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第四蒐集篇 『加水文体』

 初めに見えたのは、雪の裏側だった。


 軒からせり出した白い塊の下に、薄い空洞ができていた。そこを光が透かしていた。屋根に触れていた部分から先に解けたらしく、雪は自分の重さを支える場所を少しずつ失いながら、まだ冬の形をしている。雫が一つ膨らみ、落ちた。次の雫が同じところへ生まれた。


 館の玄関を出て、先生がまずそれを見上げたものだから、俺もつられて足を止めた。足元には水路があった。危うく踏み込むところだった。


「神崎君、下を見たまえ」


「先生が上をご覧になるからです」


「私は落ちていないよ」


 先生は濃紺の袖を引き、半歩先へ渡った。水路には幅の狭い石橋が架かっている。俺は鞄を持ち直して後に続いた。振り返ると、出てきた戸は古い塀に収まっており、戸口の上にだけ雪が厚かった。取手を離した先生の指から、玄関で鳴らしたベルの余韻がまだ細く続いているようだった。


    *


 町は山々の裾にあった。遠い稜線には白さが残り、麓へ近づくにつれて、黒い杉と土の色が入り交じる。家々の屋根も北側は冬だったが、陽の当たる庭先には梅の蕾が膨らんでいた。葉のない柳の根元を水が走り、苔のある石垣を洗い、道の下へ潜っていった。雪解け水と湧水が町を縫うように巡っているのだという。


 音の多い水だった。石に触れるところ、木樋を通るところ、深みに落ちるところで、それぞれ違う声がした。俺は一つ聞き分けると、次の一つを聞かずにいられなくなる。窓の内側で茶碗を置いた音まで、流れに加わった。


「今日は、何の話を聞きに来たんでしたか」


「書を見に来たんだよ」


 それは昨夜も聞いた。鞄には帳面と万年筆、書を挟むための厚紙を入れてある。先生は雫へ、もう目を移していた。


「たいそう巧い子がいるそうだ。十五歳でね」


「子供の書をお買いになるんですか」


「気に入ればね」


 柔らかな帽子の下で、銀の混じる髪が朝日に光っていた。俺は厚紙の角が鞄の中で曲がっていないか、指で確かめた。


 この町には、昔から書を教える家が多いらしい。開いた障子の向こうに、紙を押さえる小さな手が並び、老人がその間を回っていた。別の家では女が筆を洗っていた。桶の上で、黒い穂先から細い糸が下りていた。


 俺たちが訪ねた榊原家でも、硯はすでに濡れていた。


 主人は先生と以前からの知り合いらしく、挨拶の後、息子の話になった。少年は黒い髪を短く切り、父親の斜め後ろへ妙に背筋を伸ばして座っていた。畳の縁を見ていたが、先生が片眼鏡を直すと、その時だけ目が上がった。


「この年で私より書けます。近頃は町の方々からも、ひとつ書いてくれと頼まれるようになりまして」


 父親が客の返事を待つ隙間を、少年は鼻で息をする音で埋めた。


「褒めすぎだと言いたいのかな」


 先生が尋ねると、少年は初めて顔を上げた。


「同じことばかり言うから」


 幼い頬に、まだ似合っていない不機嫌が載っていた。爪の脇は黒く、左の親指には紙で切ったらしい浅い傷がある。落ち着かなげに動いていた足だけが、父親に見られると止まった。


「外国人に書が分かるんですか」


「清一」


 父親が低く咎めた。その先を続けるより早く、先生が答えた。


「分からないから見に来たんだよ」


 清一は、用意していた次の言葉を使えなくなったようだった。先生の顔を見、それから机の紙を見た。墨を含ませた筆は、その生意気な口よりずっと素直に動いた。


 巧かった。


 俺にも書の巧拙くらいは分かる。線の太さだけではない。墨の尽きかけるところへ、次の画の黒さが待っている。触れ合っていない線同士が、白い紙を挟んで互いを支えていた。清一は楷書を一枚、続けて草書を一枚書き、父親が差し出した法帖の一節も写した。その時だけ呼吸が静かになった。


 ところが書き終えると、筆を置く前に目が曇る。


 父親が褒めた。先生も頷いた。清一は紙を端へ寄せ、新しい一枚を置いた。誰も書き直せとは言っていないのに、同じ字をもう一度書いた。今度は一画を少し短くした。やはり端へ寄せた。


