第三蒐集篇 『文字送り』
ルシアン先生は、死者の奥歯を植える村があると言った。
朝の茶を飲み終えたところだった。先生は砂糖壺の蓋をきちんと閉め、まるで午後の散歩の行き先でも告げるような調子でそう言った。俺はしばらく湯気の消えた自分の茶碗を見ていたが、聞き間違いではなさそうだった。
「植えるんですか。歯を」
「木通が生えるそうだよ」
「それは木通ではなく、歯から生えた何かでは」
「君は分類を急ぐね」
先生は楽しそうに微笑んだ。俺としては、急ぐも何も、奥歯と果実のあいだには普通なら越えがたい隔たりがあると思う。もっとも、この館で普通を持ち出すのは、雨の夜に傘をさして海へ入るようなものだった。
扉の鈴を鳴らすと、行き着いたのは山の裾だった。杉の影が長く、道はまだ朝の湿り気を抱いている。俺は周囲を見回した。集落らしい屋根はどこにもない。
「村へは繋げなかったんですか」
「繋げなかったんじゃないよ。繋がなかったんだ」
先生は、上へ延びる細い山道を指した。
「死者のそばにある場所は、あまり粗雑に結ばない方がいい。向こうも、こちらを見つけるからね。最後の距離くらいは、人間の足で行こうじゃないか」
その最後の距離が、存外どころではなかった。
濡れた落葉は靴の裏で滑り、土から露出した根は意地の悪い段差になっていた。苔のついた石を避け、細い沢を渡り、崖際の道を抜ける。途中には丸太を二本渡しただけの橋まであった。下では水が白く鳴っている。俺は荷を背負い、先生の採集道具の入った鞄まで提げていたから、橋を渡りきった頃には奥歯を噛みしめていた。
「先生」
「なんだい」
「まだですか」
「もう少しだよ」
その後、三十分ほど歩いた。
「三十分前にも同じことを聞きました」
「山の『もう少し』は長いものだよ」
「初耳です」
言い返すだけの息は残っていたので、俺はまだ大丈夫だったのだろう。やがて霧が薄くなり、谷の底に小さな村が現れた。棚田の水面が曇った空を映し、木の家々から朝の煙がまっすぐ上がっている。沢は村の中央を通り、畑の端々には木通の蔓が這っていた。青紫の実は、口を閉じたものと、熟れて裂けたものとが混じり、遠目には誰かが木々へ小さな唇を吊したようだった。
村は、俺たちが来ることを知っていた。先生が前もって文を出していたらしい。けれど客扱いされすぎることもなく、畑仕事の男たちは軽く会釈しただけで鍬を動かし続け、子供は沢で石をひっくり返していた。怪異がある土地には、もっと張り詰めた空気があるものだと思っていた。ここにはそれがない。ただ、洗濯物のそばにも、鶏小屋の脇にも、木通が普通の顔で伸びている。異様なものほど、長く暮らしの中に置かれると、日用品のような貌をするらしかった。
四十九日の家だという一軒で、俺たちは粥と山菜を出された。応対に出たのは、日に焼けた指をした年嵩の女だった。食事が済むと、女は俺たちを庭先へ連れ出した。畑の端には木通の蔓が這い、青紫の実をいくつもつけている。その根元を女が指で少し掘ると、湿った土のあいだから、白い奥歯が半分だけ覗いた。
「父のです」
女は言った。
「一番よく使った歯を、ひとつ植えます」
「なぜ奥歯なんです」
すると女は、さも当たり前のことを聞かれたように、俺の顔を見た。
「食いしばるでしょう」
「何をです」
「言わなかった時に」
答えは簡単だった。だからかえって、胸の中へ真っ直ぐ入った。さっき山道で噛みしめていた自分の歯が、急に重く感じられた。
この村では、死者の口から丈夫な奥歯を一本だけ取り、家の畑へ植える。歯の根と土の根が絡み、四十九日をかけて蔓になる。その間に、死者が言わなかった言葉が実るのだという。遺言でも、真心でもない。誰にも話さなかった不平、飲み込んだ嘘、途中で捨てた問い、意味を持つ前に口の奥で消えた断片。木通はそれを抱えて育ち、四十九日目の朝、実を裂いて吐き出す。
