の爪には欠けがあり、左の手首に細い罅が見えた。こちらの白はどこも同じように古びている。顔も、袖から出た腕も、塗料の擦れた指も、ひと続きのものとして目に入った。
「そちらじゃない。何度言わせるつもりだ」
カインが鏡から目を離さずに言った。アベルは置いたばかりの燭台を持ち上げ、もう一方の卓へ運んだ。
「相変わらず鈍いな」
アベルの唇が動いた。詫びたらしかったが、燭台を置く音より小さくて聞き取れなかった。カインはルルワの髪飾りを外し、別のものを当てている。外した方を差し出すと、アベルは燭台から戻る途中で足を速めた。
その日、少年が椅子に座るところを一度も見なかった。茶器を下げ、灯を入れ、箱を運び、そのたびにカインは短く命じた。ルルワの靴の飾りが少し曲がっていると、彼は話の途中でも膝をついた。アベルの指には欠けがあった。それを口にしかけると、また別の用を言いつけられて、少年は部屋からいなくなった。
夕刻になっても、先生とカインの話は終わらなかった。先生が昔見た人形の関節の話をすると、カインは紙を取り寄せて図を描いた。さっきまで図の上にあった指が、先生の返事を待ちながら宙で止まる。返事が来ると、その先へ急いで鉛筆を進めた。
「もう遅いですし、先生。帰りましょう」
俺が言うと、カインは時計を見た。残念そうにするより先に、何かを決めた顔になった。
「よろしければ、今夜はこちらにお泊まりになりませんか。まだ、ご覧いただきたい試作もあります」
「それは嬉しいね」
「先生」
「遅いから泊めてくださるのだよ、藤四郎」
名前で呼ばれた。俺が拗ねていると承知のうえで使う声だった。手口まで分かっているのに、腹の虫が一匹だけ大人しくなるのだから情けない。
「せっかくだ。ご厚意に甘えようじゃないか、神崎君」
カインはもう客間の用意を命じていた。来たときには他人の靴先を見ていた男が、今は玄関までの距離を惜しんでいる。先生は俺の方を向き、ごく小さく笑った。俺が帰らないことを、返事より先に知っている笑いだった。
借りた客間の寝台は俺には短く、横を向くと膝が窮屈だった。隣の寝台では先生が早々に寝息を立てていた。灯を落とした後まで、窓の外で枝が硝子を擦っていたのを覚えている。
目を覚ましたのは喉が渇いたからだった。枕元の水差しは空で、部屋には月明かりだけがあった。先生を起こさぬよう床へ足を下ろし、扉を細く開けて廊下へ出た。水をもらえばすぐ戻るつもりだった。
階下へ下りたところで、微かな水音がした。水場はあちらかと、暗い廊下を辿った。突き当たりの扉が少し開いていて、床へ黄色い光が落ちていた。その手前まで来ると、水の音が止んだ。
カインがいた。白布を敷いた長椅子にアベルを座らせ、上着の釦を外していた。脱がせた衣服は脇の椅子へ一枚ずつ畳まれた。首の付け根、肩、肘、膝。黒い服に隠れていた丸い関節が、灯の下に現れた。
傍らの洗面器から薄く湯気が上がっていた。カインは柔らかな布を浸し、両手で絞った。水が一筋落ち、途切れてから、布を四つに折った。その折り目をアベルの首へ当てた。
首を一周し、肩へ移る。片方の腕を下から支え、肘まで拭く。布の面を替え、手首から指先へ進む。アベルは動かなかった。支えられた腕が持ち上がるたび、関節が小さく触れ合った。昼間、茶器の間に混じっていたのと同じ音だった。
カインの指が、欠けた親指の爪で止まった。洗面器の隣には細い道具を収めた箱があったが、そちらには手を伸ばさなかった。欠けの縁を一度なぞり、爪の脇に残った汚れを布の角で取った。それから腕を下ろし、もう一方の手を取った。
浸す。絞る。折る。拭う。今度は左の手首にある罅の上を、力をかけずに布が通っていった。濡れた一筋が光り、乾くにつれて元の白へ戻った。罅はそのままだった。
胸を拭き、身体を傾けて背を拭いた。腹から腰へ、同じ幅で布が動いた。人形の重さを受けている方の手は、次の場所へ移る前に必ず持ち直された。アベルの顔は灯の方へ向いていた。唇の塗料にも細かな剥げがあった。カインはそこを見て、布のまだ使っていない面を出した。
また、水が落ちた。洗面器の縁にかかった細い雫が、一つずつ白布へ吸われていく。俺は廊下に立ったまま、冷えた足の裏を床から離せずにいた。
膝の外側に小さな欠けがあった。中の白は表面より乾いて見えた。カインは脚を支えてそこへ目を寄せ、指の腹で縁に触れた。ほんの一度、確かめるように。次に布が触れたときも、欠けは欠けたまま残った。
昼のルルワが鏡の中に浮かんだ。襟を伸ばした手が髪へ戻り、髪を払った手が顎を上げる。新しい指。色の違う腕。髪の下を走った、磨かれた筋。あの手は一つの場所を終えるたび、次に直す場所を探していた。
カインは足首の球をゆっくり動かし、重なりの際に溜まった汚れを拭き取っていた。古い白が現れた。足の甲の擦れも、踵の欠けも、その白の中へ戻っていった。
俺は昼の声を覚えていた。盆を持った肩の低さも、燭台を運び直した足も覚えていた。それらは少しも消えなかった。ただ、その同じ男の手が、アベルの傷を一つずつ通り過ぎていく。道具の箱には蓋がされたままだった。
ルルワの身体には、継ぎ直された跡がいくつもあった。関節とは別の、かつて外され、削られ、新しいものを足された跡が。アベルにも動くための継ぎ目はあった。しかし、姿を作り替えられた跡はほとんどない。朝から何度も頬へ触れられていた少女と、一度も椅子を勧められなかった少年。その二体を並べようとすると、覚えていた白がうまく繋がらなかった。
カインは布を濡らした。絞った。アベルの古い顔が、水面の揺れを受けて壁に淡く映った。俺は黙って、その光の収まるのを見ていた。
――何か、俺は見方を間違えている。
ルシアン先生による蒐集余話
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