「前の方がよかったのでは」


 俺が言うと、目だけがこちらへ来た。


「どこが」


「下の余白です。二枚目は少し詰まって見えます」


「詰めたんです」


「では、今度の方を残すんですか」


「どっちも要らない」


 何が気に入らないのか尋ねると、清一は答えず、墨のついた指を拭いた。その拭き方が乱暴だった。紙はどれも破らず脇へ置いているのに、自分の指にはそうした。


 父親が客の茶を替えに席を立った時、先生が訊いた。


「ほかにもあるんだろう」


 清一の手が止まった。


「何が」


「君が見ているものだよ」


 先生は、寄せられた書を指ささなかった。清一もそちらを見なかった。しばらくして立ち上がると、俺たちについて来いとも言わず、障子を開けた。先生が腰を上げたので、俺は帽子と鞄を持って追った。


 裏庭を抜けた先に、井戸があった。


 町外れの古井戸で、書家たちは代々ここの水を使っているのだという。周りを囲う石は、手の触れるところだけ滑らかだった。底の方は暗い。ところが、その暗さの上へ空が一枚載っていた。澄み切った水に、柳の裸の枝と雲が映っている。枝は水中で下へ伸び、石壁の途中で切れていた。


 清一は桶を足元に置いたまま、いつまでも覗き込んでいた。


「何か沈んでいるんですか」


「別に」


「水を汲むんでしょう」


「見てるんだよ」


「何を」


 清一は邪魔そうに俺を振り向いた。


「井戸」


「それは分かります」


「じゃあ聞くなよ」


 先生が笑った。俺は黙った。年齢が半分ほどの相手にむきになるのも大人げない。もっとも、大人げというものは、使いどころになるとなぜか手元にない。


 清一は小さい頃からここを覗くのが好きだったらしい。好きな理由は、好きだから、としか言わなかった。ただ、釣瓶が水面に触れた時、身を乗り出す角度が変わった。俺はその動きを見た後で、井戸を見た。


 輪が広がった。清一の顔がほどけ、片方の目に雲が入り、口元から柳の枝が生えた。頭上を何かの鳥が通った。水の上では、枝と頬の間を、薄い腹が一度だけ滑った。やがて輪は収まり、十五歳の顔が戻った。戻る直前の水面を、清一はまだ見ていた。


 桶が汲み上がるまで、先生も何も言わなかった。


 井戸のそばには、小さな離れがあった。ここも清一の家の持ち物で、今は一人で使っているという。戸を開けると、乾いた墨と濡れた紙の匂いがした。南の窓には陽が当たり、反対の壁際には足首の高さまで反故が溜まっていた。丸めたものより、広げたままのものが多い。


 俺は部屋へ上がる前に、先生の帽子を受け取った。先生はパイプを懐から出しかけ、紙の多さを見ると戻した。窓際の座布団へ座る。その向かいに清一、横手に俺という形で、低い机を囲んだ。


 清一は汲んできた水を白い小鉢へ分け、残りを桶に置いた。硯には家から持ってきた墨がある。足りない分を少し磨り足す音が、戸の隙間から届く水路の音と重なった。


「その墨は、いつも使っているものですか」


「そう」


「紙も?」


「そう」


「水も、この井戸から」


「さっき見てただろ」


「確認です」


 俺が帳面を開くと、清一は露骨に嫌な顔をした。


「全部書くの」


「必要なことは」


「必要ないことばっかり聞いてる」


「まだ何も見せてもらっていませんから」


 先生が口元を袖で隠した。仲裁するつもりはないらしい。清一はもう相手をするのも嫌だというふうに紙を引き寄せ、そこへ一字、庭、と書いた。


 最後の払いが紙を離れた後も、線の勢いは白いところへ続いていた。清一はそれを窓辺へ置いた。次の紙には同じ字を書かず、別の字を書いた。三枚ほど並べて乾くのを待つ間、最初の一枚から目を離さなかった。


 机へ戻した時には、墨の表面の光が消えていた。清一は小鉢から水を匙で掬い、字の中央ではなく、払いの外側へ落とした。


「書いた後に水をかけるんですか」


「書いたからです」


 水が丸く盛り上がった。そこへ墨の端が触れ、細い黒が泳ぎ出した。紙の繊維を選ぶように分かれ、止まり、別のところから先へ進む。乾いていた線は腹を膨らませ、形のなかった白い部分が、その押し返された分だけ細長くなった。