「全部を言えば、困ることもありますからね」
女は、奥歯を覆うように湿った土を戻した。
「死んだ人にも、生きた人にも」
俺はうなずきかけて、止めた。言わなかったことが、その人にとって何だったのかは分からない。言えばよかった言葉なのか、言わなくてよかった言葉なのか、ただ言う機会を失っただけなのか。そんなことまで、残された者が決めていいはずはない。
先生は畑へ身を屈め、歯と蔓のつながるあたりを熱心に見ていた。好事家の顔をしている。それでも女に、歯を抜く時のことや、植える家の決まりを、必要以上には尋ねなかった。採集のために手を伸ばす人ではあったが、他人の手の内をひっくり返す人ではない。
「明日は文字を拾います」
女はそう言ったあと、立ち上がった。
「けれど、並べてはいけませんよ。文章にしてもいけない」
俺は思わず帳面へ手をやった。文字があれば、順があると思ってしまう。記録するなら、なおさらだ。
夜、借りた部屋の障子を開けると、谷は静かだった。木通の蔓だけが闇に青く沈み、沢の音が遠くで絶えず何かを洗っている。先生は廊下で採集鞄を整えていた。危ないものでも美しいものでもない、ただ死者のそばに残った習慣を前にして、いつものように目を輝かせている。
「先生は、あれを取るんですか」
「さて。明日になってから決めよう」
「言葉をですか」
「言葉は流すものだそうだ。流すためのものを、わざわざ持ち帰るのは無粋だろう」
先生の返事は軽かった。しかし、その軽さには触れてはいけない棚をきちんと避ける手つきがあった。
眠る前、俺は帳面に山道のことだけを書いた。鈴から村までの時間、沢の幅、丸太橋の位置、畑に植えられた歯の数。肝心の言葉については、まだ一字も書けなかった。明日になれば拾えるものを、今から予測して分類する気にはなれなかった。
翌朝、その家の畑の木通はすべて裂けていた。
紫の皮が朝露を含み、果肉の白いところを見せている。その周りの土、葉、石、蔓に、黒い文字がこぼれていた。筆で書かれたものではない。細い虫の脚跡にも似て、けれど確かに読める字だった。
あ。寒。赤。母。嫌。まだ。魚。三円。帰。どうして。
女たちは笊を持ち、露や泥ごとそれを拾っていく。俺は一つの「帰」のそばに「ら」と読める字を見つけた。続ければ何かになる、と頭のどこかが言った。手を伸ばしかけて、昨日の言葉を思い出す。
「並べちゃ駄目ですよ」
自分へ言い聞かせるように呟くと、隣の女が小さく笑った。
「でも、もとは一人の人間が言わなかった言葉でしょう」
「そうでしょうね」
「なら、順序があるのでは」
「さあ」
女は笊へ「母」を落とした。
「口の中にあったものの順序なんて、誰にも分からんでしょう」
「記録するなら――」
「神崎君」
先生が俺を呼んだ。声は穏やかだった。
「言わなかったものを、死んだ後から生者が文章にしてやる必要もあるまい」
俺は口を閉じた。文字を読むことと、言葉を完成させることは、同じではない。分かっているつもりだった。けれど俺は、散らばったものを見るとすぐ、置き場所を与えたくなる。
拾った文字は沢へ運ばれた。笊を水に沈めると、泥と木通の汁、草の細片とともに、黒い字がほどけていく。「母」は石に触れて裏返り、「帰」は「三円」と重なって、それから離れた。どれもただの字になり、誰のものだったかという手掛かりを、水の速さに渡していく。
村人は流れの弱い場所へ薄い和紙を沈めた。墨だけが紙の繊維へ沈み、文字は乱れたまま黒い斑となって残る。それをそっと引き上げ、最後にもう一度、下流へ放す。紙は少し浮かび、すぐ水を吸った。黒い斑はにじみ、隣の紙の文字と混ざり、谷の外へ流れていった。