 清一は匙を置いた。俺は待った。字の内側で二本の線が繋がると、清一は紙を横へ滑らせた。


「失敗ですか」


「違う」


「成功なんですか」


「そうじゃなくて。違うんだよ、これじゃ」


 次の紙へ水を落とした。今度は黒いところに直接触れさせず、二つの画の間へ水を置いた。片方から薄い墨が渡ってくるのを見て、清一は紙を傾けた。水は少しだけ移ったが、清一の欲しかったところへは行かなかったらしい。唇の内側を噛んだ。


「何かの形にしたいんですか」


「見えるんです」


「何が」


「分からない」


「分からないものが見えるんですか」


「だから見るんでしょう」


 声を荒らげたわけではなかった。その分、俺は返事に詰まった。清一はもうこちらに用がないように、三枚目を手元へ寄せていた。


 俺は水滴の数を記した。落ちた位置と、紙の乾き具合も書いた。滲みの端へ目を近づける時、清一が口を少し開くこと。そのまま息を止めること。違うと分かった時には、吐く息より先に肩が下がること。四枚目からは、そうしたことまで書き始めた。


 ほかに手掛かりがなかったのだ。


 家で見た書には、直しようのないほど整ったものがあった。こちらの紙は、筆の置き方も、水の加え方も一枚ごとに違っている。乱暴に見える時ほど、清一の目は動かなかった。机の端から紙が落ちかけても、その端を持ち上げることさえ惜しむようだった。俺が押さえると、文句を言わずにそのまま見ていた。


 陽が机の脚を越えた。窓辺へ置いた紙は乾き、濡れた紙に順々に場所を譲った。清一はもう、こちらの視線を確かめなかった。ある一枚では、墨のない端へ三滴を重ねた。その水は文字に届かず、乾いた後に淡い輪だけを残した。清一はそれを最も長く見て、やがて裏返した。


 俺は、裏返された紙が気になった。


 輪の内側に何かが見えたわけではない。だが、紙が伏せられた瞬間、誰かの話を途中で遮ったような感じがした。内容を聞き取れなかった話だった。それなのに、声の残りが喉の奥にあった。俺の喉に。


 唾を飲み、裏から透ける輪をもう一度見た。窓の外で、水が石へ当たった。


「どうしたんだい、神崎君」


「……この一枚も、記録しておきます」


 先生は俺の手元を見た。それから、小さく頷いた。清一に紙を借りようとすると、もう要らないと言われた。俺は角へ鉛筆で番号を振り、濡れていないところを持って机の隅へ置いた。


 次の一枚には、奥行きがあった。


 黒いところを見ても何もない。その下の、墨の届いていない白さを見た時だけ、知らない室内の距離が現れた。床も壁もまだない。ただ、向こうの隅へ歩いていくのに必要な歩数だけが、紙の上にあった。


 俺は万年筆の先を止めた。距離、と書いて、何の距離かを書けなかった。その間にも清一は次の水を落としていた。


 戸外から届く水音へ、薄い黄色が混じった。日の差す角度が変わったせいかと思ったが、黄色いのは光ではなかった。耳の中でそれが細く擦れた。机へ置いた俺の手の甲に、濡れた布の冷たさが一瞬載った。布などなかった。


 清一の視線を追った。どこを見ている。何があった。墨の濃いところか。それとも、あの短い線の切れ目か。


 目を凝らすと、清一の指が筆を締める強さまで、俺の指へ伝わるようだった。紙へ水が入る。その湿りを掌で感じる。まだ書ける。俺は距離の横へ、布、と記した。そういうふうに見えたのだと、後で先生に伝えなければならなかった。


 次に清一が書いた字は、読めた。


 ところが今、その字を思い出そうとすると、墨の抜けた細い場所しか浮かんでこない。帳面にもその一字はない。筆先が一度だけ紙に引っかかり、線に小さな傷を作ったことは覚えている。清一は直さなかった。窓辺へ置き、乾くのを待った。


 待つ時間が長かった。軒の雫が途切れ、また始まった。清一は自分の爪についていた墨を削りかけ、その手を膝へ戻した。先生は座布団の上で動かなかった。


 清一が紙を取り上げた。水を一滴、傷の脇へ落とした。


 黒い縁がほどけていった。広がるばかりだと思っていた墨が、一箇所だけ細く退いた。そこに白さが残った。濡れた紙の白さでも、窓から来る光でもない。それはほんの小さな、まだ何にも触れていない純潔だった。


「……あ」


 清一の手が止まった。


 先生は清一を見た。俺は紙を見た。白いところの端に、黒が一筋、寄り添うように動いた。清一の下唇が開いたまま震えた。


「……あった」


 白いところが、立ち上がった。


    挿絵(By みてみん)


 紙は机にあった。俺の膝も畳の上にあった。それなのに、目の前には人の背丈を越す余白があり、その奥で濡れた布がゆっくり折り畳まれていた。畳む手はなかった。折り目の一つから遠い部屋が開いた。椅子のない食卓に、林檎の影だけが六つ並んでいた。


 井戸の縁が天井を横切った。水面の方がこちらを覗いている。そこへ雪が積もり、雪の中から真昼の窓が幾つも開いた。窓枠は黄色い音でできていた。触れると指の腹へ寒さが貼りつき、その寒さには知らない人の息遣いがあった。


 俺は肩を引いた。引いた先にも、同じ光景があった。


 部屋が広くなったのではない。机の脚と俺の膝の間に、いくつもの場所が入り込んでいた。濡れた布の向こうでは、白い襟だけが戸をくぐった。誰も着ていない。襟の内側へ雨が降った。雨は床へ落ちず、木目に沿って横へ流れた。


 書こうとした。見た順に書けば、少なくとも順序だけは残る。だが白い襟を記す間に、その前からあったはずの窓が、まだ生まれていないことに気づいた。雪の上に机の脚が載っている。俺はどこへ座っている。


 清一が息を吸った。


 俺の胸が膨らんだ。


 ただ同じ時に息をしただけだ。それなら、なぜあの小さな胸の狭さが分かる。俺の肋骨はもっと大きい。筆を握り続けた中指の痛みなどない。ないはずの痛みを感じると、そこから、言いようのない喜びが押し寄せてきた。


 あった。ここにあった。


 知らない。見たことがない。それなのに、これだと分かったことが、声を出せないほど嬉しかった。名前をつけようとする俺の奥で、名前など追いつかない速さで、次のものを見たがる誰かがいた。止まらない。止めたくない。


「これだ」


 清一の声だった。見ると、彼は笑っていた。目元には涙が溜まり、口はうまく閉じられない。こちらを一度見たが、その顔に俺への言葉が浮かぶより早く、視線が紙へ戻った。


「これだったんだ。見える。まだある」


 その、まだある、という声が俺の内側でも鳴った。


 俺は帳面を膝から持ち上げた。身体が邪魔だった。目が二つしかないことも、耳が二つしかないことも、ひどく不便だった。白い襟の裏には別の白さがあり、林檎の影には匂いのない熱があった。一つ見落とせば、そこから何が抜け落ちるか分からない。先生へ伝えなければ。俺が見たものを、見たままに。


 頁の端へ指をかけた時、自分の手が二通りに見えた。骨の太い、爪の短い手と、墨の染み込んだ清一の手だった。どちらも動かせた。片方を選ぼうとすると、その間へ水面が入り、指のない手の感触だけが残った。


「神崎君」


 先生の声を聞き、安心しかけた。だが、その安心の入り込む身体がなかった。肩を探すと、濡れた布があった。声を返そうとすると、遠い部屋で何かが転がった。俺の声が、あちらの床にある。


 まずい、と思った。まずいと思うことのできる場所が、まだ残っていた。そこへしがみつこうとして、また白い襟の動きを見た。襟は井戸の暗がりへ沈みながら、内側に昼を抱いていた。あれを書いてからにしよう。あれだけは。まだ。


「藤四郎」


 先生が俺の名を呼び、左手を伸ばした。何を掴んだのか見えなかった。右手で懐から紙包みを出した。針が一本。それから、小さな糸巻。


 針と糸だった。


 何故だ、と言いたかった。声が床にあるので言えなかった。先生は針の穴へ糸を通し、端を揃えた。指先で小さな結び目を作った。その手つきがあまりにもありふれていて、俺はひどく混乱した。こちらは今、人間を続けられるかどうかというところにいる。