子供の一人が流れていく紙を追って、岸を数歩走った。母親らしい女が名を呼ぶと、子供は振り返り、惜しそうに手を止めた。あの紙は川下の村へ着く前に沈むのだろう。沈んだあと、魚の影を横切り、石の下へ溜まり、やがて土へ混じるのかもしれない。誰の言葉だったか、誰も知らない場所へ、言葉は行く。
それが少し羨ましいと思った。俺なら帳面に書き留め、頁番号を振り、どこから来た言葉かを欄外へ残したくなる。けれど、すべてのものに帰るべき棚があるわけではない。流れるためのものには、流れる先が棚なのだろう。
先生は最後まで手を出さなかった。
「取らないんですか」
「流すためのものだろう?」
そう言って、先生は水面から目を離した。蒐集とは、欲しいものをすべて手元へ置くことではないらしい。
その後、先生は文字の消えた畑を歩き、木通の葉を一枚だけ見せてもらった。採ることはしなかった。代わりに、昨日まで文字を抱えていた実が、儀式のあとには食べ物へ戻る、その移り方を長く眺めていた。
文字を吐き終えた木通は、もうただの木通に戻った。村人たちは青紫の実を採り、薄く切った。断面には種と、小さな歯のような白い硬いものがいくつも混じっていた。植えた歯そのものではないという。女たちはそれを指先で一つずつ取り除き、白い果肉を外してから、残った紫の皮を細く刻んだ。それでも俺は、その手元から目を逸らした。
刻んだ皮を水へさらすと、最初の水はすぐ墨のように黒くなった。替えても、また黒くなる。
「まだ出ますね」
「言葉というのは、案外染みるものらしい」
先生は鍋を覗き込んだ。何度目かの水が澄むまで待ってから、砂糖を入れて火にかける。紫の皮はしだいに透け、甘い匂いが台所に満ちた。そこにはもう文字も、死者の声も、黒い水もなかった。ただ木通の皮が、ゆっくり砂糖を含んでいた。
俺は火のそばで、鍋の縁へ浮く泡を見ていた。あれほど拾いたかった文字が、晒し水の黒さと一緒にどこかへ行ってしまったことを、惜しいとは思わなかった。惜しむ資格がない、と言った方が近い。それでも、何も残らなかったわけではない。言葉にならなかったものが、甘く煮えた木通として、目の前にある。記録には、その順番だけを書けばいいのかもしれない。誰の言葉だったかを、俺が勝手に補わずに。
帰り際、女は去年の木通の砂糖煮を小瓶に詰めてくれた。
「……これは」
「木通ですよ」
「それは分かります」
「今年のじゃありませんよ」
「そういう問題では……」
先生はすでに一切れ食べていた。
「甘いよ。君も食べるかい」
覚悟を決めて口に入れると、砂糖の甘さのあとに、青い木通の苦みがほんの少し残った。知らない誰かの記憶も、言葉も、口の中からは出てこなかった。拍子抜けするほど、ただの菓子だった。
先生は瓶の中を覗き込んだ。
「こちらは譲ってもらえるかい」
女は笑った。
「食べるなら、どうぞ」
「食べます」
先生は即答した。俺は慌てて先生を見る。
「標本にするなら、食べない方が」
「食べたものも、記録には残るよ。君が書くならね」
言われて、俺は瓶を受け取った。重さは拍子抜けするほど現実的だった。硝子と砂糖水と、柔らかく煮た木通。持ち帰るものが言葉ではないことを、手のひらが先に理解した。
山を下りる途中、俺は瓶の重みを確かめた。昨日まで口だったもの。今朝まで文字を吐いていたもの。いまは紫色の砂糖煮だ。
「先生。これも蒐集品ですか」
「もちろん」
「食べるんでしょう」
「蒐集品は食べてはいけないのかい」
俺は返す言葉を失った。死者の言葉は水と一緒に下り、俺たちは自分の足で山を下りている。分類欄に何と書くべきかは、まだよく分からない。けれど、分からないまま瓶を落とさずに持って帰ることならできた。
館へ戻った夕方、先生は湯を沸かし、紫の砂糖煮を小皿へ二切れ置いた。俺は帳面を開き、まず日付を書いた。その横で、先生がもう一切れつまむ。
少し迷ってから、俺も食べた。