 ちくりとした。


 左の肩だった。痛んだので、そこに肩があると分かった。先生は肩のすぐ外に浮いていた白いものを寄せ、もう一度針を入れた。引かれた糸が光った。布でも肌でもないところを通っているのに、痛みは確かに俺のものだった。


「何を、してるんです」


 言えた。喉の中で、声が少し擦れた。


「縫っているんだよ。動かないでくれたまえ」


 先生の指先から俺へ、糸が一本渡っていた。張るたび、腕が肩の下へ戻った。掌に残っていた小さな手の感触が薄れ、俺の指の節がそれぞれ固さを取り戻した。膝が重かった。身体とは、これほど重いものだったか。


「痛いかい」


「……少し」


「我慢したまえ」


「はい」


 返事が早すぎた。先生がこちらを見たので、俺は縫われているところへ目を落とした。まだ腕の外側に、知らない部屋の明るさがくっついていた。先生がそこを指で寄せる。糸が通る。部屋は腕から離れ、俺は自分の袖の中へ収まった。


 糸が緩む一瞬が嫌だった。


 次の針を待った。痛いのを待っているのではない。先生の手まで続く細いものが、もう一度ぴんと張るのを待っていた。張れば、俺はこの側にいる。先生が指を動かすたび、ほどけたところを見つけてもらっていると分かった。余計なことを考えるな。俺はそう自分へ言えるほどには、俺に戻り始めていた。


 清一は、まだ紙の前にいた。水の入った匙を握ったまま、唇だけで何かを繰り返している。小鉢を寄せた時、墨のついた親指が内側へ触れた。透明な水に、薄い筋が一本解けていった。俺はそれを見て、ああ、また記録するつもりだな、と自分に呆れた。


 先生が俺の脇へ最後の一針を通した。引き寄せられた影が足元へ畳まれ、畳の目が膝の下に戻る。先生は糸を始末すると、俺の指から万年筆を抜き、帳面と一緒に机の乾いた隅へ置いた。


「ここにあるからね」


 俺は頷いた。目の前には、まだ井戸があった。壁の半分が水面になり、残る半分には、こちらのものではない戸が幾つも並んでいた。先生はその一つを指先でつまんだ。


 針が入った。


 今度は俺には痛くなかった。代わりに、窓の外の雪が少し持ち上がった。


「……先生」


「なんだい」


「それ、何を縫ってるんです」


「ここだよ」


「ここ」


「ほつれているだろう」


 先生が糸を引いた。井戸の石の縁と障子の桟が近づき、触れ合ったところから、石は井戸へ、桟は障子へ戻っていった。遠い部屋の床を拾うと、畳の端がこちらへ来た。白い襟をどこへ縫うか、先生は一瞬考え、窓の明るさへ一緒に折り込んだ。


 俺はその手元を見ていた。玄関のベルが鳴った時のことを思い出した。坂へ続いていた戸の外が、海辺に変わったこと。今朝は、雪の下へ出たこと。あれは外と内の結び目を緩めるのだと、先生は言っていた。


 緩める。寄せる。糸を通す。


「……待ってください、先生」


「なんだい」


「世界は、継ぎ接ぎってことですか」


 先生は針を持ったまま俺を見た。片眼鏡の鎖が、頬に沿って一度揺れた。


「面白い見方だね」


 否定しろ。頼むから、そこは否定してくれ。


 先生は上機嫌に、もう一針縫った。壁際に浮いていた雪の端が、見慣れた柱へぴたりと合った。先ほどまで歪んでいた光が真っ直ぐ差し込み、机に水滴の影を作った。こんなことをされた後では、あの柱を二度とただの柱として見られない。


 世界は様子がおかしい。


 俺は震える手をもう片方の手で押さえた。戻ってきたばかりの身体は冷えていた。怖かった。今も、机の下へ足を動かすだけで、どこかが再びほどけそうな気がした。それなのに、先生の針先から目を離すことができなかった。


 糸が引かれ、林檎の影が、影を落とすものを持たないまま夕方の光へ消えた。その最後を見られたことが、たまらなく嬉しかった。


「最悪だ。最高だ」


 口に出してしまった。清一が一瞬だけこちらを向いた。先生は笑わなかった。ただ、糸を切る前に俺の肩を軽く押さえた。その手の下で、俺の笑いが遅れて震えた。


 清一は新しい紙へ手を伸ばした。


 指が、紙を一枚だけ取れずにいた。二枚を引きずり、角を揃えようとして、今見ている書へ目が戻る。そのまま匙を持ち上げたところを、先生がそっと止めた。


「待ちたまえ」


「離して」


「まだ駄目だ」


「今なら分かる。もう一度やれば――」


「分からなくていい」


 清一の目が先生へ戻った。初めてその顔をよく見たかのように、眉が動いた。先生は匙を奪わず、水がこぼれない高さで手を添えていた。


「最初の一度を、二度目で説明してしまうのは惜しいよ」


 清一は何か言いかけた。言えずに息を吸い、それもうまく吐けなかった。唇の端だけが、どうしても笑う形になってしまうらしかった。


「……すごい」


「うん」


「こんなの、知らなかった」


「だから見つけたんだろう」


 匙が小鉢へ下りた。小さな音がした。清一は自分の膝へ両手を置き、指を握り、それからゆっくり開いた。誰かの手を借りていたことに、今気づいたような動きだった。


 机には、濡れた紙が残っていた。あれほど大きかった白いところは、爪で隠せるほどしかない。その隣に黒がある。覗き込めば、まだ奥がありそうだった。俺は座った場所から見るだけにした。


 清一は紙を捨てなかった。窓際へ移す時には、両手で支えた。


 先生は小鉢に残った水を、少し譲ってもらえないかと尋ねた。清一は頷き、鉢を差し出した。さっき親指から移った墨が底に薄く沈んでいる。先生は持参した小瓶へそれを注ぎ、数滴残ったところで止めた。


「作品の方ではないんですか」


「作品は彼のものだよ」


「では、これは?」


 先生は栓をした瓶を春の光へ透かした。水が傾き、底にいた薄い黒が、一度だけ宙へほどけた。


「生まれた時の水だよ」


 帰り際、清一が俺へ一枚の紙を差し出した。角に俺の振った番号がある。途中で借りた、輪しか残らなかった一枚だった。帳面と一緒に、忘れず持っていけということらしい。


「それも要るんだろ」


「記録には」


 清一は少し考えた後、手を引かなかった。


「……乾いたら、もう一度見る」


 俺は番号を帳面へ写し、その紙は返した。鞄の厚紙には、結局、何も挟まなかった。


 清一は離れに残った。庭から振り返ると、窓にあの細い肩が見えた。どの紙を見ているのかは、ここからでは分からなかった。町を戻る頃、朝の水路にはなかった細い枝が、石橋に引っかかっていた。北側の雪もいくらか痩せ、軒の下に濡れた木肌が現れていた。


    *


 塀の戸を先生が開くと、向こうに館の玄関があった。俺は跨ぐ前に敷居を見た。それから少しだけ、先生の手を見た。


 帰館してから、縫われた肩へ何度も触れた。


 傷はなかった。糸も出ていない。着物をずらして確かめても、いつもの青白い皮膚があるだけだった。なのに指を当てると、先生が糸を引いた時の、あの細い張りが戻ってくる。俺は袖を直してからも、もう一度触った。


「どうしたんだい」


 先生は机で小瓶の栓を確かめていた。


「……何でもありません」


 俺は帳面を開いた。途中から字がひどかった。横書きになり、行を踏み越え、端まで行くと小さくなっていた。それでも書こうとしたらしい。距離、布、と記した頁へ指を置いたまま、俺は顔を上げた。


「先生」


「なんだい」


「……もう、ほどけてませんよね」


「縫ったからね」


「そうですか」


 肩から手を下ろした。万年筆を持ち、清書のための新しい頁を開いた。机の向こうでは小瓶に札が結ばれている。先生が糸を引くのを見てから、俺は紙へ目を戻した。


 現象名、加水文体。蒐集物、井戸水、ごく微量の墨。


 紙の番号と水滴の数を書き写した。字の思い出せないところは、後で埋めようと欄を空けた。大きな余白があったこと、白い襟の内側へ雨が降ったことも記した。あの時、清一が最初に言った二言には鉤括弧をつけた。


 備考欄に、世界には縫い目があるらしい、と書いた。


 ペンを止めた。先生が言ったのは、面白い見方だね、だけだった。そんなことは覚えている。俺はしばらくその一行を睨み、らしい、の三字へ二重線を引いた。


 その横へ、小さく書き足した。


 先生曰く。


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